六
「おまえ、おじさんの車で来たんだろ。それなら自転車の後ろに乗せてってやろうか」
「もちろん、よろしく」
ま、これはいつものパターンだ。どうせ明日から美里も自転車使うことになるだろう。
俺か美里か、どちらかが自転車に乗ってこれなかった場合、大抵二人乗りの話と相成る
「でもね、ちょっと学校から離れたとこから乗せてもらった方がいいかも」
「なんでだよ」
周りを見渡して他に聞いてる奴がいないのを確認し、美里はゆっくり言った。
「たぶん、二人乗り禁止されてる恐れ、あるよ。今からしくじりたくないよね」
「まあな。入学式後いきなり停学は食らいたくねえもんな」
美里の歩く速度に合わせて、俺は自転車を押した。使い込んだ俺の愛車は、かなりギアがきいていて、本気で走ったら相当なスピードが出るものだった。
「あのさ、貴史。なんであの時、女子の陣地に割り込もうとしたのよ」
母ちゃんズのうるささについて悪口三昧わめき散らした後、美里がいきなり話をひっぱりもどしやがった。とぼける。今更古い話、持ち出されたかねえや。
「あの時、っていつだよ」
「さっき話したでしょ! 四年のこと!」
「そんなの知らねえよ。ま、俺は今日現在まで絶対あの場所ではみ出してなかったと信じるけどな」
「うそつき! あんたが他の女子とけんかし始めた時、まずいなあと思ったんだから。勝ち目ないもん」
「うそじゃねえよ」
「じゃあさ、なぜ? なんであの時、『美里だったら、そばで見てたから、証言できるだろ』って変なこと言い出したわけ? 。そこで私が『線はみだしてたよ』って言ってたら、あんた、地獄のどつぼに突き落とされてたって!」
「女子と話してても埒があかねえから、しゃあねえってことで美里を呼んだんだろうが。昔のことだからそれ以上はすっからかんに忘れたぜ」
「忘れたとか言いながら、あんた面接の時にしゃべってるくせに。貴史ってへんなところでおしゃべりだよね」
「美里に言われたかあねえよな」
美里の追求を交わしたくて、俺はすばやく何もくくっていない荷物台を指差した。美里の指定席はここだ。
「この辺でもう大丈夫だろ、乗っちまえ、早く」
不満そうにほおをふくらませながら、美里はちょこんと女子っぽく横座りした。へえ、珍しくまたがないんだな。
言えなかった言葉ばかりがふくらんで、喉元を押し付ける。ひりひりした感覚がある。踏み心地のちょうどいいペダルを、押さえつけるように踏み続けた。
美里に嘘ついたことはない。
ただ、言わなかったことはたくさんあった。
小学校四年くらいの時だったと思う。俺も美里とふつうにしゃべってふつうに遊んでふつうに互いのうちに泊まってってことを繰り返していた。別に悪いことしているわけじゃないし、今思えばなんであんなに騒がれたのかわからない。俺はどうだってよかったんだが、美里の方が一気に爆発してしまった。それなりにあいつが女子連中から、
「清坂さんって、男子とばっかり遊んで、やらしいよね」
どこがやらしいのか俺にはちっとも理解できないんだが。
理屈で片付ければいいじゃねえかと、俺は思うんだが、当時の美里にそれはできなかったようだ。確か四年の春くらいに俺が普通に声かけた時、
「もう、貴史とは遊ばないから!」
いきなり宣言しやがった。ついでにおまけで周りの連中に聞こえよがしに、
「私と貴史とは好きあってなんかいないからね! いつも私とあんたとがいちゃいちゃしてるとか、ひゅうひゅうとか言われるのもういやだから!」
そこまで言われたら俺も、「あっそ」と引くしかない。こっちだって面倒なことにかかわりたかねえもんな。お互いそんなわけで、夏休みのお泊り会まで一言も口を利かずに過ごしたわけだった。別にしゃべらなければしゃべらなくてもいいと思っていたし、無視するなら無視すればと思っていた。
