01●──地に足がつかない
非合理は爆音とともにやってくる。
抱き枕にしがみついて、じわじわと膚に浸蝕してくる粘りつくような暑さに堪えながら、うつらうつらと夢心地な境地に俺はいた。眠ってるんだか覚醒してるんだかよくわからない、曖昧な意識状態。首振り機能をとめて直に上半身にあたるようにした扇風機の風が至福。
抱き枕は男の汗を吸いこんでいくらか黄ばんではいる。が、まったくの無地で、二次元美少女のエロ絵がプリントアウトされたカバーをかけたりはしていない。誘惑がないとはいわないけれど、まだそこまで寂しい人生はおくっていない。男として大切ななにかを捨てる勇気もいまはまだない。それ以前に、鬼より怖い般若にボコられる危険はおかせない。
「暑い……」
もうとっくに正午はすぎてる。体感的になんとなくわかる。朝方はきまって地鳴りのように響き渡るセミの声も、いまは暑さに負けてかいくらかおとなしい。まだ啼いてるのもいるが、朝にくらべるとずいぶんまばらだ。朝はわんわんと反響してたのが、いまはじぃじぃ~じじじっ……という感じな音に転じている。セミの種類がちがうのか。
……まあ、どうでもいい。
意識が覚醒側へだいぶゆらいできた。薄目をあけて呆~と天井を見あげている自分に、ふと気づく。しかしまだおきる気にはならない。なのでまぶたを閉じなおし、意識をむりやり暗闇側へ押しもどす。いまはまだ寝ていろと、合理をもとめる俺のへたれた意志が訴えている。
現実逃避。
真に俺を目覚めさせたのが夏の暑さでもなく、膚にねとつく汗の不快感でもセミの声でもないことに、とうに気づいてる。そいつは、不穏と恐怖をともない確実にこちらに近づいてきている……
最初は、針で穴をあけたようなかすかな音だった。それが外耳に集音され、耳小骨を伝い蝸牛にて電気信号に変換され聴覚中枢まで達した瞬間、惰眠をむさぼる俺の脳が緊急信号を発し、ぞわぞわと全身に警告をゆき渡らせた。
音はやがて存在感を増し、重厚なエンジン音となって脳内の平穏を掻き乱す。ドゥカティ。排気量一〇七八ccのモンスターマシンの独特の爆音は、聴きまちがえようがない。精神が凍りつき、緊張が体内を這い蠢く。
あらためてぎゅっと目をつむり、抱き枕にしがみつき──爆音が通りすぎてくれるのを乞い願う。
願いは叶わない。叶った試しがない。
バイクはマンションの前で停まって、直後、音が止んだ。
くるぞ、くるぞ、くるぞ──
ここは二階だから、エレベーターをまつより階段を駆けのぼるのがはやい。
俺の安寧が破られるまで、あと十、九、八…………三、二……
「愚弟っ、いるかっ!」
ガチャガチャと鍵穴が掻きまわされる音のあと、スチール製の玄関ドアがバァンと乱暴にあけられる音が響いた。足音がドカドカと不気味に迫ってくる。名前すら、呼んでもらえない。
俺はせんべい布団の上で抱き枕ごと小さく丸まり、寝てるふり……もとい、死んだふり。
「おきろっ!」
「ぐえっ」
枕ごと、蹴り飛ばされた。
身体が半回転しながら吹っ飛ばされて、後頭部がしたたか壁にぶちあたった。
脳奥に火花が散り、夢の世界に未練をひきずる余韻すらあたえてもらえず一気に現実世界へこんにちはー☆
「いつつ……お、おはよう、オネエサマ……本日も、ご健勝でわざわ……いや、さいわい……」
「うるさい、黙れっ。なんであたしがここにきたか、いってみろ」
喪服姿の三十路もそろそろなかばのオンナが、蹴り飛ばした弟の直近に仁王立ち、まさに般若の形相で見下ろしてくる。冷ややかな蔑視。片手にはSHOEIのフルフェイスメット。つかその恰好で大型バイクをかっ飛ばしてきたのかと小一時間。
「えっと……」
「貴様が何時まで寝とぼけていようが、いまさらなにもいうまい。だが──」
こちらが答えるより先に姉の豪腕がぬうっと伸びてきて、首元を掴みあげてくる。そのまま上半身が剛力でもちあげられ、ノースリーブシャツの首まわりがきつくねじられ、ぎゅぅぅ~~っと、ぎゅぅ~っと……
