六
三杉を人質に取った男は周囲の警備員達に向かって「ヒロミを連れてこい」だの「あの女、俺をコケにしやがって」なんだの喚いていた。察するにヒロミなる女性にひとかどならぬ恨みがあるのだろう。
「説得するしかあるまい」
しばらく様子を伺っていた洋平が決断した。
「いや、ここは警察に任せておきなよ。プロなんだから」
「犯人捜査と逮捕に関しては、警察が適任だろう。しかし凶悪犯と言えど人間だ。獣ではない以上、話し合いによって解決できるはず。紀元前からの人類の常識だ」
素晴らしく正論だ。しかし何もかもが話し合いで解決するなら人類史で何度も何度も戦争は起きない。カインはアベルを殺したりはしないし、エジプトに十の災いが降りかかることもなかっただろう。
的場姉妹で止めるのもきかず、洋平は階段を降りてペンギン水槽の側面から犯人に近づいた。
「工藤! た、たすけ」
「近づくんじゃねえ!」
洋平は両手を上げて丸腰であることを示した。次いでジャケットを脱いで放り投げた。
「俺の名は工藤洋平。貴様が今抱きついている男の同期で今は北海道中会所属の牧師だ」
危ないから下がりなさい、と忠告する警備員及び警察官の制止も無視して洋平は男と対峙する。
「ボクシが何の用だ!」
「その質問、そっくりそのまま貴様に返そう。牧師に何の用があって抱きつき刃物をつきつけている。正直言って抱き心地はすこぶる悪そうだし大した金も持っていないし肉も不味そうだ」
人質の抱き心地も資産も味も意味を成さないことをまず洋平は理解するべきだ。
望は先行きに限りない不安を覚えた。気は進まないが我関せずを決め込むわけにもいくまい。犯人に気付かれないよう、屈んで水槽の端まで移動した。
「三杉にどういう恨みがある。あいにくその男がいっぱしに他人様に恨まれるような行動が取れるとは思えんのだが」
たしかにスマホゲームやらチャットやらに日々精を出すネット廃人に、他人に恨まれるようなアクティブな要素があるとは思えない。常識的な一般人以下呼ばわりされた三杉は「お前あとで覚えてろよ」と恨み言を吐いた。
「こいつに恨みなんてねえよ。つか今日が初対面だ」
「面識のないそいつの一体どこが気に食わんのだ」
「だーかーら、俺が用があるのはヒロミなんだよ! あいつをさっさと呼んでこい! じゃねえとこいつを……っ」
あとは言わずもがな。犯人の持つナイフが三杉の喉元に寄せられる。三杉は「ひぃいいいっ!」と情けない悲鳴をあげた。そんな三杉に慌てず騒がず洋平は訊ねた。
「ヒロミとやらと親しい仲なのか?」
「会ったことすらねーよ! 早く呼んでくれよお! なんで俺が見ず知らずの他人の痴話喧嘩に巻き込まれ」
「うるせえ!」
「ぎゃー! やめて、死にたくない!」
この後に及んで、なおも洋平は納得がいかないようだ。怪訝そうに顔をしかめた。
「ひとつ聞くが、そいつが日本キリスト教会の牧師だと知っての狼藉か」
「は? 牧師だからなんだって言うんだよ?」
「最重要事項だ。貴様は昨今の教会情勢を知らないからそんな呑気な事が言えるのだ」
洋平はよどみなく説明した。
「牧師の高齢化と減少はどこの教派でも深刻な問題だ。特に北海道中会に関して言えば、所属している教会と伝道所の数は現在三十一。対して牧師及び引退牧師の数は二十人ーーつまり、半数近くが無牧か牧師が二つ以上の教会を兼任している。当然だが牧師がいないからといって礼拝を中止するわけにはいかない。無牧の教会は信徒達による聖書研究と祈祷会、近年ではネット通信による合同礼拝でなんとか主日礼拝を守っている状況だ。それすらできない教会は解散か合併のどちらかしかない。教会にとって牧師の招聘は積年の悲願であり、存続を左右する重要課題だ」
淡々と語る洋平。呆然とする男にまるで頓着しない。