四
聞き覚えのある低い声。黒のお洒落なスーツ姿。細身の男性――間違いなく尊なのだが、その顔は羊のお面に覆われて見えない。それも子供向けのタッチで描かれた、なんとも可愛いらしいイラストだ。アンバランスにも程がある。
「そろそろお引き取りを」
勢いを削がれた男に向き直り、尊は優雅に一礼した。
「希様はお風邪を召されておいでです。お優しい方ですから、万が一にも風邪をうつしてしまってはいけないと思い、どなたとも会われないのです」
よくもまあ真っ赤な嘘を滑らかに話せるものだ。口を挟もうとした望の腕を、尊は後ろ手で掴んだ。何も言うなと言いたいらしい。
「風邪?」
「こちらの説明が至らず申し訳ございません。希様へのご伝言とお手紙でしたら、僭越ながら私がお預かりいたします」
男は値踏みをするように尊を爪先から頭のてっぺんまで一通り眺めた。
「なぜ、仮面を?」
「顔に傷がございまして。無礼をお許しください」
尊は名刺を差し出した。
「申し遅れました。私、心療内科医の永野と申します。今日は希様のカウセリングのためこちらへ参りました」
「こんな朝早くから?」
「訪問診療自体、一般的には行っておりません。ですが……」意味ありげに間をおいてから尊は言った「他ならぬ希様のご希望ですから」
特別扱いを匂わせれば、男は納得した。
「では、ご伝言をお願いできますか?」
「はい。喜んで」
尊は快く手紙と伝言を預かり、男にお引き取りいただいた。
「信一様にくれぐれもよろしくお伝えください」
見送りも完璧だ。心なしか上機嫌で撤退する男。その後ろ姿が見えなくなった途端、尊は態度を一変させた。
「あなたは馬鹿ですか」
先ほどまでとは打って変わって呆れ果てた声。
「事情はお察しいたしますが、挑発してどうするのです。ご機嫌を取って適当にあしらうなり、扉を閉めて取り付く島を与えないなり、他にも対処のしようはあるでしょう。中途半端に応対するから複雑になるのです」
「うるさい。他人の家庭の事情に首を突っ込むな。それとそのお面を取れ」
「仮にも牧師ともあろう者が、あの程度の輩にも対処できないとは。私は少しあなたを買い被っていたようですね。見識を改めざるを得ません」
「まずはそのファンシーなお面を取っていただけますかね!」
掴みかかった望をひらりとかわし、尊は羊のお面を外した。
「彼が言ったことにも一理あると思いますよ」少し乱れた前髪を手で払う「希さんに用があるのなら対応は希さんに任せればいい。子供ではないのですから、あなたがしゃしゃり出る必要はないとお見受けします。だいたい無責任に中途半端に首を突っ込むのは、あなたも同じでしょう?」
鼻先で笑われた上に『無責任』という単語まで付け加えられた。望の自制心の一部分が弾け飛んだ。こんな奴に。何も知らないくせに。同じ異能者であるだけで、自分一人の面倒を見ていればいいだけの身勝手な野郎に訳知り顔で説教される謂れはない。
「私だって――っ!」
言葉は途切れた。口にしてしまえば崩れてしまう。今まで辛うじて維持していたものが。望は唇を噛んだ。
『のんちゃんを悪く言わないで』
スピーカーから希がとりなした。なんて優しい声だろう。望にはそれが羨ましくもあり、妬ましくもあった。
「……一階の掃除してくる」
『十二時にはお昼にするからね』
希の声を背に受け、望は牧師館から出ていった。