「ぐあっ、締まる、締まるっ……ギブギブッ、ロープ、ロープッ」
窒息。生命の危険をおぼえて口走るも、ヒールの暴走を止めてくれるレフェリーはここにはいない。
我が姉がここまで激高して押しかけてくる理由にこころあたりはありありだった。姉貴の恰好が如実に物語っている。
「今日の法事に、なぜ顔をださない?」
「あー、うん。夜通し、ネトゲーしてて──」
ドカ、ガキ、グシャ
顔面に鉄拳。
左の手が首を締めあげ、右の拳が容赦のない顔面殴打。
「いたいっ、ひべっ、あべしっ」
ゆうべは仕事を早々に切りあげ、夜通しネトゲー三昧。途中で寝オチして、朝方セミの合唱で目が覚めて、万年布団に転がりなおしてまた寝て……いまにいたる。
「なにか言い訳があるなら、きいてやろう」
手をとめ、氷のトゲを生やしたような声が耳元でささやく。
「お盆だけの限定イベントで、これまで倒してきたモンスターを供養してから、特設の狩り場でレアモンスターを狩るという、経験値三倍&スペシャル限定アイテムゲットのチャンスで、やめどきが──」
「訂正。言い訳ではなく遺言だ」
殴打、再開。
拳の速度が音速を超え──
「あぐっ、おぐっ、ひぎぃっ──ぼっ、暴力反対っ、マジ死ぬっ、ををぅっ、三途の川がっ、賽の河原がっ」
「安心しろ、半殺しで許してやる」
「いやいやっ、医師がそれはさすがにマズイ──をべっ、あぶぅっ」
いかにも手慣れた様子で実弟に鉄拳制裁する我が姉だが、ふだんは白衣をひるがえし人々の健康と生命を守る行為に余念がない。俺にいわせりゃ天使の皮を被った悪魔──
「あれだけ電話をかけてメールして念をおしてやったというのに、どういう了見だ? すこしはご先祖様を敬え、社会常識を身につけろっ」
社会常識にはいまいち自信はないが、ご先祖様を敬う気持ちならじゅうぶん備えているつもり。問題はそうじゃない。親父や兄貴や親戚の皆々様方と顔をあわせたくなかっただけ。
「とっくに見限られているのに、いまさらノコノコ顔をだせるわけがないだろう」
自分にむけられること確実な、蔑むようなまなざしと陰口。わざわざ自分から、そんなモノを体験しにいく理由がどこにあるやら。俺にとっての実家の敷居はスカイツリーより高い。
俺が食いさがると、我が姉、池宮京は手を離し、肩でため息をした。
「世の中、社会にでれば厭な思いもいくらだってする、強いられる。いちいち逃げるなっ! ったく、これだから社会経験のないヤツは──」
「いやいや、ちゃんと仕事はしてるし、それなりに売れてて収入もあって、一応、自立してるし」
だから文句をいわれる筋合いはない──と、ヒリヒリ痛む顔面をさすりさすり、反論を試みる。俺の職業は……不肖、作家ということになる。書いているのはライトノベルで、デビューして三年弱。知名度は、まあ、むにゃむにゃ。
「それがどうした?」
京はフンと鼻で嗤った。笑う、ではなく、嗤う、のほう。
「ンな人気商売、いつまでも収入が得られるとは限らんだろうが? えらそうな口は、せめて芥川さんや直木さんに認められるようなものを書いてから叩いてみせろ」
「ぐぬぬ」
「だいたいが、貯金ができるほどの実入りがあるわけでもあるまい? というか、またモノが増えたか、この部屋」
豚小屋を見る目で室内をぐるりと見まわし、顔をしかめる。
ここにあるのはカオスそのもの。オタ部屋ときいて情景がたやすく想像できたなら、きっと俺のお仲間だ。本棚から余裕ではみだし床に積みあげられた本、本、本……の山。専門書に実用書に小説本にコミック本に、雑誌類。各種ゲーム機とソフトと攻略本と、アニメや特撮のDVDあるいはブルーレイ、未開封の美少女フィギュア……寝室なので、大の男が寝そべるだけの空間は一応確保してある。
「あ、うん。ずっと廃盤だった某特撮作品が、ようやくデジタルリマスターでDVD─BOX化したもんだから。それから──」
「嬉しそうに語るんじゃないっ、このすっとこどっこいっ!」
すっとこ……
