十四
望は聖書の背中を撫でた。黒革のカバーが施された聖書は、神学校入学の際に祖父からもらったものだ。大学へ進学せず神学校に入学した望を応援してくれたのは、祖父の信二だけだった。他の家族の誰も、両親でさえも望の進路には関心を払わなかった。
事情は違えど、同じ『持たざる者』としては、穂紗奈の心情は理解できるし同情もする。正直に言えばちょっとくらいなら腹いせをしても赦されるのではないかとも思う。
(でもそれは、人間的な考えだ)
牧師としては見過ごすことはできない。復讐も腹いせも人間ではなく、神が成す業だからだ。穂紗奈にやらせるわけにはいかない――花音のためではなく、穂紗奈自身のために。
「こうする」
望は手帳に挟んでおいた折りたたんだ紙を取り出した。広げて穂紗奈に差し出す。
「KANNOの担当編集者。加藤仁さんが君に会いたいんだって」
きょとんとする穂紗奈に電話番号を指さし「連絡先はここね」と教える。突っ返す前に加藤の名刺をコピーしておいたのだ。
「なにこれ」
「ごめん。名刺は加藤さんに返しちゃったんだ。コピーで勘弁して」
「コピー? どういうこと?」
「加藤さんもゴーストの件、知ってたみたいだよ。で、KANNOを糾弾して、売りに出したいと考えてる。良かったね。目的が一致して」
「マジで?」
素の口調で訊き返す穂紗奈。毒気は抜かれていた。加藤の名刺と望の顔を交互に見る。
「……いいの?」
先ほどまでの強気な態度はどこへやら、望の顔色を窺うように上目遣い。望は笑いだしたいのを堪えた。悪ぶっていても根は素直な子なのだ。
「どうぞ」望は指を一つ立てた「でもその前に――君から出された課題なんだけど、実はもう一つ回答があって。そっちも聞いてもらえるかな?」
穂紗奈の返答を待たずして、望は切り出した。
「あえてゴーストに甘んじて、クライマックスで裏切る。実に壮大で悪意のある計画だ。とても中学生が思いつくことだとは思えない。むしろ、偶然の産物と考えた方がしっくりくる」
「偶然?」
「花音ちゃんへの羨望や憎悪はもちろんあっただろう。でも最初から陥れようと思って『森の王者』を書いたんじゃない。君なりに面白い小説を書いて花音ちゃんに渡したら、予想以上にヒットした、というのが本当のところじゃないのかな? ところが再び輝きだしたKANNOもとい花音ちゃんを見て、君の心に悪魔が囁いた」
いつ穂紗奈がこの計画を思いついたのかはわからない。しかし先ほど穂紗奈は言ったように、最初から計画されていたとは考えにくかった。
「だったらどうだと言うの?」穂紗奈は眉間に皺を寄せた「大して変わらないじゃない」
「大違いだ。君が今もっている『嘆きの王者』の原稿を、自分を踏みにじった花音ちゃんへの復讐のために発表したとしよう。そうすると、今まで彼女に渡した『王者』シリーズの価値も変わってくる。彼女の力になりたくて厚意で書いたはずのものが、彼女を陥れるための道具に成り果てる」
望は小説を書いたことがない。しかし毎週原稿用紙数十ページ分の礼拝説教のために知恵を絞っている身としては、悪意だけで原稿用紙四、五百枚は埋められないと断言できる。
「わからないのかな? 君が『王者』の――ひいては君自身の価値を貶めることになるんだ。それでも構わないというのなら、告発でもなんでもすればいい」
「復讐は、あきらめろってこと?」
「その価値があるのかよく考えてほしい。『王者』シリーズのファンとしては、復讐のためではなく、逆境にも屈しない優しい作家が、友達を想って書いた物語だと信じたい」
穂紗奈は力の抜けた顔で床の一点をじっと見つめた。物言いたげに何度か口を開くが、言葉が出てこない。
「……私だけ、馬鹿みたい」
ようやく絞り出した声はか細かった。望は首に横を振った。
「でも私は、君ほど優しい女の子を知らないよ。人の心を思い遣れる君が書いたからこそ『王者』シリーズは大勢の人に支持されているんじゃないかな」
憎しみもあった。妬む心も捨てられない。それでも穂紗奈は困っている花音を見捨てなかった。彼女に寄り添い、一緒に悩んだ。
「これでも結構悩みましたから」冗談めかして穂紗奈は言った「スクールカウンセラーって知ってます? 定期的に学校に来ている先生に相談したんですよ」
その名のごとく学校のカウンセラー。主に児童や教師、必要ならば保護者の心のケアやサポートをする仕事だ。つまりメンタルカウンセラー。穏やかな気持ちが一変。嫌な予感がした。
「スクールカウンセラーが君に、入れ知恵というか、その、アドバイスしたのか?」
穂沙奈は小さく頷いた。
「もしかして……ながの、とか言う人だったりする?」
「お知り合いですか?」
「いえ、全く」
できれば一生赤の他人でいたかった。
(あんのサイコ野郎がぁぁああああっ!!)
望は吼えた。内心で、あらん限りの呪詛を込めて。