十一
電車に揺られている間、自身のスマホをぼんやりと眺めていた三杉が呟いた。
「なんかさ、その野口って野郎を殴り飛ばせば丸く収まるような気がするんだけどな」
暴力行為の是非はさておき、三杉の言うことに同感だった。一番悪いのは二股をかけている旦那だ。千尋も真理亜も被害者だと言えよう。
「今度、野口氏と千尋さんに会ってみるよ。円満はさすがに難しいだろうけど、なるべく穏やかに別れる方法があるかもしれない」
「頼むわ。しかし……ほんとわかんねえな」
三杉は頭をぼりぼりとかいた。
「裏切られてもあきらめきれないものなんかね」
「愛は論理を超えるんだよ」
「愛、ね……」三杉は皮肉気に口端をつり上げた「俺には女の意地の張り合いに見えるけどな。要するに負けたくねえんだろ。真理亜さんも、千尋さんも」
「一つ教えてあげよう。女性のそういう暗黒面を黙って抱擁する器がないから、あんたはまともな恋愛ができないんだ」
彼女いない歴が年齢と同じの牧師は悪態をついた。
「俺だって、好きな――気になる奴くらいいるわ」
「はいはい今度はどのサイトで知った方ですか? 言っておくけど、ネットで二、三コメントを交わした相手とは『出会った』内に入らないからな」
「一目惚れ」
望は隣に立つ三杉をまじまじと見た。
「マジで?」
「ああ。でも無理だと自分でわかってる」
「なんで。断られたのか?」
「相手にもされてない上に……歓迎されないだろうな、牧師だから」
同僚としてはもっと追及するべきなのだろうが、いつになく肩を落とす三杉の姿に何も言えなくなった。あの口にするのもはばかれるほど痛々しいポエムの相手。今回の件を引き受けたのも、報われない恋心を吹っ切るためなのかもしれない。
にわかに辛気臭くなった雰囲気を払拭するためか、唐突に三杉は「お前、レビ記嫌いだったよな」と言い出した。
「民数記も付け足して。大嫌い」
聖書全六十六巻の中でもっともつまらない箇所がレビ記と民数記だと、望は断言する。物語的要素がほぼなく、ひたすらに『神に選ばれし民』はどのように生きるべきかについて延々と書き連ねてある。要するに、規定集のような箇所なのだ。
規定の多さもさることながら、その内容もひどい。自分の母を犯してはならない、女と寝るように男と寝てはならないなどはまだいいとして、死んだ動物を食べてはいけない――踊り食いならばいいのかと突っ込みたくなるもの。安息日に仕事をするものは死刑に処すだの、理不尽なものなど、とにかく現実味がない。
日々の生活規範から祭儀の規定まで、事細かく定められていて、全てを守れる者はいないというのが現在の教会の見解である。神の目から見て、人間というのは規定すら満足に守れない、それほど罪深い存在であることを認識される箇所だ。
そこに、望は悪意というか、神の意地の悪さを垣間見る。守れもしない決まりを人間に押し付け、罪に定めているように思えるのだ。
「神からすれば、牧師だろうと娼婦だろうと人間なんてみんな穢れた存在なんだろうな」
そもそも人類が清く正しければ、イエス=キリストが十字架に掛かる必要はなかった。今さらなことを口にする三杉が、望には奇妙に思えた。恋をすると頭のおかしい奴はもっとおかしくなるらしい。
南浦和駅で望は電車を降りた。教会への帰りがてら、三杉の想い人についてあれこれと想像をめぐらす。教会関係者。歓迎されないとなれば、不倫か。三杉よお前もか。
いや、同じ牧師というのも考えられなくはない。牧師同士の結婚はままあるが、昨今の牧師不足が懸念される中では必ずしも歓迎できることではないのだ。
二人の牧師が結婚すれば、当然ながら日曜日の礼拝は夫婦で同じ教会で守りたい――と考える。そうすると一つの教会に二人の牧師がいることになるのだ。無牧の教会が多数あるこの状況で、そんな贅沢は正直歓迎できない。
同じ牧師だな。
結論付けた所で、望は見覚えのあるマスク野郎と道端で遭遇した。
「早いお帰りですね」
ここ最近週一でやってくる魔性の青年もとい自称『縁切り屋』の永野尊だった。今日も今日とて希の食事目当てにのこのこやってきたらしい。
「いかがでしたか? 高級中華のお味は」
「最高だったよ」
望は安っぽいロゴ入りのビニール袋を掲げてみせた。庶民的な価格で中華を提供する有名チェーン。尊は大方を察して鼻で笑った。
「それは残念でしたね。で、両手に持ったその袋は一体なんです?」
「土産」
望はビニール袋の中を覗き込んだ。
「炒飯とニラレバとエビチリと回鍋肉に、」
「散々ご馳走になったんでしょう。まだ食べるんですか」
「私はつまむ程度。でもあんたと希もいるから余裕でしょう」
深い意味はなかった。が、尊は何やら衝撃を受けたらしく、切れ長の目を見開いた。
「君は……」
尊は口を噤んだ。わずかな逡巡の後に苦笑混じりで「相変わらずですね」と呟く。
「胡麻団子もあるよ」
「ではそこのコンビニでお酒を買いましょう」
もちろん、尊の奢りだ。暗黙の了解。望に異論はない。安いとはいえ、せっかくの中華だ。ビールや紹興酒で美味しく食べたい気持ちはわからなくもない。しかし、尊はもっぱらワインを好んでいた。
「珍しいな」
「今日だけです」尊はきっぱりと言った「今日は、飲みたい気分なんです」
望の勘違いかもしれないが、自分に言い聞かせるように言った尊は、ほんの少し泣きそうな顔をしていた。