うんまあ、空気が読めないとはよくいわれるが。もっぱらこの暴力姉に。そもそもここ数年、姉以外の誰かと仕事以外のプライベートでまともにコミュニケーションをとった記憶がない。
「すこしは掃除しろ。古い雑誌くらいはまとめて回収にだせ。いらんものは捨てろ。それか、売れ。売って金にして、貯金しろ」
「いらないものなんか、ここにはないんですが、オネエサマ」
機嫌をうかがうようにうやうやしく、最後は棒読みで。一般人にはゴミ、ガラクタのたぐいにしか見えずとも、俺にとってはすべてが人生を虹色に彩ってくれる至高のお宝の山。
「なら、貯金はいまいくらくらいある?」
「ええと……」
ゼロとはいわないが、口にだしても京に鼻で笑われる程度の金額だ。
「病院にもどれ」
ふたたび、俺の首まわりをぎゅぅ~と締めあげてくる。目と鼻の先まで顔を近づけ、威嚇してくる。
「堅実に働いて、彼女のひとりでもつくって地に足がついた生活をしろ」
「それは無理」
きっぱりという。たとえキモイと嘲弄されようが、二次元嫁さえいればそれで満足。リアルで彼女がほしいと思ったことは、過去いちどもない。めんどくさい。
ましてや、地に足がついた生活など……
「それができたら、そもそもいまの仕事は最初からしてないし──だいいち、いまさら俺は医者にも技師にもなれないよ」
「経理や事務、総務の仕事くらいはできるだろうが」
「コミ障だから、電話対応ができな──」
「殴るぞ」
ゴキュッ
目の奥に火花が咲いた。いったそばから拳を叩きこんでくるのはどーかと思う。
「なら、設備部はどうだ? 電子器機のセッティングや機械いじりならわりと得意だろう?」
「あれは重い機材やベッドやらの搬入搬出が頻繁で、正直、体力が保たない。とくに腰が死──ぬぁぐぅっ」
また、目の奥に火花。
「あれもいや、これもいやなら、いったいなにができるんだ、貴様」
「いやだから、俺、もうちゃんと仕事に就いてるし」
「もっと堅実な仕事に就けといっている。食い詰めてから実家に頼ろうとしても、だれも助けてくれないんだぞ?」
「そんなつもりは、はなからないよ」
ヒッキー気質のコミュ障人間にまともな就職をさせようというのが、そもそもまちがいだ。そりゃぁ無職ニートを更正させようと身内が躍起になるのはありだろう。だけれど俺は不定期ながら最低限の収入はある。家賃はまあ、祖母ちゃんの持ちマンションのあまった部屋を間借りしてるのでタダみたいなものだが、共益費や光熱費、食費、社会保険代、趣味にかけるお金はすべて自分で稼いでいる。
もともと中学のころには、自分が対人コミュ能力不足なのは自覚していた。将来、世間でいうところのまともな社会人になることは無理だろうと漠然とした確信もあって、ならどうしたらひきこもりつつ自立していけるかずっと模索しつづけてきた。
その結果たどりついた道が文筆業で、以来、ひたすら文章修行と妄想力を磨いてきた。自分なりに努力はしたつもりだし、一応、掲げた目標は実現させた。オタ趣味との相性もばっちりで、俺にとっては天職にひとしい。
だけれど、代々医者の家系で本家は大病院を経営、でもって地元の名士な一族からしたら、有名な賞もとってないオタ作家など、多分に傲慢な独断と偏見もあってまともな職業あつかいもしてくれない。
……そういう傲岸不遜な家風にどうしてもなじめず、家を飛びだしたというのもある。なのでいまさら実家にもどる気はかけらもない。
「てか、姉貴のほうこそいいかげん危険領域邁進中じゃないかっ。このままだと、マジでいかず後家──」
ぎぅぅぅ~~~
首を絞める力が急激に強まってきた。俺のが先に逝ってしまいそう。
「あたしの心配なんざ、億万年はやいっ」
「うわっ、すげぇ専制横暴っ──」
「あたしに釣りあういい男が現れないんだから、しかたないだろう。つかあたしがイイ女すぎて、たいがいの男は怖じ気づいちまうんだよ」
「怖じ気づくってのは合ってるな。姉貴の場合、地元の人間が過去の所業をぜんぶ知ってるから、だれも近づいてもこな──」
みしみしっ……!
