三
望が牧会をしている武蔵浦和教会は閑静な住宅地にある、こじんまりとした教会だ。
プロテスタント派で会員数は約六十人。毎週の礼拝出席者数はだいたい四十人弱とそこそこ規模は大きい。とはいえ、礼拝もイベントもない平日はほとんど人の出入りがなく、ただのちょっと大きな民家にしか見えない。
玄関は一階の教会用と二階の牧師館用とで二箇所に設置されている。ポストも同様だ。望は教会用の正面玄関前を通り過ぎて外階段を上り、二階の牧師館用玄関から帰宅した。
「ただいま」
誰もいない玄関で挨拶する。返事はない。しかし足元には来客用のスリッパが用意されていた。さらに綾乃を伴ってリビングへ向かうと、テーブルの上に二人分の紅茶と手作りクッキーがスタンバイ完了。目を見張る綾乃に望は椅子を勧めた。
「姉が用意したものです。どうぞ」
「お姉様と同居されているのですか?」
「ええ、二人で暮らしてます。姉はあまり外に出たがらないので」
教会に誰が来ようと居留守を決め込み、頑として姿を現さない。事情を知らない人から見ればただの引きこもりだ。
必要以上に語ろうとしない的場家の複雑な事情を察したのだろう。綾乃はさらに詳しく訊ねるような真似はしなかった。紅茶とクッキーを口にして、一息ついてから本題に入る。
「先日はご迷惑をお掛けしました。まさかあんなことになるなんて……」
「いえ、澤井さんのせいではありませんし」
想像だにしなかっただろう。誓約時に、公衆の面前で婚約破棄されるなんて。
「私こそ大変失礼いたしました」
望は深々と頭を下げた。
「自分に嘘はつけない」と木下直也は言った。
「迷いのある状態で結婚するのは綾乃に対して不誠実だと思う」
結婚当日――異議申立てを受けて騒然とする礼拝堂から、新郎新婦(になるはずだった二人)と、その親友二人を別室に連れ出した時だった。どういうつもりなのかを問いただす新婦の親友に向かって彼はそう釈明したのだ。
「結婚しても、上手くやっていく自信もないし、とにかく一人になりたい」
誠実なのは結構だが、直也氏にはまず誓約中にドタキャンする迷惑さについて考えていただきたかった。
血の気を失い、今にも倒れそうな花嫁に代わって、今度は新郎側の友人が「迷いというのは具体的にどういうことなんだ?」と訊ねるが、彼は押し黙って答えようとしない。
担当のブライダルプランナーもマネージャーも困り顔――となれば、牧師としてすべきことはただ一つ。
「では結婚の誓約はなさらない、ということですね。お疲れ様です。失礼いたします」
「ちょっ……」
踵を返した望の裾をマネージャーが掴む。
「結婚式をしないなら牧師がここにいる必要なんてないでしょう」
「それはそうですが」
マネージャーは察しろとばかりに視線を新郎新婦及びその友人に視線を投げた。
一向に解決の目処が立たない話し合い。前代未聞の事態なのだから致し方ないが、参列者を放置したままにするわけにもいくまい。事情はさておき、とりあえず解散させろよ。
望は両の手を強く打った。乾いた音は思ったよりも大きく響き、一同の視線が集まる。
「これからのことを話し合う前に新郎じゃなくて、木下直也さんにはすべきことがあります」
望は自分の襟に付けていたマイクを外した。呆気に取られている直也の襟に装着してやる。
「え?」
「今おっしゃったことを参列されている方々にお伝えください。ご多忙の中の貴重な休日に手間暇かけてお召し物を用意して遠路はるばるお二人のご結婚を祝福するためにお越しくださった方々が『とにかく一人になりたいし自信もないので結婚式は取りやめます』という誠実なご説明でご納得されるかどうかは甚だ疑問ですが、まあ、そう言う他ないでしょう」
もっとも結果は火を見るより明らかだ。
新婦ほか友人ですら納得できていないのだから、参列者が大人しく帰るはずがない。
ここまで言われてようやくことの重大さがわかってきたのか、直也は蒼白になった。しかし、もう遅い。
「どうぞ力いっぱい『誠実』で正当な異議申し立ての理由をご説明ください。お一人で」
何やら喚く直也を引きずって、礼拝堂に繋がる扉を開ける。
「ま、待っ――」
「ではシャローム」
平安を祈る別れの挨拶を唱えて直也を突き出し、扉を閉めた。
その後どうなったのかは知らない。
知りたくもなかったので、望はいただくものはいただいて、さっさと帰った。