十六
喫茶店の前で真理亜と遭遇したのは、前回同様必然だった。仕組まれたものとも知らず、真理亜は小走りで近寄ってきた。
「レポートの作成ですか?」
真理亜には、自分はカウンセラーだと伝えている。嘘ではない。メンタルに限らず日進月歩する医療界では新しい技術や知識の習得が継続的に求められる。セミナーに参加してはレポート作成したり、落とし込んだりするのはそのためだと、説明していた。
「いいえ、今日は息抜きです。さすがに根を詰めすぎました」
オフだということをさりげなく強調してから「野口さんは?」と訊ね返した。
「ちょっと人と会う約束をしていまして」
三杉牧師のことだと尊には察しがついた。先日の非礼を詫びるため、仕方なく。
向こうはさしずめ真理亜と一緒にお茶でも飲んで、親密度を上げる作戦なのだろう。尊は笑い出しそうになった。なんて悠長なのだろう。それでは到底自分には敵わない。
「この後、お時間はありますか?」真理亜は喜色を滲ませて言った「もしよろしければお食事でもいかがでしょうか。先日のお礼です。ご馳走させてください」
期待に満ちたその瞳を、尊は何度も見てきた。あわよくばという淡い欲望が見え隠れする――堕ちた。詰みだ。依頼達成。あとはとびっきりの笑顔を作って、真理亜からのお誘いを受けるだけだ。
どうしてこんなに簡単にことが運んでしまうのだろう。
自分でそう仕向けておきながら尊はやるせなくなった。それでいて胸に暗い欲望が満たされていくのを感じた。
ほらやっぱり。耳元で悪魔が囁いた。愛を神聖視しておきながら人はこんなにもたやすく心を移す。男だろうが女だろうか関係ない。所詮、この程度なのだ。
「では、お言葉に甘えて」
「尊さん!」
聞き覚えのある声で呼ばれて振り向いた。
真っ赤な顔をした望が、どういうわけか潤んだ瞳でこちらを睨んでいる。赤を基調にしたワンピースを着ていて、いつもより女性らしさを強調させていた。鞄を持つ手は不自然なほど震えている。おそらく、怒りで震えている設定なのだろう。
動けずにいる尊に向かって、望はつかつかと迫った。
「酷いわ! 私とはお遊びだったのね!」
三文芝居。しかもひと昔前の昼ドラ風だ。
人は呆れると本当に物が言えなくなることを、尊は身をもって知った。これで自分と真理亜を引き離す算段だとしたら、あまりにもお粗末過ぎる。
「なんとか言ったらどうなの!」
「演技下手で「私のことをどう思っているのよ!」
耳障りな甲高い声で、尊の言葉を遮る望。もはや自棄になったのか望は大胆にも尊に摑みかか――ろうとして、勢い余って抱きついた。思わぬタックルを喰らってよろけそうになった尊は、倒れることだけは後ろ足で堪えた。
「いい加減にしてください。的場さん」
ため息をつきつつ、望の肩に手を置いた。うんざりした。凡人だから、結局この程度のことしかできないのだ。大根役者を引き剥がすべく手に力を入れようとして、固まった。
稚拙で、浅はか。
異能の有無以前の問題だ。自身にしがみつく手なんて容易く振り払える。特別な能力など必要ない。ただ少し、力を入れるだけで。
だが、尊の腕は動かなかった。意思の伝達が上手くいかない。鉛のように腕は重かった。
(馬鹿げている)
望に異能者の苦悩が理解できるはずがない。異能を持たない人間ごときに。他人に正義を押し付け、普通の枠組みに収めようとするその傲慢さには吐き気がする。
何も知らないくせに。何の力もないくせに。繋ぎ止める力もないくせに。
それを知っていてなお掴もうとする望を、尊は振り払うことができなかった。
信一は勘違いをしている。
望は希を閉じ込めたのではない。囚われたくて希は望のそばにずっといるのだ。
だから部屋に引きこもって出てこない。そう望んでいるからだ。
閉じ込めていて。何処にもやらないで。ちゃんと掴んでいて。はみ出さないように、迷わないように、逸れてしまわないように、遠くにいかないように。ずっと、ずっと、そばにいてほしい。
尊は目を伏せた。
堪らなかった。
多くの人と身体を重ねたが、誰一人として尊を引き止めてくれはしなかった。決して相容れないのだと絶望して、離れていった。体当たりで、なりふり構わず、精一杯邪魔しようともしなかった。自分と関わってはくれなかった。
恐る恐る望の背中に腕を回す。羊を彷彿とさせる黒い癖っ毛を撫でた。
「あとで覚えておいてください」
耳元で囁くと抱き込んだ身体が大げさに跳ねた。くすくすと小さく笑って、尊は望に向き合った。
「誤解ですよ」
自分でもわかるくらい胡散臭い笑顔で告げた。周囲の人間に聞こえるように。
「私にはあなただけです」
せっかく三文芝居に乗ってあげたのに。
苦虫を嚙み潰した顔をした望に、尊は喉を鳴らして笑った。