さらに首にきつく喰い締まってくる。
「ギブッギブッ……! さすがにそれ以上はシャレにならないっ──ロープっ、ろ~ぷっ! ……はぁっ、はぁっ」
「すこしはことばを選ぶスキルも身につけろ。社会人のたしなみだ」
「人をボコッたり首締めるのは、医師のたしなみにはいるのかよ」
「法事をすっぽかすようなろくでなしに、社会の厳しさと常識とマナーを徹底的に教えこんで更正させてやるのが、あたしの使命なんだよ」
「慎んでお断りします。ろくでもない」
「会食の途中で抜けてきたんだ」
「わざわざこなくていいのに」
「それでは更正させられんだろうが」
「だから、更正もなにも──」
「またくる。あまり長い時間、席をはずしていられんのだ。つぎくるまでには、すこしは部屋をかたづけておくんだな」
「その約束はできない──」
「い・い・な?」
ドスの効いた低い声。
「……アイ、オネエサマ」
「よろしい」
蔑むようにうなずき、ヘルメットをかぶる。
ドゥカティ・モンスターにまたがり我が姉は帰っていった。
姉のことばのすべてが正論、なわけはない。
かといってすべてがまちがってるわけでもない。
ふだん他者とは最小限のコミュニケーションしかもたない俺と、医師としてふだんから多くの人と接触している姉。口で姉に勝てたためしはないし、そこに暴力が加わるともはや絶対無敵。またくるといったからには、またくるだろう。これまでのように、これからも。
たしかに姉のスペックは高い。目元がややきつく吊りあがりすぎなきらいはあるものの、目鼻立ちは全体のバランスがよく整っている。弟的には見慣れた顔だが、客観的にはなかなかの美人だ。つねに髪を短めに切りそろえているのは、本人いわく医者は清潔感が第一だから。なのだが本当の理由は、バイクのメットをかぶるのに邪魔だからなことを俺は知っている。
背は高く、胸は無駄にデカい。時間に余裕があるときはジムに通って鍛えているらしく、プロポーションはすらりと引き締まっている。ジムといってもアスレチックではなく、キックボクシングだ。
実家は病院。本人自称で〝腕のたつ〟医師。
本当なら引く手あまたで交際の申しこみや縁談話が転がりこんでもおかしくはない。なのに浮いた噂のひとつもきいたことがない。はっきりいって、俺にリアル彼女をつくれといってる場合じゃないほど、本人のほうが切羽つまってる。
まあ、若い頃の悪行の数々を地元の人間たちが忘れてくれないかぎり、我が姉と交際してもいいという酔狂な男は現れまい。ティーン時代の京はグレてグレてグレまくり、手がつけられない不良少女で、家族や周囲の者に面倒をかけまくっていたらしい。
らしい……というのは、当時の俺はまだ物心がつくかつかないかの歳で、姉の所行に関する記憶がほとんどないからだ。それどころか幼なかった俺に対しては、たとえどれだけやさぐれていても、優しく接してくれていたような覚えがおぼろにあったりもする。
ともあれ、いまでいうところの珍走団すなわちレディースのチームを不良仲間と結成、総長に担がれヤンチャしまくっていたのは地元では有名な話。それが一八になってどういう心境の変化があったのかいきなり更正し、わずか一年の浪人期間を経て某難関国立大学の医学部に入学、一人前の医師になってもどってきた。
親にも兄からもとうに見放された俺を、姉だけがいまも気をかけ、さっきのようにときどき押しかけては様子を見にきてくれる。本来は感謝すべきことなのはわかってる。だけれど感情の部分では、ありがた迷惑と思わないではいられない。自分があまのじゃくな自覚はある。
なまじ昔からつづく旧家なだけに、池宮家には理不尽だったり時代遅れだったりする因習を多く引きずっている。それらにどうしてもなじめずドロップアウトした俺に、姉は昔の自分の姿を重ねているのかもしれない。しかも自分の経験をふまえ、俺が更正して家族と和解することを過剰に期待している……