やきもきしていたのは母ちゃんズのおふたりのみ。
「みさっちゃん、うちの貴史とけんかしているみたいね。やはり、女の子なのかしら」
そううちの母ちゃんが、美里んとこのおばさんに電話していたのを聞いたことがある。
女の子だったら俺にけんか吹っかけたがるのか? よくわからねえ。
そのお泊り会で、やはり男女あんまし仲良くないクラスだったこともあり、俺たちは見事なほど無視しつづけていた。ビニールテープで境界線をこしらえる前からそうだった。もっともその事件を引き起こす前、美里が寝床用にしいてあったマットレスの上でリリアンを編んでいたのを見た記憶はある。ちんまりと座っていた。俺の当時知っていたあいつとは違い、ずいぶんしおらしく女子っぽい遊びをしていた。もちろん無視だった。
さて事件が起こり、目ざとい女子捕まってあーだこーだ責められた時も、
「あんたが踏んだんでしょ!女子のところに入ってこないでやね」
「俺は踏んででなんかねえよ」
美里はふいっと無視し、リリアン編みに集中していた。こうも露骨に背中向けるのはどうかと俺も思い、確かな目撃者として証人に立たせるしかねえと判断したわけだ。
「美里、お前見てただろ。証言しろよ」
はっと美里が身体をびくつかせ振り向いた。手からリリアン滑らせていた。
「なんで私が見てなくちゃいけないのよ! 私に関係ないじゃない!」
「俺だってお前なんかに頼りたくなんてねえよ。でもしょうがないだろ、観ていたのはお前だけなんだから」
「いいかげんにしてよ!」
「見てないわけないだろがあ! いいかげん無視するんじゃねえよな!」
美里の言い返す言葉は変だった。とっくに「ビニールテープの境界線を踏んだか否か」の問題を飛び越していた。無理やり話を別の方に逸らそうとしている。しかもだ。
「私だって忙しいのよ、『羽飛』にかかわらなくちゃ行けないのよ!」
なにかが化学反応を起こした。美里が俺のことを、簡単に読めねえような苗字で呼ぶことなんて、生まれてから一度もなかったはずだった。
黄色いビニールテープなんて無視して美里に近づき、お下げ髪にしていたふさを思いっきりひっぱった。
反動で美里も何かが切れたように俺の足にしがみつくように倒れた。その足を払ってころばせようとした。決まらない、美里は尻もちをついただけですぐに立ち上がった。手元にあったタオルを美里は俺に投げつけた。たかがしれてる。俺としてはその倍返しをせざるを得ないってことで、用具準備室から空気の抜けたバレーボールを選び、一発命中させてやった。。
体育館いっぱいを使用した派手な一戦だった。すでにビニールテープの境界線ははがれていて意味のないものになっちまってた。
クラスメイト一同の激しい応援合戦の中、俺と美里の肉弾バトルは続いた。
三ヶ月間俺も美里も気持ち悪いくらいおとなしくしていた。今思えばあの沢口の奴もおかしいと思っていたんだろうな。いきなり俺と美里を一発ずつ平手ではたくと、理由も聞かねえで言い放った。
「羽飛、清坂、そこまでだ、お前らふたりとも、牢屋に行け!」
俺と美里はいっつもセットで数えられていた。どっちが悪いかははっきり言っちまうと、俺の方だろうな。けどそういうところが男女平等な沢口は、俺たちの襟首をそれぞれ片方ずつでつかみ、図書館準備室へ引きずっていった。狭い部屋だったのは、俺たちが立村に話した通りだった。
俺たちはつったったまま、沢口の足音が消えるのを待っていた。
お互い罵り合ってたわけだ。もう一発二発やりあってもいいような気もしたんだが、なんだか気が抜けてサイダーしゅわしゅわな燃えるもんがなくなっていた。これを「頭が冷える」っていうんだろうな。
顔を見合わせ、美里が電灯をつけた。
汗で顔がべとべとしているのを、俺は腕でぬぐった。美里が振り返り、ぎらぎらした顔のまんま俺を見た。
