十五
胸の内を明かしてすっきりしたのか。穂紗奈は礼拝堂を見回す余裕さえ見せて「懐かしいです」と呟いた。聞けば中学校を卒業して以来、峰崎教会はおろか教会には一度も行っていなかったらしい。わざわざ市外の教会に足を運ぶ時間的余裕も、金銭的余裕もなかったのだろう。
「でも『王者』シリーズの原稿は花音ちゃんに渡していたんだろ?」
「メールで原稿データだけ送っていました。向こうからのメールは全部シャットアウトして、一方的に。データ送ってから大体半年後くらいに本が出てたかな」
「結構適当にやってたんだな」
「だって私には一銭にもならないことですよ? そんなに手間はかけられません。まあ、小説を書くのは好きだから、気分転換には良かったけど」
日曜学校の分級で、望の話に一番興味を持ってくれていたのは穂紗奈だった。聖書の中に秘められたメッセージやストーリー性に心惹かれていたのだろう。
「そういえば、前に教えたヤコブの話を覚えてる? 分級の時、君は誰が一番悪いのかと訊いたね」
「もちろん。突然変なことを訊いて困らせました。でもたしか礼拝説教でも、先生はヤコブの話をしましたよね」
望の最初の礼拝説教だ。忘れるはずがない。
「あのとき先生は何て言いましたっけ?」
兄のエサウの祝福を騙し取ったヤコブは卑怯だった。しかし誰よりも神を重んじた。だから祝福を軽んじた兄を押し退けてでも祝福を求めたのだ。
「もっとも罪深いのは、祝福を騙し取った弟のヤコブでも、祝福を軽んじた兄のエサウでもない。神の言葉に従わなかった父親のイサクだ」
生まれる前から神は「兄が弟に仕える」と告げていた。にもかかわらず父イサクは個人的な好みで『長子の権利』と祝福を兄のエサウに授けようとした。
不公平な愛が兄弟の確執を引き起こしたのだ。
「恨む相手を間違えるなってことですか?」
元々賢い子だ。穂紗奈は的確に望の言わんとすることを悟った。
「親の都合に振り回されてしまったけれど、君たちなら、もっと良い関係が築けると思うよ」
「そうかもしれませんね。腹立たしいこともたくさんあったけど、今思えばあの頃が一番楽しかった」
他愛のない学校での出来事や将来への不安を語り合って、起死回生の傑作を生み出すべく知恵を出し合った。そんな仲の良かった過去の自分たちを懐かしみ、そしてあきらめているようだった。
「花音に渡していただけませんか?」
穂紗奈は厚い茶封筒を望に差し出した。
「もしよければ先に読んでもいいですよ。最後の『王者』です」
『嘆きの王者』の原稿。思わず受け取りそうになった腕を、望は意思の力で下ろした。
「読みたいのはやまやまだけど、今はやめておくよ」
「どうして?」
望は礼拝堂の出入り口である引き戸を開けた。
「本人に直接渡すべきだから」
礼拝堂の前にいたのは、穂紗奈と同い年の少女だった。血のつながりは全くないはずなのに。真実を知った今ではどことなく似ているような気がするから不思議だ。
「待たせて悪かったね。どうぞ」
一麦女子聖学院の制服を着た少女は、神妙な面持ちで頷いた。穂紗奈は口をぽかんと開けた。
「ちょ、ちょっと、聞いてない!」
「言ってないから当たり前だ」
「卑怯ですよ。こんな騙し打ち……っ!」
「ごめんなさい」花音は深々と頭を下げた「私が無理言ってお願いしたの」
穂紗奈は微妙な顔をした。花音を責めればいいのかどうすればいいのかわからず、途方に暮れていた。
「積もる話もあるだろ? 礼拝堂はしばらく開けておくから、二人でとことん話し合うといい」
「待って。いきなりそん「終わったら礼拝堂閉めるから声掛けて。じゃ、ごゆっくり」
穂紗奈の抗議の声は無視して、望は牧師館に引っ込んだ。