「更正といってもな」
ライトノベル作家のどこに更正しなければならない要素があるのか、俺にはわからない。もとより趣味をそのまま仕事にしてるしあわせな人間が、この世にどれだけいるというのか。いまの生活、生き方に、現状、俺はなんの不満もない。不満がない以上、作家を辞める必然も覚えない。
「……おきよ」
さすがにもう目はばっちり覚めていた。身をおこす。あれだけボコられ首を絞められれば、夢の世界へ舞いもどることなどもはや無理。
……あやうく永眠させられるところだったが。
「とりあえず、飯だな」
寝室からダイニングキッチンへ移動する。
俺の住み処は2DKの賃貸マンション(エアコン完備)。築約二〇年。五年前に大規模な修繕補修がおこなわれ、その際各戸に防音・遮音対策が施された。おかげでよほどひどく騒がないかぎり、音が上下階やお隣に漏れることはない。すなわち我が姉がどれほど俺をボコッても、殴打音や悲鳴をききつけられて通報される……なんて事態は幸か不幸かおこりえない。
冷蔵庫を開けると、タマゴがまだ一個のこってた。あとは低脂肪の牛乳と無塩の野菜ジュース。インスタント麺の買い置きは十分ある。電気ケトルで湯をわかし、どんぶりに麺をいれて生タマゴをのせ、湯をそそぐ。タマゴは万能食材。あとで忘れず買っておかないと。
「……ふぅ。さて」
扇風機の風を浴びながら、うだるような暑さの部屋で熱いラーメンを汁までぜんぶすすりきる。牛乳と野菜の搾り汁で水分補給。昼夜逆転の引きこもり的不健全な生活をおくってる身で低脂肪やら無塩の野菜ジュースやら摂取するたび、なんとなく自己欺瞞な感覚を微妙に覚えてしまったりするのはさすがに自虐がすぎるか。いやでも不健全だからこそ、最低限の健康くらいはこだわりたい。
タオルで汗をふきふき、少々熟れすぎたバナナを一本手にとり、仕事部屋へ。
仕事場は、寝室以上にオタグッズでカオス状態。床に散乱した雑誌類を、適当に足でかきわける。
窓のそばにすえたスチールラックは漫画本やDVDにブルーレイ、ゲームソフト、仕事用資料でぎっしり塞がっている。唯一、四段目の端のあたりだけ異質なのは、そこに昆虫の飼育ケースが挟まっているから。風通しがいいとはお世辞にもいえないが、とりあえず直射日光があたらない空間で唯一確保できたのがそこだった。
ケースのなかにはオスのカブトムシが一匹。一週間あまり前、たまたまマンション前の道端に落ちているのをみつけた。近所に雑木林があって、そこから飛んできたのだろう。なんとなく童心を思いだし、つい拾ってしまった。で、翌日にはホームセンターに赴いて飼育セットを購入して気がつけば飼いはじめていた。
夜行性の昆虫なのでこの時間は、敷きつめたマットに半分埋まってじっとしている。蓋をあけ、古いバナナを回収、新しいバナナを適量千切ってエサ台におく。以前、試しに昆虫ゼリーもやってみたけれど、このカブトはバナナのほうが食いつきがいい。匂いを感じたのか、もっさりした触手がピクリと動いた。反応はそれだけ。
どうして飼ってみようと思ったのか、自分でもよくわからない。
たんなる気紛れ。カブトの寿命は一年(成虫になってからは一~二ヵ月)。八月末にはこいつも死んでしまう。わずか十二ヵ月の短い命。いや、短いと感じるのは人間の主観であって、カブト的にはそれはそれで壮大で波瀾万丈な人生もとい蟲生を体験しているのかもしれない。ともあれその期間内に種をのこし、つぎの世代に生命を繋いでいく。
……まあ、このカブトがすでにメスとつがったことがあるのかは知らないが。
「ありえないよなぁ、まずまちがいなく」
将来的に、俺が種をのこして後世に遺伝子を繋いでいく可能性はかぎりなくゼロ。