「冗談じゃないわよ!」
またかよ、せっかく俺が頭冷やしてるってのに、美里の奴まだわめきたりねえのかよ。
俺が言い返そうとしたら、一気に美里はまくし立てた。
「沢口の奴、何を考えているのかわかんない。最低!ここから出なくっちゃ!」
俺相手じゃあないってことだ。ふつうの会話でOKだ。俺は戸を指差した。
「奴はいなくなったみたいだけどな。美里、戸、開けられるか」
「南京錠がかかってるんだもん。本気で壊さなくちゃ出られないわよ」
とにかく監禁されたってことだけは確かだ。美里はしばらく黙っていたが、大きくため息をついたあと、
「いったん休戦ね。図書館に一晩中いるっていうのは絶対いやよ」
あっさりと休戦の話を持ち出した。クールな頭の俺も、それに異存はなかった。
「同じく。食い物もぜんぶ向こうに置いてきたんだ。腹空くぜ」
「とにかく、どうするか、だわ」
ガラスを割っちまうとたぶん弁償になる。親が出てきてまたややこしいことになっちまうだろう。だから戸だけをはずす方法を俺たちは考えた。まずは軽く押したり、引いたり、蹴飛ばしたりいろいろなことをしてみた。だが腐っても南京錠、頑丈だ。びくともしねえ。
「貴史、見なよ。ここの戸、空いてる。どうする、出られるよ」
美里が窓の外を眺め鍵を開け、俺の名前を呼んだ。
「誰かいるか?」
「いないよ。いるわけないじゃない。外、出るでしょ」
「出てどうする、体育館に戻るのかよ」
「戻るわけないじゃない。貴史、あんた自転車どこに置いてる?」
昼間、学校に集まった際、大抵の連中は自転車をどこかの公園か校庭裏に隠しておいていた。一応、学校では自転車通学が禁止となっていたからだった。
「寺の松の木の下」
学校の裏に小さな寺があり俺たちたちはよく遊び場にしていたもんだった。境内で鬼ごっこしたり、夏休み中のラジオ体操もそこだった。すみっこにでっかい松の木が生えていて、まつぼっくりが雨みたいに降り注いでくる場所があった。寺専用の駐車場らしい。けど、俺たちにはその辺どうだってよかった。臨時で自転車置ければそれでいい。今のところどやされたりはしていない。。
「公園だとさ、他の奴がみんな置いてるだろ。知らねえ奴に盗まれるのもいやだったしさ」
「そこに置いてあったの、あんただけ?」
「俺だけだ。とりあえず、一台だけしかなかった」
「そうか」
美里は外に身を乗り出し、しばらくそのままでいた。振り向いた。
「どうせだったら、夜遊びしよっか」
「夜遊び?」
美里は俺を手で招いた。俺の顔見て、いきなりにっこり笑いやがった。
「沢口を、見返してやろうよ」
夜遊びと見返すことと、どう繋がるんだ、そうつっこむ間もなく美里はマシンガン口調でしゃべりだした。
「だってさ、ふつう、言い訳させてくれるよね! 他の先生だったら絶対、そうだよ。でも、沢口はいきなり、『牢屋だ!』とか言うんだよ。なんかおかしいよね。変だよね」
「ぶんなぐってやりたいとは思うな」
「でしょでしょでしょ! いっつもそうだよね。遠足の時だって、社会科見学の時だって、いつだってそうだよ。いつも私とあんたばっかり責められてさ」
「俺たちのことをああまで嫌うんだろうなあ、恨みでもあんのかよ」
「わかんない、でも、すっごく腹立つよね」
近づき、俺も窓の外を眺めた。そろそろ鈴虫の声が聞こえる八月半ばだった。夜、親に「布団はがないで寝なさい! 風邪ひくよ!」とか言われて怒られる時期が近づいていた。
「沢口はみんなで楽しくお泊り会できたと思ってよろこんでるよね。私たちがいなくなったからってさ」
「いつものことだろ」
「だったら、私も楽しいことしたい。しようよ。いいよね、沢口がいないんだから、好き勝手なこと、できるよ」
「たとえば、何だ?」
