三
当然、俺は学校に、うちの親たちよりも早く到着した。
学校から送られてきたプログラムで見たところによると、四月五日にまず中学の入学式が行われるんだそうだ。次の日が高校。最後の日が大学となるんだとか。だから見渡す限り、目に入る殆どの連中は、みな俺と同じような格好した奴ばっかりだった。あえていえば、父ちゃん母ちゃんのオプションがくっついていないかどうか、くらいだろうな。どの生徒にもめいっぱいおしゃれをしたどこぞの母親たちがみな、制服姿の連中に寄り添っていた。
ちなみにその間、在校生はみな休みになっている。ガンつけられる心配も、今のところはない。
「要くん、ほら、お母さんも一緒だから、怖がらなくてもいいのよ。入学式だけがまんしてなさい。教室に入っても一緒にいるからね」
通りすがりの親子連れから聞こえてきた会話に、俺は耳をそばだてた。
「要くん」とはだれぞや?と横目でにらんでみると、そいつはめがねを掛けたちんまい男子だった。うつむいて頷いてやがる。こいつほんとに俺とおんなじ歳かよ?
なんだか受験のために二人三脚してきましたって感じの親子だった。あれで、やっていけるのかよ。ああいう奴と同じクラスにはなりたくないよな。誰か母親代わりにあてがわれる哀れな女子が出てきそうな気がする。まず美里は逃げるだろうな。
青大附中入学式・親子ウオッチング、その二を楽しむ。さらに目だっている親子をチェックした。
今度は女子だ。袖先がたっぷり手の甲にかかっているブレザーに、赤い蝶ネクタイをきっちりと結んでいる。両親揃ってなにやら語らっていた。門のところで父親らしき人が、カメラを片手に母ちゃんと娘の位置を指示している。家族撮影、狙っているのだろう。残念ながら親切な奴を捕まえられないので。
「ほらほらふたりとも、べっぴんさんふたり、ちゃんと並んで」
「可愛く撮ってあげてね」
父親と母親の会話もかなりぶっとんでいるが、男子っぽく短い髪の毛の女子はあっけらかんと言い放っているではないか。
「可愛いだけじゃ能がないじゃん、父さん、ほら、もっと色っぽく、男子全員が私の笑顔ですっきり『抜ける』ように撮ってよね! いい男いっぱい捕まるように!」
──こいつ、何考えてるんだ?
注意しろよ、公衆の面前だぞおい。でも両親ともども全く叱るそぶりもなく、笑顔のままシャッターを切っていた。
うっかり通ったら、「すみません、シャッター押してもらえますか? 三人で撮りたいんですが……」とか言われて捕まりそうだ。「抜ける」などとほざいたその女子の顔が鈴蘭優ちゃんなみの可愛い子だったら話は別だ。だがしかし。はっきり言おう。真昼間からああいう下ネタ言い放つ女子は好みじゃあねえ。女子はなんだかんだいって、控えめにしろと俺は言いたい。んなこと言ったら美里に張り倒されるだろうが、それは俺の趣味だ。
しばらく自転車置き場を探した。車は駐車場いっぱいに並んでいたが、自転車専用の場所は見当たらなかった。白いライトバンと鷲のマークが目だつ車の間に、自転車を忍び込ませた。
クラスが何組なのかをまずは調べなくては話にならん。
学校からもらったパンプレットによれば、受け付けで名乗って、係の人から自分のクラスを教えてもらうようにという話だった。仰せのとおりにいたしましょうってことで、俺は生徒玄関で靴を履きかえ、そのまま「新入生受付」の紙がぶら下がっている机へと向かった。そこにはふたり、たぶん大学生くらいの女の人が座っていた。なんで大学生かと思ったかっていうと、制服着てなかったからだ。
「お名前は?」
「羽飛、貴史」
「はとばたかし……さんですね。はとばとはどのように?」
中学一年に対して大学生がここまで丁寧だと、なんだかえらくなったみたいでかゆい。堂々と答えてやった。
「はねの羽に、とぶの飛」
「珍しい苗字ですね」
さすがに「まあな」とは答えられない。黙ってその大学生が机に敷いている紙を指先でなぞり、ふっと留めて答えてくれた。
「ありました、D組です。この廊下を左まっすぐ行って、四番目の教室です。場所わかりますか」
たぶん受験の時の教室とほぼ変わらないだろう。俺は悪いが方向音痴じゃあない。
「大丈夫っす、どうも」
当然と答えてやった。受付のあるでかいホールの左側に向かい、まずは教室の表札を眺めながら探していった。A、B、C、Dと続いているはずだ。確か青大附中はクラスが四クラスしかなくて、アルファベットで分けられていると聞いている。かっこいいぞこれ。公立中学だと全部数字の1、2、3、4だぞ。小学生のまんまでガキくさいよな。やはり、附属だ。D組かあ……ん?
