step01 君の名を呼ぶ、ということ
「私の名前を言ってみなさいよ」
「え? メルハート……だよね?」
幼馴染の言葉に戸惑いを覚えつつ、忘れるはずもない名を口にする。
「なんで疑問形なのよ!」
むっと唇を曲げる目の前の女の子は、幼なじみのメルハート。自慢の赤みを帯びた金髪を、綺麗なツインテールに纏めている。
「メルハート!」
「そう。出来るじゃない、ウィズ」
「はぁ……?」
思わず小さく溜息をつく。
実は、僕――ウィズは魔法の事故で記憶を一年分無くしてしまった。
生活に支障はないけれど、過去一年で中等学舎で覚えたはずの「魔法の知識」だけが、何故かスッポリと抜け落ちてしまったみたいなんだ。
けれど……記憶をたとえ十年分無くしたって忘れるはずもない、それが目の前の女の子、メルハートだ。
15年間生きて来た人生の中で、両親を除けば、幼い頃からずっと時間を共に過ごしてきた、大切な友人なのだから。
放課後の図書館で、僕はメルハートと二人きり。
午後の日差しは、色あせてくすんだ図書館を柔らかく照らしている。
空気は古いインクと古紙の匂い。かすかにアカシアに似た甘い香りがするのは、メルハートがいるからだろうか。
僕とメルハートは、大きな学習机の対面で、向い合って座っている。手元には『魔法の教科書』をそれぞれ置いて、勉強をするぞと身構えていた。
最初の「名前を言ってみなさいよ」という謎の問いかけは、魔法の基礎知識の「おさらい」なのだとか。
「いい? 世界は『名前』で出来ているの。わたしがメルハート、アンタはウィズ。先生はキャティシーン。メガネの委員長はマリアーヌ」
「お調子者はヘンリゴッサ、いつも寝ているポリターン」
「「あはは!」」
二人、同じタイミングで笑う。静かな図書館に声が響いて思わず一緒に身を小さくする。
気が付くと、三角メガネを掛けた女性司書のミカリアさんか、キッ……と向こうからこっちを睨んでいた。危ない危ない。
「しーっ。ばかウィズ」
「ごめん」
記憶を一年分無くした僕だけど、彼女がいてくれたおかげで本当に助けられた、と思う。
「……マジメにやる気あんの?」
「すんません」
メルハートが机の向こう側で、イスの背もたれにふんぞり返った。
青い宝石みたいな瞳は丸くて綺麗だけれど、つり上げた眉と、片方を挑戦的に持ち上げる唇から受け取る印象は、よくない。
――私の潜在魔力の測定結果は、学年でもトップ3なのよ!
と、自信満々なメルハートだけれど、胸の大きさは学年の下から三番目だと思う。
ガッ!
といきなり向こう脛を蹴られた。
「痛い!?」
思わず椅子から飛び上がって声を上げる。メルハートが半眼で僕を睨んでいる。
「ふん」
「図書館ではお静かに……!」
中年に差し掛かった司書のミカリアさんが、メガネをくいくいさせながら僕を注意した。
「ちょっ……!? 何さ!?」
「私の顔を見てから、視線を胸に下げたわ。男子ってやーね」
「えっ、ちょっ……!」
痛い。僕は図星を突かれたことに戦慄を覚えつつ、机に突っ伏して脛をさする。
「いい? 勉強に戻るわ。『名前』を呼んで返事をする。それが魔法の基礎の基礎!」
「……わかるよ。言葉は最初バラバラだった人と人の心を繋ぐ魔法だった……だよね?」
「あら? そこは覚えているの? まぁ二年前の学習内容だものね」
青い制服に白いブラウス。胸には赤いリボン。細い指先でツインテールの片方の髪を梳く。
大理石の柱の間に設けられた、縦に長いガラスの窓。そこから斜めに差し込む光は、古いレースのカーテン越しにキラキラとメルハートの髪を輝かせる。
視線を悟られないように、そっと窓に視線を向けると、グレーの髪にグリーンがかった瞳の少年と目が合う。って、それは僕か。
窓の外をゆっくりと、細長い飛空艇が横切ってゆく。
ここは――悠久の歴史を誇る魔法王国ヒースブリューンヘイム。
ここでは多くのものが魔法で動いている。空飛ぶ馬車も、水の流れる管も、食料を運ぶ馬の居ない荷車も。
だから魔法使いになりたいと思う生徒は多い。
王立中等学舎に通う僕と、メルハートもそうだ。
けれど、僕は……あまり覚えてはいないけれど学舎の帰り道で、魔法機関の暴発か何かに巻き込まれて、一年分の記憶を失ってしまった……らしい。
幸い生活に支障はないけれど、忘れたことは大きかった。なんたって一年間、学舎で学んだ学習知識を失ったのだから。
それも魔法に関すること全て綺麗さっぱりに。
つまり、高等魔法学舎を受験するために必要な知識、「魔法言語」課程一年分が消えちゃった事になる。
こんなひどい話ってあるだろうか?
先生も面倒くさいのか、自分で教科書を見て学びなさい、もしかすると思い出すかもしれないよ、と冷たくあしらわれた。なにそれ……酷いよね。
だから僕は、唯一の親友であり頼りになるメルハートに、頭を下げて魔法の基礎から教えてくれと頼んだのだ。
「ウィズが名前を呼べば、私が返事をするわ。その逆もね。それって……当たり前だけど、考えてみると、とても不思議なことじゃないかしら?」
「……うん」
「これが、魔法言語の基礎の基礎、『対話』ってことね」
メルハートは静かに微笑むと、細い指先でゆっくりと教科書を開いた。
<つづく>
【ワンポイント】
現代の魔法言語=データベース操作のSQL言語と置き換えて考えます。
基礎は『対話』です。
聞いたら答えてくれる。
あたりまえのこと。まずはそれが始まり。
【予告】
次回は Select 文