俺に美里の鼓動らしきものが伝わってきた。心臓の音に近い、とくとくという、かすかな響きだった。離れているのだから聞こえるはずはない。けど、自分の心臓の音と一緒に、二重に響いていた。
「私、自転車、うちに置いてきてるんだ。取りに行ってくる」
ぎらついたまなざしで美里はじっと俺を貫いた。
「夜の駅前とか、見に行こうよ」
つられて俺も頷いていた
「美里、お前俺の後ろに乗れよ、だったら一台ですむだろ」
戸を開けっ放し、図書館の電気もつけっぱなし。さっそく俺たちは窓から飛び降りた。それほど高さもないし、俺も美里も身体がかるかったせいか着地もうまくいった。
けど俺たちのやろうとしていることは、今思えばもろ、「非行」そのもんだろう。
もう夜十時近いってのに、男子と女子仲良く自転車に乗り込んでだ、ふらふらと町を走っているんだぞ。俺ももちろん、ちらと補導される可能性を感じなかったといえば、嘘になる。学校の近くはそれこそ口うるさいおっさんおばさんが多いから、すぐに連絡されるかもしれないわけだ。そういうのに慣れてないとは言わねえけど、やはり少々どきんとするものがある。
けど、あの時に限って言えば、誰にも会わなかった。
美里と一緒に俺の中のなんかが動いた。
にっくき沢口、けんか売っていた女子連中、あぜんとして見送ってた男子連中、そんな奴らがどっかに吸い込まれたような感じだった。あの夜は今思えば奇跡だった。とことん、なんかに守られていたような気がする。
どのくらい美里を乗せて自転車を漕いでたんだろう。喉の奥ひりひりした。息ががさがさしている証拠だ。喉の感覚で、思いっきり遠くに来ているんだってことがわかった。
夏の夜道を、全く人に会うことなく走りぬけていた。よくうちの母ちゃんズには「神隠しに会うから、夜ふらふらと出かけるんでないよ!」口すっぱく言われていた夜道も、月明かりと街灯の中をスピード上げて走ればすうっと気持ちいいだけのものだった。目の前に下り坂を見つけた。闇だったんでどこだったかは忘れた。美里に悲鳴あげさせてみるのも面白いかもしれない。けど後ろでつかまっている美里は悲鳴ひとつあげやしなかった。もわっとした空気とひんやりした風が入り混じる中、美里は笑いながら、
「最高! もっとスピード出して! 貴史、やるう!」
叫び声を上げていた。ほんと、よく見つからなかったもんだ。
そろそろ俺も休憩したくなって、ペダルを漕ぎつつみ渡した。さすがにまったくわからない場所というわけではない。いつもバトミントンをやっているコンクリートの敷地を発見した。いつもだったらそこらへんでおっちゃんこするのも手なんだが、なんか昼とは違って体が硬直してしまいそうな気がしてためらった。
「これからどうする? 美里、戻るか?」
「どこにいくのよ、いくとこないじゃないの」
学校なんかに戻りたくないってことが、よっく分かった。
何も怖くなかった。どこへ行ったってかまわない。さらさらと叢のすれる音も、ばらばらした星も、どこかぼやっとくすんでいた。スピードを上げ続けないと、なんかに逃げられてしまいそうだった。
自転車を寺の松根元に留め、俺はサドルにもたれて空を見上げた。
寺の自転車置き場からは、学校図書館の灯がちゃんとついているのが見えた。
俺たちがつけっぱなしにしたのと同じ状態だった。窓も開いていた。
「いないって気付かれたかなあ」
美里は自転車のそばにしゃがみこみ、ひざを抱えた。唇をとんがらせていた。
「電気が消えてないところ見ると、まだ気づいていないかもね」
「だろな。今のうちに帰ればばれねえですむってとこだ」
俺たちふたりが忽然と姿をけしていたとしたら、沢口をはじめ関係者の大人連中は大騒ぎだろう。もしかしたら俺と美里の両親ズ四人、沢口に土下座してるかもしれねえ。けど、俺が見る限り、図書館の窓に映る光に変なものはなかった。