歩き始めてから初めて気がついた。調べときゃよかった。
美里のクラスだ。「清坂美里」なんて名前も、そうざらにあるもんじゃあねえ。
D組の前はドアが開けっ放しだった。まずは首出して覗き込んでみた。白っぽい光が差して顔がよく見えない中、制服のネクタイとリボンだけがやたらと目に飛び込んできた。まだ到着したのは半分くらいなんだろう。わやわやと大人の声もする。と、
「たかしっ!」
誰だ、俺の名前呼ぶ奴は。ああ、ひとりしかいない。すぐに声の方を振り返った。目がすぐに慣れて、目の前の美里を発見した。廊下側から二列目、前から三番目。ちょこんと椅子に納まってるじゃないか。
いや、それはいい。問題は美里の頭だ。思わず指差して叫んでしまった。
確か昨日までは肩まであったはずなのに、今の美里はすぱっとあごのとこまで切り落としてしまっている。結びようのないくらいの短さだった。
「お前、ねえぞ、髪の毛」
「切ったに決まってるじゃない。ないなんて、変なこと言わないでよ!」
「ったくお前もD組かよ、まじかよ、ったく腐れ縁もいいとこ……」
いつもならまぜっかえすんだが、いやしかし、今はできない。机の隣で、美里んとこのおばさんがにっこり手を振ってるからな。もっとも、思いっきりいいとこの奥さんっぽい顔しているのは見え見えだ。おばさんだっていつもだったら、「あーら、今日も男前ねえ、たあちゃん!」くらい言われて、背中をばしんと叩かれるだろう。
「あ、こんにちは」
周りの視線が俺と美里に集まってくるのがなんかわかる。美里の顔をのぞくと、かなりぶんぶんふくれている。さては親子喧嘩一発やらかしたか。けどな、とばっちりは食いたくねえぞ。
「たあちゃんと同じ組で、美里、よかったね。安心したわ。これからもうちの美里と仲良くしてやってね。あら、お母さんはどうしたの? いらしてるんでしょ」
おかめ化粧で手間取ってるなんて誰が言えるか。適当な言い訳を探して天井を見上げている間に、美里が助け舟を出してくれた。
「お母さんってば、もういいかげんにしてよ。さっさと父母席に行ってよ。ここ教室なんだもの、あんまり親とくっついてたらばかにされちゃうんだから!」
そりゃそうだわな。早く追っ払いたいわな。それでもまだ未練ありげのおばさんは、俺をちらちら見ながら、
「でも、たあちゃんのお母さんがくるまではここに居たっていいでしょう?」
「あ、うちの母さん、たぶん遅いと思うし」
「だよね、だよね。だからお母さん、早くどっか行っててよ。邪魔なんだから!」
「いいじゃないの、まだ子どもなんだから」
ちっとも動じないといった態度で美里んとこのおばさんは、俺にもう一度片手を振った。
「じゃあ、たあちゃん。美里のこと、よろしくね。お母さんと一緒に会場にいますからね」
くくく、と後ろの方で笑い声がした。知らない女子がにやにやしながら俺たちの脇を通り過ぎていった。どっかで見たことある顔だと思ったら、なあんだ、あの下ネタ連発の、家族撮影中だったあいつだ。へえ、同じクラスなんだ。
自分の親だったらけり入れていたかもしれないが、他人の親だったらなにされたって知ったことじゃねえ。おばさんが出て行った後、美里は机を叩きながら俺にささやいた。
「あんた、一人で来たの。おばさんたちと一緒じゃなくって?」
「だって母ちゃん、化粧にやたら手間取ってるんだぜ。無駄なことをしてるんだ。あんなのに付き合っててみろ、絶対入学式間に合わねえぞ」
「いいよねえ」
うらやましそうため息をついた。
「今の見たでしょ。うちの母さん。朝からあんな調子よ。うっとおしいったらありゃしない。どこかのお金持ちマダムみたいな気分でいたいみたいよ。何考えてるんだか『おかあさま』と呼んでよ、とか言い出すんだから。たかが青大附中の入学式くらいでなにが、おめかしよ。他の奴がどうだか知らないけど、気取るなんてちゃんちゃらおかしいと思わない? たった一週間くらいで、私のどこがお嬢さまになるってわけよ。あんたもそう思うでしょ、貴史」
「単に、お前のこと気が気でないんじゃねえか。また誰かを一発ひっぱたいたりしねえかとか、スカートめくられたとかで野郎を半殺しにするんでないかとか」
「誰がそんなことしたっていうのよ! すっごく失礼!」
