【6】紫の王
ミオを追いやって、『悪夢』の中で独りになって。
俺は緑の部屋から外に出た。
窓の外を見れば夜。
普段なら夜は避けて、時間帯が変わるのを待つところだ。
俺は、一番夜が嫌いだった。
この時間には真っ黒な影のごとき犬――影犬が出るのだ。
影犬はこちらを見つけると襲ってきて、いたぶるようにゆっくりと四肢を食いちぎっていく。
そもそも俺は犬が大嫌いで、見るだけでも嫌だった。
あいつらは動物的な勘で、俺が空っぽな事を見抜いている。
他の奴らには尻尾を振るくせに、俺が触れようとすると牙をむき出しにして襲ってくるのだ。
昔からそうだった。
それがまるで、俺が人でないと言われているかのようで。
他の人に、父にそれがばれてしまうのが恐ろしかった。
皆が感動したという映画や物語を見ても、誰かが死んでも俺の心は動かない。
こういうときは、悲しい顔をするのが普通だとインプットされているから、そういう顔を作る。
笑う顔と悲しい顔は、実はよく似てる。
俯いて笑えば、悲しい顔をしてると勘違いしてくれた。
影犬がでるかもしれない。
なのに外に出たのは、このむしゃくしゃした気分をどうにかしたかったからで。
時折城の中で手に入れることの出来る道具の中から、一番手にしっくりとくる剣を手にして、廊下を歩く。
ゆらりと揺らめいて現れたのは、影犬ではなかった。
現実世界での俺の知り合いに似た影。
その手には武器を持って、俺に向かってくる。
――悪趣味な。
でも、ウサ晴らしにはちょうどよかった。
影の攻撃を剣で受け止めて身をよじり、切りつける。
相手の喉や、急所を狙う。
バラバラにして切り刻んで、何度も何度も剣を突き立てる。
父親が昔剣道で賞を取ったとかで、俺にも同じものを習うように言ったから、俺の剣道の腕はかなりのモノだった。
ただ、今まで衝動に任せて、こんな風に剣を振り下ろしたことはない。
剣はそういうことのために使うものではないと、教えられてきたからだ。
俺のことを可哀想なモノでも見るかのように見ていた、家政婦。
あいつ血が通ってるのかと陰口を叩いていた同級生。
完璧すぎて人間味がないと俺に言った同僚。
父に従順で、何も逆らわない母親。
そして、俺を縛り付ける――父。
ためらいなく、俺はその影たちを切りつけていた。
血しぶきが舞って、父の影が痙攣する。
まるでやめてくれというように伸ばしてくる手を切り落とす。
沸き立つように体が熱くて、苦痛に歪む顔をみればぞくぞくとしたものが背筋を駆け抜けていく。
苦しんでいる姿を見ると、心の奥がすっとしていった。
「この悪夢は気に入ってくれたみたいだね」
ふいに話しかけられて振り返れば、そこには紫の髪をゆったりと結い、王冠をつけた若い男。
見た目は二十代後半なのに、妙に老獪した雰囲気があって。
前に変な店で出会った男にそっくりだった。
「――気に入るわけないだろ」
「おかしなことをいう。今君は、とても楽しそうに笑っていたじゃないか」
くっくっと、紫の王は喉の奥で笑った。
そんなわけはない。
知り合いに似た人々に剣を振るうことに、俺は心を痛めていた。
それが普通の人間だ。
今の俺は悲しい顔をしてるはずだと、自らの頬にふれれば、口元は釣りあがって笑みの形を作っているかのようだった。
「せっかくきてくれたんだ。存分に楽しませてくれ、客人」
「そういうのって、楽しんでいってくれじゃないのかよ」
人を玩具みたいに言うのが気に入らなくて突っかかれば、紫の王は目の奥にぎらつくような光を宿す。
「この狂気が楽しめるようになったのなら、君はこちら側だ。客人としてではなく、家族として歓迎しよう」
不気味な紫の瞳。
まるで俺の中を覗き込もうとしているかのようなその視線は、心の奥の深いところに直接触れてくるかのようで。
内側から柔らかい部分に爪を立てられ、ごっそりと中身をえぐられたように、胸が苦しくなる。
「俺は……?」
――さっきまで何をしていた?
