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いつものバーで

作者: 白咲紫乃

「ただいまー」

帰っても真っ暗な1LDKに、ため息交じりの挨拶。とても同棲しているとは思えないほどに、しんと静まり返っている中から、山びこのように生返事が返ってくる。

「おかえりー。今日も遅かったね。」

高倉さんが自室からにょきっと顔を出して私を労う。

 私は慣れきったその態度に、への字口をしながら、缶ビールを開けた。ぷしゅっと、力の抜けた音が、居間の薄明かりに消えていった。

 

本当に、これがカップル憧れの同棲というやつなのか?もはや、熟年夫婦のような落ち着き具合ですけど。

 いやいや、長く付き合ってからの同棲ならば仕方ないでしょう、という声が、本紙の向こう側から聞こえてきそうだ。

 しかし、残念ながら私たちは、世間的に言えば、まだまだラブラブカップルのはずなのである。なんてったって、付き合って二か月、同棲始めて、まだ一か月ですから。

 一応彼氏である、高倉さんとの出会いは約三か月前に遡る。


転職活動十連敗のためにやさぐれていた私は、一人で行きつけのバーに立ち寄った。口ひげを生やしたマスターに、あれやこれやと面接官の文句を言ってはお酒をがぶがぶ飲む。マスターは、苦笑いを浮かべながらただ頷いて、美味しいお酒を振る舞ってくれた。

私への周囲の反応はあまりにも薄かった。それはもう、花金で忙しくて手が回らない居酒屋で出される、ハイボールの味くらい薄い。

あら、また面接落ちたの?がんばったのに。

そっか、仕方ないな。そんなこともあるさ。

といったような言葉を百回は言われた。両親にも友人にも元同僚にも。

だから、私は世の会社はおろか、周りにも相手にされず、どうでもいい存在として生きているのだなと、百一回目の適当な励ましの際に悟ったのだ。

百一回目から数日後の今、百十二回目のマスターの軽い慰めを受けている私は、はいはい次もがんばりますよ、といった具合に、会社の選考リストをひらひらさせた。今日で不名誉な十個目のバツ印がつく。受ける会社をリストアップし、落ちたら印をつけているのだ。

すでに深い眠りの森の入り口に足を踏み入れるくらい顔を真っ赤にしていた私は、ひらひらと選考リストが手から舞飛んでいくのに気付かなかった。

雑に二つ折りにまがった蛾は、同じバーの隣の隣でしれっと晩酌していた男性の元へと引きつけられて止まった。だが、私はその時にはもうバーカウンターにうつぶせていた。

赤いバツ印模様の蛾こそが、私と高倉さんのキューピットだった。

酔いつぶれた私を高倉さんが介抱して、私の家まで送ってくれた。お互いが何となく気になって、何度か食事に行き、何故だか恋人になり、同棲するに至った。

高倉さんは、少し陰のある大人な男性だった。同い年にもかかわらず、バーでブランデーグラスを傾けるさまは、一回りも年が離れているかのようだ。ただ話してみると、雰囲気から感じる年齢差を感じさせない。同い年の男性と話すときの気さくさが、言葉の端々や表情の微妙な移り変わりから感じてとれた。


人を好きになるとは、不思議なものだ。理由や根拠をそこまで必要としないからだ。

ただ、あえて言うならば、高倉さんだけが唯一、私の転職活動に向き合って、真剣に助言してくれたり、辛いときに本気で優しく接してくれたりしたからだろうか。

後から高倉さんから聞くには、あの夜、高倉さんが連れて帰ってくれてからも、転職活動に関する鬱憤晴らしに付き合ってくれていたらしい。その後も度々バーで会っては、転職活動に失敗する私を励まし、助言をしてくれた。それはもう、私からしてみれば、神父が市民の懺悔に耳を傾けているように思えた。

考えようによっては、高倉さんと恋人になったのは、自分が弱っているからなのかもしれない。空腹時に強いお酒をぐびっといくのと似たようなことなのかもしれない。

それでも、誰からも必要とされない透明人間の私をちゃんとみてくれるのは、高倉さんだけなのだ。


「高倉さん、また連敗だよ。二十三連敗かな。もう数えるのも疲れちゃった。夜は、バイト先の居酒屋で知らないおじちゃんに絡まれちゃったし。」

 私はほとんど空になった缶をぐるぐるとまわしながら愚痴る。高倉さんは、私が缶ビールを開けるのを聞いて、テーブルの向かいに肘をつきながら座った。目を細めて、話を聞いてくれる。

 くしゃくしゃの黒髪に、もう若いと言っていいのかわからない若白髪が二、三本目立っている。眼鏡の奥は何を考えているのかわからないような黒目だが、ほろ酔いの私を見つめてくれる時などは目を細めて、柔らかい印象になる。そして、首をかしげてくれる。

目を細めて首をかしげる、というのが、高倉さんが私に向ける愛情の合図だと知ったのは、同棲してからだった。出会ったバーのマスター曰く、約三か月前のあの夜も、私の席から一つ席を空けて、そんな風に見つめていたらしい。