「怒るな怒るな。どうせ美里、女子だから面倒見られてもそんな恥じゃねえだろ。おいおい、それよかな、さっきさあ、すげえ親子見たぞ」
もちろん、後ろの方に鎮座ましてる「下ネタ女子」のことではない。
「どう考えても俺たちと同じ十二歳だと思うんだが、親にな、ぼくちゃんぼくちゃんって感じでな、なでなでされてるすげえ過保護な男子を発見してな……」
言葉を飲み込んだ。噂をすればなんとやら。俺たちの脇を通り過ぎたのは、あの、過保護な会話を交わしていた、めがね面の小柄な男子じゃねえか。お母さんらしき人は、美里んとこのおばさんとは違って、水色のふわふわした感じの服着て、やっぱしかいがいしく息子の面倒を見ている。俺が説明しなくても、たぶん美里にはわかるだろう。目で合図すると美里も息を殺して見つめていた。
「いい? 要くん、お母さんぎりぎりまでいっしょにいますからね」
言葉はなく、その「要くん」は廊下側一番後ろの席に座り、水色母さんの言うことに頷いていた。美里のようにいきりたって追っ払おうとする気配もない。
美里はずっとへばりついている水色親子を見つめたままだった。口からは
「うそお、いるんだ、ああいうのって」
言葉がもれた。だろだろ?、の意を俺は美里の机を指先で叩いて伝えた。
「『百聞は一見にしかず』、って、試験に出ただろ」
「ほんとだわ」
腐れ縁でもやはり男子と女子。ずっとくっついていてもしょうがねえ。ということで俺は自分の席がどこだか探した。五十音順に並んでいるらしい。俺の苗字は「はとば」だから「はひふへほ」の「は」。窓際の二列目、真中あたりじゃないか? 机の左端にフルネームで名前のシールが貼ってあるのでそこをチェックしていった。川の字にならんだ席の間をすり抜け、後ろから二番目の席にたどり着いた。あれ、「は」以降の名前って俺以外にひとりしかいねえのか。
まずは学校指定のかばんを置き、よっこらしょと腰をおろす。
それから新品のカンペンを取り出した。別に俺は今までのもんでいいと思うんだが、うちの親たちが黙っちゃいなかった。このあたりはぴかぴかの一年生ときた。もっともかばんには筆記用具以外なんも入っていない。まずは一年D組の同級生になるであろう連中の顔をまじまじと眺めることにした。
俺が来た頃にはまだ半分くらいしか揃っていなかったんだが、今見ると三分の二くらい席が埋まっていた。初対面だと思うんだが、中には集団化してしゃべくってる奴もいる。俺の二つ前にいるキツネっぽい髪形の男子が、やたらと愛想を振り撒いてにやにやしているのが目だつ。同じ小学校から来たんだろうか。ま、俺もさっきまで美里としゃべっていたんだし、おあいこだな。でもまあ、そんなあせらなくたっていい。俺はこれでも友だち作るのは得意なんだしな。
緑色の黒板はぴっかぴかだった。小学校の黒板がもろ「黒い板」に見えるのにまさに明るいグリーンって感じだった。ほんと、今まで俺たちが通っていた学校とは違う世界なんだなってことを思い知らされたような気がする。先生の使う机の上には、なぜかばらの花が飾られていて、なんだかやばそうな雰囲気が漂っていた。いや、変なこと考えたんじゃなくてな、いわゆる「サスペンス劇場」に出てきそうじゃねえか。これも小学校の頃なんて、気の利いた女子がたんぽぽやら野草を摘んできて、瓶にさすのがせいぜいだ。一本二本ではない。三十本くらいたっぷりとばらの花を生けるなんて、見たことねえ。
床もつるつるして、なんかちょっとだけやわらかい。その他傘掛けやロッカーも木で出来ている。木目模様の入っていないものといったら窓ガラスと柱時計、あと窓辺でしっかり場所を取っているOHPくらいのものだ。
かばんをどけて机を撫でてみた。入試の時も思ったんだが、机は白っぽい木でできている。もっともこちらは新品ってわけじゃあない。以前使っていた奴が彫刻等で彫ったんだろう。「S・H」だとか「H・H」だとかいろいろとイニシャルが残っている。もっとも下敷きが必要なほどにはでこぼこしていないとこが、やっぱし、「お育ちのよさ」ってもんだろう。
しかし、よくよく触ってみるとかすかに鉛筆で書き込みが残っている。なんだこりゃ。
──数学のKの奥さんは、すっごい美人! いったいどこでひっかけたんだか。あの顔で。
──社会のHはただいま彼女募集中! 先生&生徒恋愛を目指すそこのあなた! チャンス!!
