七
真理亜がアパートのエントランスに入った時、集合ポストの前で住人が数名たむろしていた。顔を見れば挨拶はする程度の知人も混ざっている。が、皆一様に真理亜の姿を見るなり、弾かれたように目をそらし、あとずさった。
嫌な予感がして自分の部屋へと向かう。
案の定、真理亜宅のドアには「強欲女」「悪女」「死ね」「金の亡者」だの罵詈雑言を殴り書いた紙が貼り付けられていた。
犯人はわかっている。千尋だ。
暇を持て余した専業主婦がやりそうな嫌がらせだ。
真理亜は素知らぬ顔をしてガムテープで貼られた紙を一枚一枚剥がしていった。どこかで千尋が自分の反応をうかがっていたとしたら、傷ついた様子を見せたくはない。絶対に。真理亜は唇を噛んだ。悔しさに指先が震える。
「おや」
背後から低く艶やかな声。真理亜は反射的に振り向いて、息を呑んだ。
「これはまた、典型的な嫌がらせですね」
絵に描いたような長身痩躯の美青年が立っていた。
艶やかな黒髪。垂れ気味の、しかし整った印象を少しも損なうことのない涼しげな切れ長の目元。とおった鼻筋も薄い唇と絶妙なバランスを描いている。一目で高級とわかる仕立ての良いスーツを、嫌味なく着こなした青年だった。
「あなたは?」
「通りすがりの者です」
嘘だ。懐疑的な眼差しを向けると青年は小さく肩をすくめた。
「人だかりが見えまして、何かあったのかと」
「見ての通りです。お騒がせしてすみません」
おざなりに謝罪して真理亜は作業を再開した。跡が残らないようにガムテープを剥がすのは意外と骨が折れる作業だった。
「警察に相談されてはいかがでしょうか」
「訴えられると思います?」
真理亜は「悪女」と書かれた紙を掲げた。他人の夫と関係した不倫女のたわ言と思われて終わりだ。
「ではせめて証拠写真を撮ることをお勧めいたします。いかな理由であれ、他人宅のドアに誹謗中傷のビラを貼るのは犯罪です」
なるほど。たしかに写真くらいは撮っておいた方がいいような気がした。真理亜はスマホを取り出して何枚か撮影した。
「証拠になりますので、ビラもまとめて保管しておいては?」
「あなた、詳しいのね」
弁護士か探偵だろうか。
「私も何度かこのようなことをされた経験がありまして。普通の方よりは後始末にも慣れております」
「あなたも?」
「ええ。私の場合は少し特殊な理由で、女性の方から恨まれることが何度か」
ガムテープを丁寧に剥がしながら青年は話した。どことなくこなれた感じがした。こんな美男子が女性の恨みを買うことがあるのだろうか――いや、美貌の持ち主だからこそ、羨望や嫉妬を買うのかもしれない。
謎の青年の手伝いもあり、比較的早く玄関ドアは元どおりの様相を取り戻した。
「ご親切にありがとうございます」
「いいえ、とんでもない」
瞳に笑みを滲ませて青年は言った。
「あまり気を落とさないでください。意外によくあることですから。では、失礼いたします」
こちらが驚くくらいあっさりとした引き際だった。
暗に礼を匂わせて部屋に上がり込んだり、連絡先の交換を希望してくるかもしれない、と警戒していただけに真理亜は拍子抜けした。自意識過剰さを思い知らされ、恥ずかしくなる。見た目通り、聡明な青年のようだ。
(もし今度またお会いする機会があったなら)
珈琲の一杯くらいはご馳走して差し上げようと真理亜は思った。