「お疲れ様。今日はどういう会社を受けたの?お客さんにからまれたの、大丈夫?シャワーまで連れて行ってあげようか。」

「うん、自動車メーカー。私としてはね、会社の経営理念が、『YourCar ForOne~一人ひとりの人生を走ってもらうための車づくり~』だったから、それと自分の良さや経験をつなげるように面接してみたんだけど……。まあ、たしかに、おじさんにからまれて体がべとべとするし、先にシャワー浴びてくるよ。その後、またアドバイス欲しいな。」

高倉さんは手を差し伸べてくれたが、私は大丈夫大丈夫と、手を振りながらお風呂場へと向かった。


生乾きの黒髪は傷んで、からまったままほどけない。くしでとかそうとしても、そこで引っかかって毛先まで到達しないのだ。諦めて、首にタオルをかけたまま、私は再び居間の椅子に腰かけた。

高倉さんが温かい緑茶を差し出してくれる。湯呑から、安心が白い湯気となって私の手元を包んでくれた。

「高倉さん。」

高倉さんは首をかしげて、自然と唇の端を頬側に寄せるように上げた。私がこれから何を言おうとしているのか、見透かしているようだった。

「なんで、転職活動うまくいかないんだろう。転職活動だけじゃなくて、家族とか、友達にも特別認められている感じもしないし。転職がどうっていうより、私の存在感みたいなもの自体に問題があるのかなって。どこにでもいるような女性っていうか、個性や秀でたものがないっていうか。」

「うーん。そうかなあ。」

高倉さんは、困ったように肯定も否定もしなかったが、続けてこうアドバイスしてくれた。

「ほら、こと転職活動に関して言えば、本当に面接で求められているのは、経営理念に合わせて自分をアピールするのではなくて、『私』を活かせる場所を見つけて『私』を軸にしてアピールすべきだったんじゃないの。こんなにも転職がうまくいっていない様子をみていると、とにかくどこかの会社に入りたいかのようだよ。」

高倉さんの、物腰の柔らかい言い方だが的を射た発言に、私は眉間にしわを寄せながら緑茶を一口飲んだ。ちょっと苦い。

「じゃあ、私の存在感の薄さについてはどうなんですか。そもそも、高倉さんは私のどこに惹かれて……。同棲するまでの仲って、恋人っていう唯一無二のパートナーみたいなもんでしょ?オンリーワンでしょ?」

自分が話をそらそうとしていることは知っていた。そして、高倉さんもそれを知ったうえでゆっくりと口を開く。

「バーで、君の会社リストを拾った時、運命的なものを感じたんだ。信じてもらえないかもしれないけれど。運命的というか、不思議な縁というか。」

「それ、答えになってないよ。なんだか、言いたくないことを隠すためのセリフみたい。」

高倉さんが緑茶をすする。先ほどの私と同じように苦い顔をした。私はテーブルの上でこぶしを握りながら言った。いや、言ってしまったという方が近い。

「そもそも、高倉さんは、どこから生活費を捻出しているの?私はコンビニと居酒屋のアルバイトを掛け持ちして、どうにかやっているけれど、高倉さんはずっと家にいるようにみえるし、在宅で働いているってこと?」

はっとなったときにはもう遅かった。高倉さんは珍しく動揺して、急に立ち上がりテーブルに乱暴に椅子をしまった。高倉さんの眼鏡が立ち上がった反動でずれる。ガタンと湯呑みが倒れ、緑茶の淀みがテーブルの上に広がっていく。

「ごめん。明日には伝えるから。」

そう言い残して、眼鏡の鼻の部分を静かに正して自室へと戻っていった。

涙が頬を伝うように、テーブルの脚から緑茶がむなしく垂れていた。


次の日、テーブルにメモ書きが置いてあった。いつもは私のほうが早起きのはずだから、高倉さんのメモがあることはおかしい。朝食も作ってあった。鼻から息を吐いて、メモに目を落とした。


昨日はひどい素振りをみせてしまい、ごめんなさい。

僕のことは、君が受けた会社の親会社について調べてくれれば分かります。

こんな言い方しかできなくてごめんね。

本当に、運命だと思ったんだ。

良かったら朝食を食べてください。

ちょっと冷たい風にあたってきます。

                 高倉


私はメモを読んで、内心、意味が分からず、ふつふつとマグマが湧くようにイライラがこみ上げてきた。だが、早朝のコンビニのアルバイトがあるし、昼はまた面接がある。

考えている暇はない。高倉さんについては、今晩ゆっくり調べるとして、私はありがたく朝食をいただくことにした。

テーブルには、白ご飯、わかめとじゃが芋の味噌汁、焼き鮭が並べられていた。カーテンの隙間から差し込む朝日に米粒が光り、鮭の紅色は脂がのっていてつやつやしていた。いつも私が口にしているような、コンビニのコッペパンとヨーグルトとは比べ物にならないほど丁寧に作られていた。だけど、冷めていた。だんだんと、高倉さんの温もりが失われていったようだ。