以前この机を使っていた、おそらく女子の先輩殿がが残した噂の種だろう。悪いが俺は女子と違って、そんなことできゃあきゃあ騒ぐほど暇じゃねえ。とりあえずは頭に納めておくことにする。数学のK、社会のH。美里にあとで話しておいて、探偵ごっこしても面白そうだ。
さて、後ろの席を振り返ってみる。
真新しいかばんがいつのまにか机の上に置きっぱなしになっていた。とっくに来ているってことか。まだ席には戻っていないらしい。けっ、いたら少し受験の思い出話にでも花を咲かせるつもりでいたのにな。しょうがない。後ろがだめなら前の席。いたいた、さっそく声を掛けてみた。
「よお、どこから来た?」
俺の質問は当然、「どこの小学校から来た?」って意味だ。
当然、「ああ、俺のがっこは〜〜小学校だ」って返事が返ってくると期待するもんだ。
なのになんでだろう、こいつから返ってきたのは、
「祭事町だけど」
もうひとり一緒にいた奴も、
「俺は霧多町」
なんでこいつら、町の名前を出すんだろう。まあ遠いことは遠い。悪いがこいつら、絶対汽車通学せざるを得ないだろう。青潟駅から一時間以上はかかる場所だぞ。今朝は何時に家出てきたんだか。
「おめえら、すげえところに住んでるな。どうやって通うんだよ」
「下宿だよ」
下宿ってなんだ? 聞き返すと、
「俺たち、同じ下宿屋なんだ。塾で一緒だったしね」
「一人暮らしするのかよ!」
「でなかったら、通えないだろ。下手したら帰りの汽車、なくなっちゃうしさ」
よくわからねえ。しばらく俺と前の席ふたりとはかみあわない会話が続いた。だいたい頭の中を整理してみたところによると、そいつらは塾で知り合って以来の友だち同士。一緒に合格した暁には同じ下宿で青大附中生活をはじめようと決意していたんだそうだ。もちろん親の了解の上。ちなみに下宿は食事は殆ど用意される。一人暮らしと言っても、下宿のおじさんおばさんがいるから、それほど羽が伸ばせるわけでもなさそう、ということだった。
かなり盛り上がっていたのに、なんで気が付いたんだろう。俺の背後がやたらとあったかい。ちらっと振り返った。顔を見ようとしたけど、相手は伏せているんで表情はわからなかった。俺と同じグレーのブレザー制服姿で、だいぶだぼついている袖口もそっくりだった。もろ服に包まれているって感じだった。「は」よりも後ろの苗字になるそいつは、面接受ける時と似たようなやり方で椅子に腰掛けた。すぐに前の席連中がひそひそ話しこんでいる。
「模試の時に見たことあるよな、あいつ」
「へえ、受かったんだ」
模試ってなんだ? まずはそこをつっこんだ。
「模試なんて、俺受けたことねえよ。なにそれ」
「お前受けたことねえの? 模擬試験って、あるだろ、青潟大学附属中学受験模擬試験って、しょっちゅうあっただろうが」
悪いな、俺は塾にも行かずに受かった、結構すげえ奴なんだ。胸を張ってやる。誰も反応しねえ。けっ、まあいっか。しかたないので後ろの席の奴について、話を戻す。
「けどさ、模試で見かけたのって、あいつだけじゃねえか。俺、見てねえぞ」
下宿コンビはふむふむと頷きながら、さらに噂話を加速させている。聞こえないわけじゃなかろうに。俺は目立たないように靴の紐を結ぶ振りをしてちら、ちらとそいつの顔を覗き込んだ。意地になって顔伏せてるみたいだった。そのまんま黙ってかばんから学校案内のパンフレットを開き、目を通していた。なんでそんなもん持ってきてるんだろう。よくわからん。めくるたびに不ぞろいの前髪が揺れてるのが見えた。他の奴とは違い、いかにも「床屋行ってきました! 校則違反ゼロ!」って感じにぴっとそろえた髪形じゃない。高校生っぽい雰囲気だった。
それにしても唇をぎゅっとかみ締めて、ずっとパンフレットに熱中しているのはなんでだろ。そんなにお前、「青大附中」の歴史が面白いか?
