プロローグ●──永遠と無と
リコ=ミケが手をふりあげると壁面から音楽がながれてくる。
モーツァルトだかベートベンだかビヴァルディだか、シューベルトなのかショパンなのかそれとも無名のアーティストの曲なのか。リコ=ミケにとってはどうでもいいことなのだが、聴いてるとそれなりに心がおちついてくる。
人類が生みだした芸術作品。
……で、あることに相違ない。問題は、リコ=ミケには芸術とやらがどういうものだかよくわからないこと。そういうものが必要とされ、評価された時代に彼女は生きてこなかった。
「大事なのは、この時代まで残存してきたってことかね」
「なにかいったぁ、ママ?」
真正面、銀色の円形台座から愛嬌のある声。旅立ちの日をむかえ、こちらはきょうは朝からどうにもおちつきがない。まあ、表情に不安や緊張がうかがえないのは上々か。そもそも最初からネガティブな感情は娘には植えつけていない──付与してやる時間がなかっただけだが。
「なんでもないよ。もうちょっとで調整が終わるから、おとなしくそこでじっとしてるんだよ」
「はぁい、ママ」
銀の台座は転移台。その上にもう十五分ちかく、待機させてしまっている。本来じっとしてるのが苦手なネコが、しんぼう強く堪えている。使命の重さを本能中枢に刻みこんでおいたのが効いているらしい。とはいえ、さすがに退屈してるのは隠せてない。シッポが下向きにだらんと垂れ、頭についたふたつの耳もしおれかけている。
リコ=ミケは、空間投影させた虚空スクリーンに視線をもどした。物理的な入力デバイスを必要としない、思考による制御システム。スクリーンに映しだされる文字列を目で追っていくだけ。
異常をみつければ思考をまきもどし、問題箇所を修正・削除……それからまた思考を前向きに展開させていく。
転移装置のプログラミングはとうに終わってる。時空端子とのリンクに異常はない。いま実行してるのは、時間遡上と空間移動に必要なデータの最終チェック。膨大な数値データを量子コンピュータで平行処理。見つけたエラーは即座に修正、ノイズはすぐさま除去して、確実に狙った時代と空間へネコをおくりだせるよう念には念をいれないと。些細なミスから、ここまで進めてきた計画を失敗させるようなことがあってはそれこそ自殺モノだ。
……モーツァルトだかベートベンだかは、まだ奏でられている。演奏中断の意志を伝えないかぎり、〝家〟は壁を震わせつづけるだろう。
人類が生みだした多くの創造物は、その大半が喪われてしまった。が、色褪せることなくこの時代まで残存しつづけたものもすくなからず存在する。
けれどそんな人類の遺産・遺物も、やがては無に呑みこまれる。それも、そう遠くない未来に。人類が築きあげてきた文明のすべてが喪失するとしたら?