「もう少し遊んでようよ」
「なんでだよ」
「おもしろくなくなるから」
「どこがおもしろくねえんだよ」
美里は答えなかった。そっぽむいてやがる。
「どうせ俺としゃべるのやだったんだろ」
「そんなこと、言ってないじゃない」
「さっさと帰れよ。俺、今のこと誰にも言わねえから」
「そんなんじゃないもん」
俺の目をじっと見上げ言い切った。見上げた瞳は鋭かった。
「じゃあ何がいやなんだ」
「沢口とか、うちのクラスの勘違い連中に決まってるじゃない。ふつうに人が話してるのに、どうして、そんなにひゅうひゅう言われなくちゃいけないの!」
「ばか、そんなことかよ」
「私、普通に話しているだけだよ!」
「言いたい奴に言わせとけばいいだろ、関係ねえもん」
「男子は楽だよね」
「楽じゃねえよ。俺だって言われてるんだぞ、知らねえくせになに考えてるんだ、ばーか」
「好きとか嫌いとかひゅうひゅうとか?」
俺は頷き、松の木によっかかった。こうしてると、木の幹からしゅうしゅう音が聞こえて面白い。
「しょうがねえだろ、美里としゃべってるほうがおもしろいんだからな」
美里はしばらく、考え込むように地べたを見つめていた。
「一言言えばな大抵の話、済むだろ。すげえ、楽だ」
「そうだよね、それだけだよね。楽だからよね」
そんなこともわかんないなんて、沢口もあいつらも、ばかみたい」
深呼吸したあと、美里はいったんしゃがみこみ、
「せーのっ!」
掛け声かけ、枝に向かってジャンプした。
「貴史、もどろっか。沢口への仕返しを考えようよ、作戦会議よ!」
後に知ったことなんだが、俺たちふたり、夜っぴいて「打倒沢口・作戦会議」を開いていた頃、沢口はひとりで近所を探し回っていたらしい。どうやら入れ違いか何かで俺たちの姿が行方不明になっちまったってことで、責任感じてたんだろう。両親ズを呼び出すこともしなかったし、もちろん学校のお偉方にも報告しなかったらしい。もっとびっくりしたのは、当時体育館で寝泊りしていたはずのクラスメート連中が何にも知らないまま卒業しちまったってことだった。俺と美里、あとは沢口しかこの脱出事件の真相を知らないというわけだった。今思えば、男子と女子を二人、いくらなんでも閉じ込めて南京錠をかけておくなんてのはあとでPTAあたりから突き上げ食うかもしれないやりかただろう。
ま、運が良かったってことだ。結局俺たちの脱走騒ぎはすべて闇に葬られた。
そして三年間の封印切ったのが青大附中の面接入試会場ってのが、まあ、俺なりの報復ってとこだ。沢口、ざまーみろ!
確かあの夜通った道だった。美里を後ろに乗せて走り回った道だった。
今と違うのは、道路沿いに桜がちょこっと咲いていることぐらいだろう。
まだ散ってはいなかった。
「今日は青大附中だけが入学式だよね、公立は明日だって言ってたよ」
「だから誰もこの辺歩いてねえんだな」
「どうしようね、こんなかっこで二人乗りしてるって、告げ口されたら、どうする貴史?」
「知らねえよ。『清坂と羽飛は付き合い出してる』とかまたいつものパターンじゃねえの」
「あ、いつものことね」
美里はさらっと流した。ちっとも反応しやしねかった。
「でも、そんなのどうでもいいじゃない。楽しいからしゃべってる、楽だからいっしょにいる、それだけのことなんだもん」
かつて、俺は同じことをを美里に言ったことがあった。夏のあの夜だった。
とシュチュエーションはまったく変わっていない。三年も経ってないってのに、美里の喋り方は全く変わっていた。思わずふらついた。
「ばか、何ひとりでゆらめいてるのよ、落っこちたらどうするのよ!」
「ちびのくせに体重重たいくせに」
「残念でした。私、五年生から体重変わってません」