とてもだが、声をかけられる雰囲気じゃあない。
無視してほしいんだろうな。まあいい無視無視。
そいつについてはまだ噂が飛び交っている。俺はまず情報を集めることにした。
「なんだか、妙に目立ってて、覚えていたんだけど名前は知らない」
「俺の苗字が『はとば』だから、『は』以降の頭文字だってことは決定だろな」
扉が元気よく開いた。紺の背広を羽織った、たぶんこのクラスの担任教師が登場した。
俺にとって、一番のチェックポイントはそこだ。
担任との相性は学校生活すべてを左右する。小学時代後半三年間、俺と美里が沢口と戦った日々で学んだことだった。甘くみねえぞ、まずはどんな奴かじっくりと判断してやるぞ。
先生はさっそく、緑色の黒板に白いチョークででかでかと「菱本守」と書き、そのとなりにわざわざふりがなを添えた。「ひしもとまもる」。別に振らなくたって読めるだろうになあ。チョークを置いて、手をぱんぱんと打って、俺たち生徒に向かい、教卓にかがみこんだ。
「お前ら、青大附中入学、おめでとう!」
──お前らときたかよ。
「俺は、菱本守だ。青大附中一年D組の担任だ!」
──いや、それはわかってるって。何もそんな歯を剥き出しにして笑顔出さなくたってなあ。
「今日から三年間、お前たちと一緒に歩いていこう。そこんところ、よろしくな」
──歩いていこう、たってなあ。
見かけはかなり若い。たぶん天敵・沢口と同年代じゃねえかと俺は思う。うちの父ちゃんよりははるかに若いと感じる程度なので年齢は読めない。なんて思ってたら、あっさり菱本先生の方から自己紹介をどんどん進めてくれた。いいぞ、いけいけ。
「まずは俺から自己紹介だな。俺は今年二十八歳、教師歴としては五年生だ。見た目が若いとよく言われるぞ。おい、一番後ろ、お前、俺の歳どのくらいだと思ったか、言ってみろ」
──俺に当ててくれりゃあいいのに。
菱本先生が指したのは、「は」以降の苗字の持ち主だ。答えに困っている様子だった。そりゃそうだ。当てる自信、ねえもんな。俺の予想はだいたい当たったな。沢口よりめちゃくちゃ若い。無視されたのなんてたいしたことねえ、って顔で菱本先生は続けた。
「お前ら、ずいぶん顔ががっちがちだなあ。合格発表が終わってからの一ヶ月近く、周りから『青大附中は厳しいぞ』とか『がっちがちだぞ』とか『勉強で尻叩かれまくるぞ』とか脅されてきたんじゃないのか? そうだろうな、そうとう、受験やつれすごいぞ。でもな、この学校、外はがっちがちだが中はふんわりなんだ。もちろんしっかり勉強はしてもらわないとまずいけどな。青大附中の校風、それと面白さっていうものは、お前らにも少しずつわかってくるはずだ」
楽しそうな口調だった。ひとり浮かれている。
「もちろん勉強は大変かもしれない。そこんところは嘘じゃない。公立の中学に行った友達と比べたら、そりゃ驚くだろうな。ふつうだと高校で習う問題を、お前たちは一年の内に習うかもしれないんだしな。けどな、お前ら、勉強のほかにもやることがたくさんあるぞ。委員会だろ、それから部活だろ。そうとう忙しくなるぞ。二束のわらじどころじゃない、三足も四足も履かねばならないだろうな。詳しいことはおいおいわかると思うが、これから始まる燃える生活を楽しみにして、今から入学式に臨んでくれたまえ! ほらほら、後ろの君、暗い顔をしているのは、もったいないぞ、もっと元気に、しゃきっとしろ」
明るすぎる笑顔で締めくくり、菱本先生は手元に用意していたプリントを前列の席に配り始めた。受け取った人はそれぞれ、後ろに回す。俺も西洋紙にインクの匂いが残る「学級通信」を一枚受け取った。ひとり菱本先生の熱い言葉をぶつけられた、哀れな生徒に後ろに相手に渡した。無表情のまんまだった。
学級通信第一号「パッション!」の内容は、たった今菱本先生が熱く語ったものを、親たち向けにお上品な書き方に改めたようなものだった。新しい情報といえば、