「あたしはそいつを、惜しんでいるのかね」
「はにゃ?」
「まだだよ、もうすこし」
「うう、いかげんタイクツだよ~。あめ玉、なめていい、ママ?」
「好きにしな」
ネコはポシェットから丸い菓子をとりだし、口にほうりこんだ。しあわせそうな笑みが口元にあふれる。
天然の砂糖や香料でつくられたものとは似ても似つかぬシロモノだ。そもそもリコ=ミケは本物を知らない。娘のためにレシピを検索し、家に命じて合成させてみた。さいわい、ネコの口には合ったらしい。
リコ=ミケの口には合わなかった。そもそも食事という概念が彼女にはない。ネコの教育のため再現してみたものの、人体の生命維持に必要な栄養摂取行為……以上のなんらかの概念も感慨も得ることは結局できなかった。
人類が過去に創造したレシピの多くはいまだ喪われずにデータ保存されている。なのだが再現する術はもはやない。ゆえに〝ものを食べる〟真の愉楽をリコ=ミケは知らない。
屋内工場が自動的に生成してくる栄養剤の経口摂取、それが食事。
数分経過。
リコ=ミケは調整を終えた。
虚空スクリーンから、転送台の娘に視線を移す。
「準備完了だよ。いまからおまえをご主人様の元へおくるよ。記録によると人間的にかなりダメダメだったらしいから。しっかり仕えて更正させてやりな」
「まかせて、ママ。んぐ、んぐ」
「むこうについたら、とっとと子種をしこんでもらって、子供をつくるんだよ」
「瞳をうるうるさせて、パンツ見せて、赤ちゃん欲しいの、ご主人さまっ……て、おねだりするんだね」
「そうさ。何度も練習させたとおりにね。三次元が相手だと反応が鈍いかもしれないけど、根気強く迫るんだよ」
「うん、がんばる。んぐ、んぐ」
ミニのスカートを練習通りにぴらんとめくりあげ、無邪気に笑う。羞恥の概念はしこんでない。否、適度に身につけさせたほうが、異性の生殖本能を扇情するのに有効なのはわかっていた。ただ、そこまでつくりこむ時間がやはりなかった
時間、時間……そう、すべては時間だ、時間の問題。時間こそすべて。
「とっととあめ玉、呑みこんじまいな。あと、連絡球はむこうに着いたら、すぐスイッチをいれるんだよ」
「うん、わかってるってば、ママ。……ごっくん」
まだ口にのこっていたあめ玉を呑みこみ、ネコは足元に転がる銀色の球体を拾いあげた。胸元に抱えもつ。
「ママもできるかぎりフォローしてやるから。じゃ、いくよ」
リコ=ミケは、航時機のメタリックな壁面に手を伸ばした。伸ばした先の壁がすっと消失。その内側に収納されていたレトロなスイッチをとりだす。
十センチ四方の立方体で、上部に丸く赤いボタンがついている。極めてアナログ。押した瞬間、狂気と褥をともにしながら進めてきたリコ=ミケの計画はあらたな局面に突入する。以降、彼女の関与できる余地はおおむねなくなる。
ボタンを押すのは最後の区切り。すべてのおしまいのはじまり、はじまりのおしまい。記念すべき重大行為を思考操作ですますのは、リコ=ミケの歪んだ人間性と矜恃が望まない。無駄を尊んでこその人間だ。
だから、あえてこんな装置をリコ=ミケはつくりつけた。かつての人類は、単純な機械を多数のボタンやスイッチを押して倒して引いて廻して操作してきた。まだひとびとが未来世界に夢と希望を抱いていた時代へのリスペクト。
効率優先の思考は無駄の排除。そのいきつく先は存在の否定、無の絶対化。だがリコ=ミケは、思考する主体の喪失を認めない。
「ぽちっとな」
ボタンがキューブに沈みこむ。
クリーム色の光の粒子が、転送台の下方から噴きあがる。渦をまいて円筒状に回転し、形成された時場がネコを閉じこめる。密閉された空間にさらに光の粒子が充填し、やがて少女の姿が融けこんでいく、チカチカ、チカチカ──
「じゃ、いってきます、ママ」
お気楽な声をのこして、ネコは旅立つ。
「箱のなかに猫を閉じこめた科学者が、昔、いたっけねぇ」
密閉空間内で娘の生と死が重なるのを見届け、ふと気取って口にする。そのことばを聞く者はない。
円環のなかに存在を閉じこめる。運命に抗う人類の最後の意地。それともただの自己満足か? その判断を後世のなにものかにゆだねることは許されていない。
人類最期の人間は、おのれが緩慢な狂気に蝕まれていることを知っていた。
でらくと申します。
ラストまでの構想はちゃんとあるので、なんとか完結までもっていければと思ってます。がんばります。
なお多少キワドイ科白やシチュがでてきますが18禁シーンを描写する予定はないので、R15とさせてもらいました。執筆ペース的に、月1更新くらいになるかと。