五
「とはいえ、俺も鬼じゃねえ。前に書いてもらった住所録があったから渡辺さんに手紙を送っておいた。差し支えなければ返事が来るはずだ」
二週間ほど前に送ったという。現時点で返事がないところを見るに、教えたくない線が濃厚だ。
「俺は会ったことがねえが、渡辺穂紗奈さんはクリスチャンホームなのか?」
少し考えてから、望は「母親がクリスチャンだったらしい」と当たり障りのない返答をした。
印真抜恵流に比べたらセンスの面で雲泥の差だが、ホサナもまた聖書から取った名だ。ヘブライ語で「どうか救ってください」という、神に依り頼む言葉なので、一目で家族がクリスチャンだとわかる。
しかし望が穂紗奈のことで一番印象に残っているのは、その名前ではなく、いつかの分級でのことだった。
日曜学校礼拝後に、小学科と中学科に分かれて行う聖書のお勉強タイム。当時、神学生だった望が中学科に教えていた。
聖書箇所は創世記の二人の兄弟、ヤコブとエサウの話だった。
兄のエサウはたった一杯のレンズ豆スープ欲しさに、弟ヤコブの言うがまま『長子の権利』を弟に譲渡してしまう。さらにヤコブは目の見えない年老いた父イサクを欺いて、本来ならば長子であるエサウが授かるべき祝福を騙し取ってしまうのだ。
蛇を彷彿とさせる狡猾さ。それがユダヤ人の祖先であるヤコブだった。弟のずる賢さと兄の間抜けさにどっちもどっちだと言いたくなるが、大抵の子どもは嵌められた兄のエサウに同情的になる。ずる賢いヤコブは好かれない。
が、一人だけ弟ヤコブを支持した中学生がいた。
「エサウは『長子の権利なんてどうでもいい』って言ってるんだから、ヤコブに取られても仕方ないと思います」
およそ普段の大人しい彼女からは想像もつかないくらい過激な口調だったので、今でも記憶に残っている。
持たざる者がゆえの厳しさだと望は思う。穂紗奈には両親がいない。母親は彼女が五歳の時に死別。幼い娘を持て余した父親は、彼女を児童養護施設に預けた。穂紗奈には主張できる長子の権利も、親から受けるべき祝福もなかった。当然のごとく無条件に親の愛を受ける者に対して、厳しい目を向けてしまうのは仕方のないことだった。
「同年代とはいえ、花音ちゃんとそこまで親しくはなかったと思うんだけどな」
「中学生同士だったんだろ。他に同世代の子がいなかったらそれなりに仲良くなるんじゃねえの?」
少子化の影響で日曜学校の生徒数も少なくなっている。他に誰もいなければたしかに仲良くなる可能性もある。
(穂紗奈と花音ねえ……)
穂紗奈は物静かな子だ。読書が好きで、本を何度か貸した記憶がある。決して陰気というわけではないが、児童養護施設に預けられた影響かどこか陰のある女の子だった。活発な花音とはまるでタイプが違う。
「私からも手紙を書いていいかな?」
面識のない三杉からよりも効果的なはずだ。ちょうどチーズケーキを頬張っていた三杉はフォークを口に入れたまま頷いた。間の抜けた表情が望の目には微笑ましく映った。
「そういえば、希さんは最近どうだ?」
何気なく訊ねられた一言に、先ほどまでの心地よさが霧散した。
「元気だよ。最近はヨガにハマってる」
「お前の牧師就職式以来だよな。よろしく伝えておいてくれ」
引きこもりの姉が人前に姿を現したのも牧師就職式が最後だ。
望は「姉に伝えておくよ」と答えた。チーズケーキを手土産として持たせたのは希だとは言わなかった。