「私、菱本守も、青大附属の卒業生としていつも感じることなのですが」と、
──へえ、こいつもこの学校の卒業生だったんだ。
熱いはずだ。きっと楽しかったんだろう。少なくとも沢口タイプのいやみったらしい教師とは違うようだ。まだまだわからんが、俺の勘ではこの「二十八歳・彼女いるかどうかわからない・菱本守」先生とうまくやっていけそうな気がする。だってこんなわかりやすい奴、もし同じクラスの生徒として出会ったら、すぐに打ち解けて盛り上がったと思うもんな。
教師運、大吉。めでたいぜ。
「では青大附中一年D組、初めての出席確認だ。いくぞ! まずは、いのうえくにひこ」
男子はイ行から始まった。三十人。男子十五人、女子十五人。無難に「はい」と返事をする連中がほとんどだが、
「すいぐち、かなめ」
声が小さすぎる奴もいた。すぐに菱本先生は繰り返す。
「すいぐち、ほら、男だろ、しっかり返事しろよ」
「……はい」
「よっし、これから少しずつ、腹から出すようにしていけよ。がんばれ」
なにががんばれなのか。よくわからん。見るとそいつはさっきの「水色ドレスのお母さん」と一緒にくっついていた「過保護なお坊ちゃま」だった。
俺のふたつ前に差し掛かった。
「なぐも、しゅうせい、いるか」
「はーい!」
確かずいぶん髪の毛をだらだらに長くしてすぐに他の連中としゃべっていた奴だった。後姿しか見てないが、きざっぽく敬礼している。
「ほお、いいぞ、決まったな」
「よろしくお願いしまっす!」
あっという間に俺の番だ。しかし菱本先生つっかかったのか、俺の苗字を呼ぼうとしない。これは一つの理由しか考えられない。たぶん、俺の苗字、読めねえだろ、先生。
「すんませーん、『はとば』なんだけど読めますか?
助け舟を出してやると、菱本先生は頭を掻きながらまたにやにや照れ笑いした。クラス一気に初めての大爆笑ときた。笑う門には福来る、めでたいぞ。
「これで『はとば』と読むのか。めずらしいなあ、お前」
「まあ、そんなとこ」
似たようなことを何度も聞かれてきた。受け付けの人も同じことを言っていた。確かにこの苗字は珍しい。くるっと何人かの男子、および女子が俺の方を振り向きにやついていた。見ると、さっきの下ネタ女子も俺にいきなりピストル持った真似してウインク送ってきてるじゃねえか。まあ、悪いことしたわけじゃねえし楽しいから、俺もピースサインを送っておいた。さて、最後の一人となった。
「たちむら……おい」
またも菱本先生口篭もる。俺みたいに助け舟を出そうとしないんで、五秒くらい沈黙が続いた。そのうちじっとにらむような視線でもって、菱本先生は俺の後ろに声をかけた。気弱そうな口調が笑えた。
「たちむら、でいいのか」
「りつむらです」
声は細く、かすれていた。
「名前は、かずさで、いいのか」
「はい」
──男につける名前じゃないよな。俺は貴史でよかったぜ。
俺の知る限り「かずさ」という響きの名前は、女子にしかつけないもんだと思うんだがどうだろう。少しざわめいたのをきっかけに俺は振り返った。さっきまでずっと机とパンフレットしか見つめていないあいつの顔をしっかと確認しておきたかった
あまり、自分の名前が好きじゃないのだろう。唇をかみ締め、真っ白い顔をすっと上げ、真正面からきついまなざしを投げつけていた。鋭すぎて、けんか売っている風に見えた。せっかくガンつけてるのに迫力がないのは、「りつむら」の顔がお上品すぎるからだろう。別の言い方では「女子っぽい」とも。奴は俺をガンつけ延長の視線でちらと見た後、今度は学級通信に目を通していた。そうとう、文章読むのが好きなんだな、こいつ。
菱本先生は名前の呼び方について納得したらしく、さっさと切り上げた。次は女子をひとりひとり読み上げ始めた。
美里が「きよさか、みさと」とすんなり呼ばれ、手を上げて「はーい!」と返事していた。
その後すぐに配られたクラス名簿で、俺はそいつの名前が「立村上総」だということを確かめた。