「……てことは俺、もしかして虫以下?」
しみじみ自虐しつつ、カブト観察を終える。いまはまったく動く気配もないが、夕方になったらもそもそと動きだすだろう。
窓の外からは、いまもなおセミの声が散発的に響いてきている。
ゲームやアニメに登場するヒロインが恋人だ。リアルな彼女は要らない、二次元嫁で充分。大なり小なりリアル女性はみんな姉貴的な要素をふくんでいることを、俺は疑ってない。ゆえになんの期待もできないし、機嫌をとったりなんなりといちいち気を遣わされるのはめんどうなだけ……と、負け惜しみ的にいっておく。リアルな恋愛に興味がまったくないのは掛け値なしに本当だ。本当にめんどうくさい。
そりゃぁ俺も男だし、性欲はある。しかるに処理の方法なら、いまの時代、いくらでも……ムニャムニャ。
「仕事、すっか」
パソコンを起ちあげ、ディスプレイの前に腰をおろす。クーラーをいれるかどうかいつも迷って、結局、きょうもいれない。電気代がバカにならないというのが一番の理由だが、これまた負け惜しみ的にいっておくなら、そのほうが夏バテしなくて健康にいいから。おまけにエコだ。
クーラーのかわりに扇風機のスイッチをON。強弱レベルは「中」。首振り機能はとめて、常に俺の身体に直に風があたるようにする。天国。
熱暴走が怖いパソコンには、USBで動くミニ扇風機を用意。その風がパソ本体にあたるようにして、放熱をすこしでも促す。ただの気休めなのか、実際に効果があるのかはよくわからない。
まずはメールのチェック。多量のスパムメールのなかに仕事関係のメールが混ざってないかたしかめる。今日はとくになにもきてない。削除。
一ヵ月前に脱稿したばかりで、次回作の締め日はまだしばらく先だ。なので余裕をぶっこいて、ゆうべはネトゲ三昧とついシャレこんでしまったわけだが。二日つづけてサボれるほど、俺の神経はズ太くできてない。
すでにプロットは担当編集に通っている。シリーズものの第三巻。全八章ですでに二章までは書きあげてある。本日は第三章の途中から。
優柔不断でお人好し、だけれどじつは世界を震撼させる力を有したいかにも厨二設定な少年と、その力をめぐって集まってくる宇宙人少女やら異次元人少女やらとのハーレムストーリー。
「ベタだよなぁ」
と思いつつ、企画書をつくって編集に提出した際はまさかすんなり通るとは夢にも思わなかった。
登場キャラはステレオタイプ、基本なんでもアリなおバカ設定なので、プロット作成時点で展開が破綻しないよう注意さえしておけば、名文美文を書きたいわけでもないので、ほとんどノリと勢いだけで綴っていける──まあ、それでも気分がノラない、集中力がつづかないときはぜんぜん書けないモノなのだが、さいわい本日はそんなこともなく。
カキカキカキ♪ 否、タンタンタタンッ♪ と、キーボードを打つ音を室内に響かせていく。
八月中旬お盆の時期、扇風機だけで部屋にこもっての作業はさすがに暑い。けっして俺はビザではないが、それでも噴きでる汗をタオルでぬぐいつつ、不足した水分はときおり作業を中断し、冷蔵庫からペットボトルをだしてスポーツドリンクやウーロン茶で補給。
「ふぅ。おやもうこんな時間」
パソコン画面右下の時計表示がふと目にはいり、キーを叩く指を止める。午後四時半をいくらかすぎていた。窓の外は……まだまだウザいほど明るい。セミの声も、日中よりもまたいくらか騒々しくなっている。
意外と集中できていたのか、時間のすぎるのがはやかった。が、なんとなく中途半端な時間帯。ちょい小腹が空いた気もする。けどまあ調子がいいので、このまま作業をつづけよう……と、いったん伸びをしてからもいちどモニタに視線をもどし、キーボードに指をかける。
ふたたび文章の打ちこみをはじめて数刻──
