十三
鋭い痛みに望は短い悲鳴をあげた。
針に刺されたかのような痛み。眠気も吹き飛び覚醒。左手に食い込む爪――尊の白い手がいやになまめかしく見えた。
何でだろう、と浮かんだ疑問はすぐさま霧散した。
くぐもった声。衣摺れの音。暗がりの中、黒い何かが尊に覆い被さっている。
(……は?)
望は空いている右手で自分の目を擦った。
黒いそれは立派な体格の男性だった。なめらかな足の上にのしかかり、尊の左手をその頭上で押さえつけている。尊は完全に組み伏されていた。
「はっ……」
悩ましげな吐息。耐え入るかのように伏せられる長い睫毛。不意に、されるままだった尊の目が刃のように鋭く閃いた。
そこで望は決壊した。
「うぎゃああああああっ‼︎」
身も世もなく叫び、頭を置いていた枕を力一杯投げつけた。
「ぐふぅっ」
覆い被さっていた人影が呻き声をあげた。望は次いで掛け布団も投げつけ、被さった上から足蹴りを数発くらわせた。それでも布団がむっくりと動くので、悲鳴をあげつつ今度は投げたばかりの枕で何度も殴りつけた。無我夢中だった。
「ま、的場牧師……」
尊の声にようやく我に返った。
混乱に乗じて下から這い出てきたのだろう。乱れたシャツは肩口まで露わになっていた。肩で息をしている望を尊は心配そうに見つめた。
「大丈夫ですか?」
それはこちらの台詞だ。
乱れた呼吸でツッコミすらままならない。望の息切れと動悸がおさまるまで、尊は甲斐甲斐しく背中をさすった。
「……なにがあった」
ようやく落ち着いたところで訊ねた。
視線を尊が寝ていた布団に向ける。めくりたくもないが、望の掛け布団に覆われて(たぶん)意識を失って倒れているであろう男に。
「夜這いです」
「よっ……っ!」
思わず出かかった声を抑えた。時計を確認したら午前二時。草木も眠る丑三つ刻だ。
「なんでこんな時に」
「夜這いですから」
「そうじゃなくて、なんで二人で寝てるところに忍び込もうなんて阿呆な真似をするんだ。嫌がらせか。私に見せたかったのか」
「いいえ。的場牧師を睡眠薬で眠らせたところで、私を襲ったようです」
そういえば、夢を見る間もなく眠りに落ちた。
望は反射的に自分の左手を見た。手の甲には爪で裂かれた跡があり、僅かだが血が滲んでいた。あの痛みがなかったら、まず間違いなく起きていなかった。
「申し訳ありません。傷をつけてしまいましたね」
「皮がめくれた程度だよ」
尊が手を取り、そっと傷痕を撫でた。
「それよりも……あんた、こうなると見越して手を繋いでたわけ?」
「確証があったわけではありませんが、夜這いは可能性として考えていました。前回も同じようなことがありましたし」
聞き捨てならない。望は尊を睨みつけた。
「前回っていつ? そして何があった」
「二年前にやむなく帰省した時です。その時は浴室で襲撃されました」
このタイミングでどういうわけか筐の右眉にあった古い裂傷の痕が脳裏に浮かんだ。
本人は教えてくれず、尊は「返り討ちの痕」とよくわからないことを言っていたが。まさか。しかしそれ以上は深く聞けなかった。尊がものすごく嫌な顔をしたからだ。
「……このケダモノが」
吐き捨てる声は底冷えするほどだ。乱れた艶やかな黒髪も相まって、なんだか般若にも見えなくもない。
こんな状態の奴に襲いかかってきた兄弟の処遇を委ねたらとんでもないことになりそうだったので、望は不本意ながら提案した。
「とりあえずこいつは簀巻きにでもして廊下に放り出そう」
「屋敷の外にしましょう」
「いや、さすがに風邪ひくから」
恐る恐る布団を剥ぎ取ると、襲撃者は気を失っていた。案の定、見覚えのある顔の右眉の上には古傷があり、望はなんとも言えない虚脱感に襲われた。
尊はガムテープで筐の口を塞ぎ、ロープで手際よく縛り上げる。拘束道具は全て筐が持ち込んだ物だ。どういうわけかナイフや棒、手錠まである。
「ガムテープはともかくとして、なんでロープとかがあんの?」
「使うつもりだったんでしょうね」
何に、とはもう聞かなかった。聞きたくない。想像したくもない。部屋から筐を放り出し、せめてもの情けでその上にタオルケットを掛けてやった。
一段落ついたところで望はまたしても強烈な睡魔に襲われた。睡眠薬の効果はまだ抜けきっていないようだ。ぽてん、と布団の上に横になる。
「風邪ひきますよ」
「ん」
上から布団を掛ける尊に、望は左手を差し出した。目を瞬かせる尊。意図をはかりかねているらしい。
「またなんかあったら起こして」
それで限界だった。望は夢の中へと垂直落下した。