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清くも正しくも美しくもない  作者: 東方博
四話 サロメの接吻
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 マスク取り出して装着。ホテルから出たところで、すぐさまタクシーを拾う。後部座席のシートに身体を預けて、尊は大きく息を吐いた。

 千尋に限ったことではなかった。

 男性は無論、女性からも言い寄られる。そういう目で見られることには慣れていた。男娼扱いされたことだって、一度や二度のことではない。生理的な嫌悪感にも慣れてしまった。今さら抵抗するだけの気概も矜持も尊にはなかった。

 ただ、疲れる。とてつもなく。

 自分の中が空っぽになってしまったような空虚感。倦怠感に考えることさえ億劫になる。

(牧師の娘……か)

 真理亜が思い浮かぶはずなのに、全く違う人物がひょっこり顔を出す。牧師と聞いた途端に結びつけてしまう自分が滑稽だった。あんなにお互いに嫌っているのに。

 尊は自嘲気味に笑って、運転手に行き先を告げた。

 閑静な住宅街でタクシーを降りる。千尋からもらった封筒から二枚取り出して運転手に握らせた。ひどくつかれたな、とぼんやり思いながら、ふらふらと歩いた。

 たどり着いたのは自分には最も相応しくない場所だった。せめて正面口から入る無礼だけはしまいと裏口――牧師館のインターホンを鳴らした。

 水曜日は朝と夕方に祈祷会が行われる。だから、ほぼ確実に在宅していることを尊は知っていた。が、応答はない。何か緊急の用でもあったのだろうか。顎に手を当てる尊の目の前で、玄関のドアロックが解除された。

『どうぞ』

 インターホンから女性の声。的場希だ。備え付けのカメラで尊の姿を確認したのだろう。

 お言葉に甘えて上がらせてもらうことにした。はかったかのように玄関からリビングまでの照明が一斉につけられる。

『ごめんなさいね。のんちゃんは今日、外食なの』

「約束していたわけではないので、お気遣いなく。ただ、珍しいですね」

 時刻は午後の八時半。祈祷会が終わってすぐ出かけたのだろう。ずいぶんと慌ただしい。やや拗ねた声で希は答えた。

『牧師三人で食事ですって。高級中華をご馳走になるそうで勇んで出て行ったわ』

 中華料理に自分は負けたのか、と尊は思った。

 たしかに約束はしていなかった。しかしここ二ヶ月は毎週訪問していたのだから、少しは考えてくれてもいいような気がした。

(まあ……親睦を深めることが目的ではなかったのですが)

 尊が欲しかったのは設楽牧師の娘――真理亜の周辺情報だ。世間一般から見て、ただの派遣社員だとしても、教会内では重要な地位についている可能性はあった。

 それに父親である設楽牧師の教会内での立ち位置、主義や性格も把握したかった。父親から攻めるのも一つの手だと考えていた。

 ということで、尊はそれとなく望と希に探りを入れていた。情報は多いに越したことはない。結果的に有益な情報も手に入った。各地の教会を束ねる中会のトップ――議長が設楽牧師だった。厳格な人物で自分の娘にもかなり厳しい教育を施したらしい。真理亜は父親とそりが合わず、家を半ば飛び出す形で一人暮らしを始めた。

 高い地位についていて、古典的な厳格な父親――動かすのに好都合な人種だ。えてしてこのタイプは体面を重んじる。外聞の悪いことは極力避けようとするだろう。

 娘が父親ほどの歳の離れた男と交際し不倫騒動に発展。これほど父親を悩ませる案件はない。

 千尋は真理亜に夫を裏切らせることに執着しているが、二人の破局こそが本来の目的だ。その点では、真理亜の父親を介して揺さぶりをかけるのは非常に有効な手段だと尊は考えた。

『三杉牧師と設楽牧師の三人で。お土産包んでくるって言ってたけど、どうかしらね?』

 やはり望の所にまで話が及んだか。設楽牧師としては内々に事を納めたいのだから、口止めがしやすい新米牧師二人に頼んだのだろう。想定の範囲内だ。問題は、どういう解決方法を望んでいるのか、だ。バレるのを覚悟で望から探るか、それとも――

 尊は三杉という男の顔を思い浮かべた。人の良さそうな牧師だった。

 峰崎教会の若手牧師。望とは神学校で同期だったこともあり、今でも親しくしている『友人』だとか。何度か二人が一緒にいるところを見たことがある。

『気になる?』

 意味ありげな問いかけに、尊は一瞬返答に困った。設楽牧師の件ではなく、三杉のことだろうと解釈して「何のことですか」と惚けた。

『大丈夫よ。のんちゃんは誰かのものにはならないから』

「献身していますからね」

 とはいえ、カトリックの神父やシスターとは違って、牧師は婚姻が許されている。狭い業界なので牧師同士の結婚もよくあると尊は聞いている。

『私を置いていくはずがないもの』

 確信めいた口調だった。

 朝になれば太陽が昇るのと同じように、定められた摂理を語るかのように。盲目的とも言うべき信頼だ。

『だからごめんなさい』

 無駄だから。どんなに挑発しても、揺さぶりをかけても望は変わらない――だから、あきらめて。

『のんちゃんは、私の妹なの』

 希の声には優越感がにじみ出ていた。

 尊は的場希の姿を見たことがない。いつも声だけだ。望に似ているのか。天然パーマなのか、ストレートヘアなのかもわからない。

 しかし、これだけはわかる。

 今、希は嗤っている。


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