十二
日曜とはいえ朝の六時、長期休暇期間中でもない羽田空港は比較的空いていた。国内線ターミナルというのもあるのだろう、外国人観光客も少なく、忙しなく行き交うのはフライトアテンダントやパイロットと思しき人達。他はのんびりと搭乗時間を待っているようだった。
人気がないことを確認してから尊はサングラスとマスクを外した。うっかり誰かに惚れられたとしても、都心の駅に戻って煙にまくことができる。こんな時に他人を気遣っていられるほど、尊は優しくはなかった。
待ち人はすぐに見つかった。見送りにやってきた三杉牧師とは既に別れたらしい。相変わらずスーツをかっちりと着た状態で、むっつりとしている。
北海道の牧師、工藤洋平は尊の姿を認めると無言で足を止めた。驚いている様子はない。
「予想の範疇でしたか?」
「いや、驚いている。見送られるほど友好的な関係を築いた覚えはない」
洋平の言葉で尊は確信した。やはりこの男、自分に負けず劣らず相当に性格が悪い。
「あなたの嫌がらせに、受けて立とうと思いまして」
時折向けられる敵意や軽蔑。勘違いでないとすれば心当たりはただ一つ。
「牧師でありながらずいぶんと姑息な真似をなさるのですね」
「はっきりと言わない貴様が悪い」
洋平は悪びれることなく言った。
「食卓の下でいくら待とうがこぼれ落ちるのはパン屑だけだ。手を伸ばさなければパンを掴み取ることはできない」
洋平は正々堂々としていた。伝え方に多少の問題はあるが、望への好意をはばかることなく伝えている。拒まれても、何度も。
比べて自分はどうだろう、と尊は思った。異能者であることを利用して、素知らぬ顔で望に近づいた。 頑として自分の内心は悟らせない。それでいて、あわよくばと期待を捨てきれず、彼女の心をかすめ取る機会をうかがっている。
なるほど、たしかに卑怯だった。
「それに嘘は言っていない。貴様は的場の姉に似ている。だからお似合いだと言った」
「私が、希さんと……?」
「的場は高校卒業してすぐに神学校に進んだ。本来ならば四年制大学卒業後、さらに神学校に四年間通ってようやく教師試補試験に挑めるところを、あいつはたった二年で神学校を卒業した。普通ならばどんなに若くても教会に派遣されるのは二十六歳。だが、あいつは二十歳で一つの教会を任された。全部姉のためだ。姉を守るために妹が寝る間も惜しんで勉学に勤しんだ」
うわべだけならば美談に聞こえる。しかしその裏には相当の『無理』があった。望は天才でもなければタラント〈異能〉を持っているわけでもない。ただの、どこにでもいる女性だ。尊の身体がかしいだ。胸ぐらを掴む洋平と目が合う。レンズの奥、黒い目は憤りをたたえていた。
「平凡な小娘一人に、大の大人どもがいつまで甘えているつもりだ」
強い眼差しに貫かれたような気がした。
何の力もない、何かを知っているわけでもない。ただ必死で異能を理解し、守り、受け入れようとしている。平凡ながらも、持ちうる全ての力で。
そんな望だから、尊は惹かれたのだ。
つまるところ、希と尊は同類だった。異能者であると同時に、一人の凡人に救いを求めているという点において。
洋平から解放されても、尊は動けなかった。異能のことこそ知らない洋平だが、勘と鋭い洞察力で尊と希の本音を見抜いたのだ。
何ということだろう。目眩を覚える。よりにもよって恋敵にーーいや、尊は恋敵にすらなれない。そんな資格は、ない。だって、望に対して抱くこの想いは愛でも恋でもない。ただの懇願だ。一方的に救いを求めて縋り付いているだけなのだと突きつけられた。
「的場は名寄に連れて行く。今は無理でもいずれ、必ず」
洋平は断言した。迷いなど一つもない口調だった。自分が正しいと思って疑いもしない。その傲慢さを目の当たりにして、尊の中で何かが切れた。
「ご随意に」尊は慇懃無礼に言い放った「それができればの話ですが」
「どういう意味だ」
「言ったでしょう。あなたの嫌がらせに『受けて立つ』と」
尊は前髪をかき上げた。視線を絡め取るようにして洋平の顔を覗き込む。ほんの少し目を細めれば、洋平の顔に動揺が浮かぶのが見て取れた。
弾かれたように洋平は尊を突き飛ばした。が、それも計算の内。尊は自ら数歩引いて、衝撃を逃した。
思った通りだ。あくまでも効きにくいだけであって、全く効かないわけではない。むしろ好悪に関係なく強い感情を向けられた時ほど、惹き寄せやすくなる。
「……貴様は、一体何だ」
「あなた方が最も忌み嫌う、穢れた生き物です」
憎悪は興味の裏返しだ。他者の悪と穢れを忌み嫌うことによって、自らの中にある悪と穢れを否定するのだ。だから、目の前にいる牧師もまた、悪を抱いている。
尊は胸が高鳴った。先ほどまで胸を占めていた敗北感を吹き飛ばす高揚感。恋に似て非なるそれは、悪魔と蔑まれるに相応しいほど下卑た感情だ。
この清廉潔白な牧師が内包する悪と穢れを引きずり出し、目の前に突き付けたら、一体どれほどの愉悦を味わえるだろう。これほど忌み嫌い軽蔑する下衆と、自分が同じだと知ったら。蔑んでいるはずの尊に心奪われ、屈服させることができたのならーー想像しただけで興奮した。
尊は艶然と微笑んだ。
「お望みならば、いつでもお相手をして差し上げますよ」
これで一旦終了。
次は蛇足です。