嫌な予感は首を振ってなかったことにし、鮭を電子レンジの中へ入れる。その間、白ご飯とイライラを、味噌汁で胃袋に流し込んだ。


「ただいまー」

しんと静まり返った自宅。返答はない。この家に帰りを待ってくれる人が今日はいないことに、やっと気付く。なんか顔が冷たいなと思って両手で頬から輪郭をなぞってみたら、乾いた唇にしょっぱさがしみた。面接、二十四連敗である事実が追い打ちのように頭の中をよぎって、顔はどんどん冷たくなっていった。

私は自分に、落ち着け落ち着けと言い聞かせて、居間の電気をつけ、冷蔵庫から缶ビールを五、六本取り出す。

自棄になりながら、選考リストのうち、今日落ちた会社にも赤いバツ印をつけ、スマートフォンで今までの会社のリストの親会社を検索していく。

ブルーライトが目を直撃して痛い。まだ三十なのに。いや、もう三十だというべきなのか。目じりが赤いのはお酒のせいにして、親会社の名前をリストの一番右端に書き込んでいく。全ての会社が嘘のように、『高倉財閥グループ』に関連していた。さらに、高倉財閥グループについて調べていく。すると、現在会長の孫は二人兄弟で、兄は行方不明のために弟がグループ下位の会社経営に携わっているなどという噂話の類の書き込みがあった。

もしこれが、本当だったとしたら……。

私はビール缶を放り出して家を飛び出した。ビール缶は放物線を描いてフローリングの床にダイブし、居間にカランコロンと高鳴る。それは私の鼓動とシンクロして、響いていた。


高倉さんが、どこに姿を消したかなんて、分からない。どこで働いているのか、家族はどんな人たちなのか、友達は多いのか。

私は自分のことを包み隠さず話してきた。しかし、高倉さんのことは今までずっと謎に包まれたままだった。高倉さんの歩んできた人生に手を伸ばしていいのか迷って、遠ざけられるのが怖くて自分の話ばかりしていた。私にとっての高倉さんは、お酒好きな、ただ優しくて、ただ素敵な人だった。それだけだった。

だから、私の分かる場所に行くしかなかった。私が知っている、高倉さんのもう一つの居場所。

ドアベルが大振りした。落ち着いた雰囲気が一瞬でぐらつく。はっとしたマスターと、あの時の場所に静かに腰かけている高倉さんがいた。ゆっくりと、うなだれるようにもたげていた首をこちらにやる。

「高倉さん!」

「君はまた、酔っているね。ああ、飲んだ後で急に走ったりなんかするから。」

高倉さんは、いつもと同じ調子で―いや、少し憂いをおびた低い声で私をなだめた。

「高倉さん……!」

言いたいことは今にも溢れ出そうなのに、肝心の言葉が出てこない。高倉さんは、顔を火照らせた私に呆れながら、参ったように話し始めた。

「君は、僕がお金持ちだから、僕のことを好きなわけではないだろう?僕もそれと同じように君が好きなんだ。そして、それだけで生きていける。嫌味ではなくてね。

お金持ちでも、社会性とか能力とか、そういうのに恵まれなかったら生きていきづらいんだよ。それは、息をしていても、ほとんど死んでいるようなものなんだ。役に立っていないから。でも、君は僕の生きる糧だよ。君の悩みを聴いて、一緒に晩酌をするだけで、生きていてよかったと思えるんだ。君をほんの少し癒すことが、僕の仕事さ。それだけしかないんだ。」

高倉さんのブランデーのロックアイスが崩れて溶ける。私は唾を飲んだ。

「君は僕の正体を知っても、一緒にいてくれる?僕を生かしてくれる?」

はた、と私はなぜここまで走ってきたのかを考えた。お金持ちだから?違う。それよりも、高倉さんの生きてきた道を想像して、今の私と重なったからだ。いるのかいないのか分からないような、いてもいなくてもいいような自分とその周辺のうまくいっていそうな人たち。周囲からの無干渉。陰で嘲笑すらもされない孤独。

高倉さんも正体を隠しながら、私と自分を重ねては励まし、どうにか生きていたのかもしれない。部屋にこもって、孤独と闘いながら。

やっとの思いで、私は口を開いた。

「一緒にいてほしい。私もよく考えてみたら、高倉さんを好きな理由は分からない。でも、現実、転職がうまくいかなくて誰からも必要とされていないんじゃないかって思っても、高倉さんがいるから毎日やってこれてる。だから……帰ってきて!おかえりって言って!」

「おかえり。」

高倉さんはそっと私の肩を抱き、首を傾けた。背中側の高倉さんの顔は見えなかったが、ほほ笑んでいるに違いなかった。


帰り道、バーでさらにウイスキーを飲んだ私は、高倉さんの背中の上でぐったりしていた。

「ねーねー、高倉さん、養ってよー。」

ぽかぽかと小さくグーパンチを背中に浴びせた、転職活動二十四連敗の私は、もう十中八九、夢の中である。

「だめだよ。君がアルバイトをかけもちして、転職活動してっていうように、悩みながらがんばってくれないと、僕の生きている意味なくなっちゃうから。なんてね。」

夜風が、絡まった私の長髪をゆっくりとほどいていく。初めての気まずさは、酔いどれ同士の戯言と一緒に宵に消えた。

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