八
「中を見ても?」
「ダメ。黒歴史だもん」
気持ちはよくわかる。小学、中学の頃の自分なんて思い出したくもない。
「最後のページだけなら」
お言葉に甘えて後ろからめくってみる。四分の一ほど戻ると『王者』と殴り書いたページに行き当たった。多少の齟齬はあるものの、望の知る『王者』シリーズのキャラクター設定や人物相関図、大まかなプロットが書かれていた。
「へえ、ニーアマイアは男だったんだ」
出版されている『王者』では主人公の良き友人であり、女性だ。それがこのアイディアノートには男と記載されていた。
「最初はそのつもりだったんですけど、凛とした女性がいてもいいかな、と思って」
「主人公の見本になるような?」
「そうそう。いいコンビでしょう?」
顔を見合わせてはしゃぐ穂紗奈。年相応の無邪気な姿だった。
「先生も『王者』読んでたんだ」
「君のファンですから」
パフェを攻略していたスプーンが止まった。
「たしかにネタは考えましたが」
「ついでに本文も書いたんだろ? 申し訳ないけど、花音ちゃんに『王者』を書けるほどのボキャブラリーも構成力も知識もあるとは思えない。絶対に無理だ。教会レポートだって私が手伝ってたくらいなんだから」
今でこそ言える森花音の黒歴史だ。
一麦女子学院中学校で、定期的に出される教会レポート。礼拝に出席した感想と説教の要約を書くだけのものだが、森花音はいつも苦戦していた。
頭が悪いというわけではない。ただ、キリスト教に対して絶望的に関心がなかった。そんな彼女が、他ならいざ知らず聖書の預言者の名が出たり、旧約聖書の奇跡をモチーフにした『王者』を書けるはずがない。元ネタが穂紗奈だったとしても無理だ。表現力がまるで違う。
「四部作シリーズの最終巻をメモがないと一ページも書けないというのも無理がある」
「そうですね。仮にも作家ならもう少しリアリティのある、もっともな言い訳を考えてほしいものです」
「配役もおかしい。友達にノートを返してもらうなら自分が行くだろ普通。なんで編集と牧師が奔走しているんだ」
「たしかに不自然です。プロットから練り直す必要がありますね」
穂紗奈はどうぞお持ちください、と言わんばかりに手のひらを向けた。
「いいの?」
「私には必要のないものですから。それにネタを知ったところで書けるとは思えませんし」
やれるものならやってみろ。
穂紗奈は艶然と微笑んだ。およそ女子高生には不釣り合いな挑発的な笑みだった――吐き気がした。思い出したくもない奴を彷彿とさせる、その笑み。
「一ファンとしては、ぜひとも完結させてほしいのだけれど」
「森さんに頼んでみたらいかがですか」
つまり穂紗奈には書く気がないということ。
「どうしても?」
「大学通えるなら考えますけどね」冗談めかして穂紗奈は舌を出した「パフェ一つじゃダメです」
「ダメか」
「そこまで安くはないですね」
「いくらだったんだ」
「え?」
「シリーズ既刊の三巻、まさか無償でKANNOに渡したとは考えにくい」
「おあいにく様、そのまさかです」
穂紗奈はきっぱりと言った。怯むことなくこちらを見つめる眼差しには、大人にも負けないくらいの意志の強さが見てとれた。
「パフェ、ご馳走さまでした」
空の器とスプーンを置いて、席を立った。これ以上は話すつもりはないという意思表示だ。
「タイトルは決まってたのか?」望は小さな背中に投げかけた「完結巻のタイトル」
穂紗奈は振り返った。ころころと笑って首を傾げた。
「さあ?」
「教えてくれてもいいんじゃないかな。パフェ奢ったんだから」
少しだけ考える素振りを見せて穂紗奈は口を開いた。
「……なげき」
「嘆き」
望は復唱した。その意味を噛み締めるように。
「そう、『嘆きの王者』よ。出版されない可哀想な四作目――ねえ先生」唐突に穂紗奈は言った「先生は昔、使徒探偵って呼ばれてたんでしょ?」
望の頰が引きつった。一番掘り起こされたくない望の黒歴史だ。
「ええ、まあ、そうらしいね」
「じゃあこの謎を解いてよ。どうして私が原稿をタダであげたのか」