そこまで言って、突然美里は何かに気付いたように、はっとあたりを見まわした。
「ねえねえ、貴史。私、太ったように見えた?」
「思ったより、ちびだとは思ったけどな。入場前に整列しただろ。お前、はるかかなた前に行っちまってるんだもんな」
「背が低いと、やっぱりそう見えちゃうかあ、太ってるって」
「俺にか? は、いまさら」
「ばか、あんたはどうでもいいよ。それよか」
「ははあ、もしかしてお前、あいつにそう思われたと、思ってるんだろ。ばっかみてえ」
俺はもう一度ハンドルを握り直し、態勢を整えてペダルを漕ぎ始めた。
美里が何か言い返すのを無視した。さっさと家まで運んでいきたかった。
「美里、お前、さっきのあいつに惚れただろ」
「ばっかみたい。あんたねえ、入学式そうそう、なに考えてるのよ、私だってそんな暇人じゃないわよ」
「甲高い声出して、色気づいてたくせに」
「そんなんじゃないわよ! もう、やらしい! ただね、あんまりしゃべんない人なんだなって思っただけ」
「ねこかぶってるんじゃねえの最初だろ」
「なんだか私たちとは違う世界の人って感じしなかった? お父さんが雑誌記者で、お母さんがいなくて、大人っぽくて」
「今まで会ったタイプの奴にはいなかった奴だよな」
「でしょ。これから私もあんたも、ああいう感じの人たちと付き合っていくんだよね」
もう一度、自転車を止めた。俺もゆっくりと振り返った。美里は座ったまま、俺をちらりと見た後、
「貴史、あんたとは違うよね、なにもかもが」
その後、軽くうつむいた。
美里がどうして、合格発表の時、俺に抱きついてきたのか。
ずっと俺の中にひっかかっていた。何かがとけた。つながった。
ひとりで白鳥のみずうみに飛び込むのが、怖かったんだ。
俺が母ちゃんズの手の込んだ説得に根負けしたふりして、
「しゃあねえな、受けるだけ受けるけど落ちても受験料もったいねえとかいうなよ!」
そう言い放った次の日、どこから聞きつけてきたんだかあいつは、
「使い終わった問題集あるから、あげるよ、どうせあんたぜんぜんやってないんでしょ。ばっかみたいよね」
俺にわざわざ持ってきやがった。嘘つけって思った。だってその問題集、新品だったぞ。どっかの本屋で買ってきたものだなってすぐわかった。けどなんも言わないでおいた。
その後もあいつは塾でもらったとかいうプリントを、わざわざ俺の部屋まで来てコピーしたもんを届けてきた。頼みもしねえのに、答えと自慢話をひとくさりしやがった。
「塾で出た模擬試験だけどさ、貴史、ぜんぜん受けてないよね。あんた解ける? 私国語、満点だったんだから。すごいでしょ、ほめてよね」
意地でも褒めなかった。自己採点の結果、国語は美里に大きく水をあけられたが、算数と理科は九十点以上稼いだ。たぶん総合点では俺の方が上だった。ざまーみろってこっちが自慢してやったら、美里はすっかりぶんむくれていたっけか。
ライバルが増えたんだからもうちっとあせるだろうに、美里の奴、ひたすら俺の家に通いつめて、母ちゃんにねこかぶりの笑顔見せて、
「ね、塾の情報教えてやるから、ほら、あんたの部屋に行こ」
「お前なんで、学校でそういうこと話さねえんだ」
「だって、うるさいじゃない。面倒よ。詩子ちゃんとかすねるしさ」
わけのわからん言い訳しやがって。結局俺は六年の冬休み、美里と頭つき合わせてずっと、受験勉強という名の「どつきあい」を続けていた。
美里の場合は、かなり早い段階から受験勉強をはじめていたということだし、塾にも通っていた。ということは、青大附中を受験するであろう頭のいたくよろしい連中と話をする機会もあったろうし、青大附中がどういうお坊ちゃまお嬢ちゃま集団なのかってことも理解していたんだろう。当然、俺たちとは毛並みの違う連中だってことも、承知していたに違いない。