どすんっ
そこそこ重いなにかが床に落ちる音と振動、ついで、
「わきゃぁ」
いささか間の抜けた、けれど萌え声な女の子の悲鳴が背後から──聴こえてきた。
ついで、絶妙のバランス配置で室内に積まれていた本やら雑誌やらの山々がドサドサと崩落していく音……
「あ?」
執筆作業に再集中しはじめた矢先の、不意な物音。
本来なら思わずびくぅっと両肩が跳ねあげるくらい驚いてもおかしくないはずが、我ながら薄い反応だったのは、やはり「わきゃぁ」という頓狂な声が驚愕感を緩衝したせいか。驚愕感? なんだか妙なことばだ。
なので俺はわりと冷静に、しかるにいくらかおそるおそるといった風情で、椅子に腰をおろしたままうしろを振りかえり──
こんどは、顎がかくんとはずれるくらいの驚きに見舞われた。
「いたたたた~あきゅぅ~~」
部屋の真ん中、崩れ落ちた本や雑誌に埋もれて、
女の子
が、いた。
陸上短距離のクラウチングスタートの状態から「用意」の号令で膝をのばしたはいいものの、勢いよくのばしすぎてバランスを崩し前のめりに倒れこみ、顔面を地面にしたたかぶつけてしまったような体勢だった。
白地に水玉のワンピース、そのスカートの部分がはらりとまくれあがっていて──
「縞パン……」
高く突きあげる恰好で丸だしになった可愛いお尻と、そのお尻を覆うやはり白地に水色の縞がひかれたパンツが、俺の濁った眼球奥に飛びこんできた。
疑問疑念疑心懐疑驚倒仰天等々……その手の感覚、感情がつかのま竜巻となって脳内を埋めつくし両耳からこぼれ落ちた。
状況を叶うかぎり瞬時に分析するなら、パンツ丸だしの女の子がどこからか現れ、いま、俺の小汚い部屋にいる。
部屋の扉は閉めきってあった。窓は開いてるけど、網戸がはまっている。そもそもここはマンションの二階だ。おまけに床一面、オタグッズの海。いっさい物音をたてずに、いきなりこんなとこまで侵入してくるのは、どんな凄腕のアサッシンだって不可能だろう。
いやいや、重要なのはそこでなく。
「縞パン……」
大切なので、もういちどつぶやいてみた。
二次元オタの常として、俺は三次元の女の子に免疫がない。唯一の例外が姉貴なわけだが、アレはもう〝女の子〟の範疇を余裕で超えている。なので本来ならもっと狼狽え、顔面を猿のごとく真っ赤にして、反射的に顔を背けたりするのが正しい反応だったろう。いや、そもそもいきなり部屋に見ず知らずの不審者が現れたのだからして、なにを置いてもまずは恐怖や動揺それに類する感情に襲われてしかるべきだったのかもしれない。
だけれど俺の視線は、恐慌のたぐいに陥ることもすっかり失念し──床に仰向けに転がる少女の丸だしのお尻を食いいるように魅入ってしまった。
なぜなら少女のお尻には、ちょうど谷間がはじまるあたりのところから猫のシッポが生えていて、前にうしろにピョコピョコと〝本物のように〟ゆれていたからだ。
「えーと、キミ……いったい、ドコから?」
最初に口を衝いたのは、そんな質問。このときの俺は、相当なマヌケ顔になっていたにちがいない。
「あ♪ アナタがご主人さまですね。お逢いできて感激です。はじめまして。わたし、ネコです。よろしくです」
「はい?」
少女はあわてて身をおこし、顔を俺にむけ、にこりと微笑んだ。
さすさすと、愛らしいしぐさでオデコをさする。
美少女だ。童顔。黒髪。セミロング。歳の頃はせいぜい十四から十六くらい。リアル少女に理想を求めるのはオタ的には堕落だが、あえていうなら……モロ、好みのタイプ。
そして彼女の頭には……ネコミミが生えていた。
カブトムシ(雄)をマンション前で拾う云々は、実体験だったりします。
家の前の道路に落ちて(?)いたのを拾ってひと晩部屋で保護、翌日に近所の雑木林に放しました。なので飼いはしませんでしたが……。