手から剣が落ちる。
肉を切り裂いて、血しぶきをあげて。
苦しむ人たちの顔を見て、悲鳴を聞いて、歪んだ喜びを感じてはいなかっただろうか。
毛虫が背中を這うような悪寒が止まらなくて。
気づけばがたがたと震えながら、床に膝を着いていた。
「……何も怖がることはない。闇は恐れるものじゃなく、受け入れるものだ。今君は、壊すことに高揚した気分を味わっただろう?」
そう言って、紫の王は俺の背を優しく撫でる。
認めろと紫の王は言う。
こんな黒い気持ちが自分の中にあるなんて、肯定するわけにはいかなかった。
認めてしまったら、俺は『正しい人間』では無くなる。
父にとって『正しい』俺以外は必要ない。
そうしたら、『正しくない』俺は――誰にも必要とされない。
いらないのだ。
無意味なものになる。
存在が拒絶されてしまう。
「君の居場所はここにあるよ?」
耳元で紫の王が囁く。
それは、甘い毒が耳に流し込まれるようで。
「苦しまなくていいんだ。正しくある必要はない。化け物のようなそのままの君でいい」
その言葉を、誰かに言って欲しかったんだと気づく。
けどそれは決してこの男から貰いたかった言葉ではなかったはずだ。
こいつは、俺の汚いところや嫌なところを暴いて、無理やり引きずりだして。
――どこまでも身を落とそうとしてくる。
差し出された手は、暗闇への誘いで。
きっとその手を取ったら、今までの悩みとか迷いとか、苦しんでいたことから解放される。
それは強い誘惑で、この苦痛から解放されたくて。
でも、手を取ってしまったら、何かが確実に終わりを告げるのだとわかった。
「おいで、歓迎するよ。君なら顔なしでも部屋持ちでもなくて、私達と同じ王になれる」
――それはどういう事だろう。
この手をとったら、俺も化け物の一員となるということだろうか。
濃い甘い花の香りがして、うまく思考が働かない。
「私達と同じになれば、あの子を守る必要だってなくなる。壊す側にまわって、思うようにしていいんだよ? 真っ黒な君と違って、白いあの子の事を、君は壊したくてしかたないだろう?」
その言葉に、ミオの顔が頭に浮かんだ。
自分とは違って、どんなときも黒い感情に染まらない彼女。
一緒にいるようになって、ミオの純粋さに魅かれると同時に、自分の事を恥じるようになったのは事実だ。
化け物だから殺せばいいと思う俺と違って、ミオは彼らを殺すときにだって抵抗を感じてるみたいで。
自分だけが汚れているような感覚に陥ることはあった。
「彼女も君と同じにしてしまえばいい」
いつの間にか、紫の王は俺の横に回っていて。
そっと耳元で囁く。
血で真っ赤に染まった俺の手に、剣を握らせた。
目の前にはいつの間にかミオが立っていた。
真っ白なワンピースを着て、俺を見て、あどけない笑顔で笑いかけてくる。
「さぁ、やるんだ」
熱を孕んだ紫の王の声に促されて、立ち上がる。
剣を振りかざし、そのままミオに振り下ろすふりをして、紫の王を切りつけた。
「ぐっ!」
紫の王の端正な顔が苦痛に歪む。
そのまま、二撃、三撃目を打ち込めば、かはっと吐血して紫の王は膝を付いた。
高く剣を振りかざし、最後の一撃を叩き込もうとすれば、黒い影が地面から伸びて紫の王を守るように盾になった。
影は俺の剣をはじくと、そのまま紫の王のマントになるように、ぐにゃりと形を変えた。
「はぁ……油断してた。もう少し、だと思ったんだけどな」
悔しそうに、紫の王が眉を寄せる。
「俺はミオを殺したりなんかしない。例え、それが偽者でも」
強く自分に誓うように、口にする。
もうミオを守れずに、あんな思いをするのは嫌だった。
なら、次は絶対に守ると誓えばいいだけの事だ。
俺自身がミオを傷つけることなんて、あってはいけない。
たとえどんなに無垢な白さの前に、自分の黒が浮き立って見えても。
側にいたいと強く思った。
純粋さや、俺にはない芯の強さが、うらやましくて憎らしくて。
それ以上に、とても愛おしくて守りたいと思う気持ちが自分の中に芽生えていると気づく。
「――へぇ? 君がそんな目をするようになるなんてね」
剣を突きつけてそういえば、王は指先を小さく振る。
苦痛さえも楽しいスパイスだというように。
するとそこに立っていた白いワンピースのミオの姿が、溶けるようにして黒い影となり、王のマントに吸収された。
「もう少し、君で楽しめそうだ」
にっと紫の王は笑って、すっと音もなく俺との距離を縮めてくる。
反応するのが遅れて、間合いに入りこまれた。
目に手を翳されて。
「おやすみ。また『悪夢』で会おう」
紫の王の声が子守唄のように響いて。
俺は意識を失った。