成績は俺と同じくらいだったし、まあへまやらかさねば受かる程度の頭は持っている。けど学校って成績だけが命じゃねえだろ? 美里みたいに納得いかねえことはどんどん噛みつき、沢口に危険視され、女子連中からは恐怖の視線を送られるような奴が、はたしてそんなおりこうさん集団の中でやっていけるだろうか? 俺は九十九パーセント、無理だと思う。小学校時代は俺が一緒につるんでられたからいいにしても、もしたった一人になっちまった場合どうするんだろ。代わりの相棒がいりゃあいいが、果たしているのか? これも俺は自信を持って言い切っちまおう。美里のような爆弾女子の取り扱い方をマスターしてるのは、俺、羽飛貴史ひとりだ。簡単に、俺の代わりが見つかるわけがない。
──青大附中のお坊ちゃま連中に、美里の相棒になる根性ある男子が、いるわけない。
俺も、たぶん美里も、その一点だけは、絶対確信していたはずだ。
「あのさ、美里。お前、青大附中に行ったからって、そう簡単にやることなすこと変わるわけねえよ。どうせお前、他の奴らに合わせたいなんて思ってねえだろ」
目を合わせるのもなにか嫌で、横を向いたまま俺は話し掛けた。
「立村って奴、見た目まじめそうに見えるけれど、どうもそれだけじゃないような感じなんだよな」
「あの、立村くんが?」
「俺の本能でぴーんときたんだ。もしあいつが単なるお坊ちゃまだったら、俺の方でしゃべりかける気起こさなかったと思うんだな、たぶん。それに、さっき三人でいた時、楽しかっただろ」
気になったことだけ、思いつきでつぶやいた。美里もうつむいたまま頷いた。
「……うん」
「だろ」
「またはじかれたらどうしようとか、思わない?」
「思わねえよ。ひとりでも話が通じる奴がいれば、怖くなんかねえよ」
美里からは見えない角度に顔を向けたまま、はっきり聞こえるよう答えた。
返事は待たなかった。俺はペダルを漕ぎ出した。
小学校時代のクラスメイトと顔を合わせることもなく、警察に二人乗りの現行犯で補導されることもなく、俺は美里を無事、家まで送り届けた。今朝通った時に閉めておいた車庫のシャッターが開きっぱなしで、緑の車が顔を出していた。ってことは、母ちゃんズ、すでにお帰りってことだろう。美里も肩をすくめてため息ついた。
「どうしよ、母さんたち戻ってきてるよ。貴史んちのおばさんもいるみたいだよ」
ちゃんと許可をもらって帰ったんだ。母ちゃんズに罵られるようなことはしてねえよ。でも美里の顔はなんか浮かない。何か弱みでも握られてるのか? こいつ。
「一応、バス代もらってるのよね。ささやかな小遣い、今さらまきあげられたくないよね」
「青大附中からここまでだといくらくらいかかるんだ」
「片道百三十円くらいかな」
「ポテトチップス一袋は買えるなあ」
その辺の懐事情は俺もよっく理解している。一案が浮かんだ。
「また面倒になるからな、お前、一人で帰ったことにしろよ。俺と二人乗りしたってことがばれたら、母ちゃんズに何言われるかわからねえよ」
「わかった。じゃあ明日ね」
挨拶代わりにいつものおさげをひっぱってやろうか、つい頭に手を伸ばしてしまった。なんか変な動き方している。やばい。動く前に気付いてやめた。ごまかした。
「しっかし、美里。髪の毛なくなると、女子に見えねえな」
「あんたに思われなくて結構よ」
「思われたい奴だっているんだろ。誰とは言わねえが」
ちらりと匂わせてやった。やはり美里の反応はわかりやすい。
「何考えてるのよ。今度はあんたまで私を『色きちがい』とか言うつもり?」
「ばあか、言うわけないだろ。俺の目から見た、事実だけだって」
真新しいかばんを両手で縦長にもち、美里は俺を思いっきりぶんなぐろうとしやがった。甘いな。俺の身のかわし方は天下一品、小学時代一度だって教師連中に負けたことなかった俺の腕。すばやく方向転換をし、一気にペダルをたくさん踏み、我が家へと急いだ。
美里と付き合いの長い俺のこと、わが身を守るのは当然だ。
首筋にだけひんやりと走る風は乾いていた。なんか風邪引いたみたいに咽がひりひりしそうだった。俺はすぐに自転車を車庫に付けた。うちの母ちゃんは相棒・美里の母ちゃんと盛り上がっているらしいし、姉ちゃんもどっかへ行っちまった。名門私立中学に長男の俺さまが合格したからといって、しょせんこんなもんよ。うちの父ちゃん母ちゃん、盛り上がってるようで結局は脳天気。お坊ちゃまごっこなんてしやしねえ。こういう羽飛家の家風を俺は猛烈に気に入っている。
郵便受けの後ろに隠してある鍵をひっぺがして入り、俺はベッドの上に制服を脱ぎ捨てた。母ちゃん家にいたとしたら、
「どうしてあんたって子は、ちゃんとハンガーにかけないの!」
とぶっ飛ばされるだろうな。俺、今までブレザーなんておぼっちゃん服着たことねえもん。中学行ったら無条件で詰襟の学生服でガクラン着こなす運命だと思ってたんだけどなあ。
かばんを開けた。あんなに学校では苦労して閉じた金具だってのに、うちではあっさりと外れた。ひっくり返して中から渡された紙の束を床に落としてみた。一枚ぺらっと落ちてきたのは「一年D組 菱本守教諭担任 クラス名簿」だった。
ジャストタイミング。いいってことよ。
まず自分の名前を男子列から探した。下から二番目にあった。
次に一番下の奴をそのまま眼で追った。『立村上総』と印刷されていた。ふりがなは振ってなかった。名前、父母名、電話番号と住所がプリントされていた。立村の住所は「品山町」だった。俺に話したことはみんなほんとだってことだった。品山なんてどのくらい時間かかるんだろうか。青大附中に通うとしたら、一時間くらい自転車漕がねばならないんだろうな。こいつ、なんだか思いっきり遅刻魔になりそうな気がする。お坊ちゃまぶりっこしたって、しょせんは遅刻魔か。美里にあとであいつの運命教えてやろう。もともと美里は優等生っぽい奴に弱いからなあ。なあに、美里の惚れた奴なんて、俺の目にはすぐにお見通しだもんな。何年つるんでると思ってるんだ。入学早々、やってくれるよな、美里も。
なんか、猛烈に笑いたくなった。むりやり「はっはっは!」と勢いよく腹筋を上下させてみた。違和感ある。なんでだろう。
ほんとあいつ、自分でもどう男子に見られているかぜんぜん気付いてねえんだな。美里が好きな奴に熱を上げる時っていうのは、やたらと一オクターブ高い声出してぶりっこするだよな。ぶりっこが嫌いだとか勘違いしたこと言っているけど、さっきの立村相手にした時みたいにな、すぐかっこつけるんだ。
俺くらいだって。すぐにあいつの考えていることが、見当つくのは。
ま、俺が思うに立村って奴は見た目よりも実はぼけぼけした奴じゃねえかと思う。美里がぼーっとしたような優等生の王子さまじゃあねえぞあいつ。ま、美里が観念して「私、あの立村くん好きなんだけど、貴史、協力してくれないかな」とか白状したら、そんときは俺も男だ、協力してやるさ。
ぶるっと震えが走った。汗で身体が冷えちまったようだ。くしゃみが出そうになり、ごくんと飲み込んだ。かなり無理があった。げほげほむせた。しゃれにならねえよ、入学そうそう風邪で休むなんてな。
なんか独り言、突然言いたくなった。たんすを開きポロシャツを引っ張り出した。
──なあにが、「あんたと離れたら、私、本当のこと、誰にも言えないよ、貴史」だよ、ばっかみてえ。
合格発表の日。俺は美里に言わなかった。冗談じゃねえ、これからだって誰が言ってやるもんか。世話かけやがってったく!
──勝手にわかってしまうんだ、しょうがないだろ。
──終──