二度目の告白はリビングで
ある日、同棲し始めて早五年となる彼氏が、まるで当たり前のように女を連れ込んできた。
お互いに学生だった交際初め、家を出たいという願望が二人とも強く、家賃や光熱費など全てを折半するという約束で、別段大きな喧嘩もせずに今まで来れていたと思う。
それぞれ全く種類の異なる仕事に就き、起きる時間も寝る時間だってバラバラ。そういや、顔を合わせるのは一体いつ振りだったろうかと、キョトンとした可愛らしい顔を同じく呆けながら見つめた。
「え、と……。いらっしゃいませ?」
「あ……。おじゃま、します?」
上から足先までしっかり見つめてから、仕事から帰ってきたばかりで良かったと違ったところで安堵しつつ、視線はゆっくり彼氏へと移った。
それは、浮気相手となる子も同じだ。そうすると、あろうことか一番驚いた表情を浮かべていたではないか。
私は、ドラマで良く見るヒステリックな感じで叫ぶでも、浮気相手へ「泥棒猫が!」と定番のセリフを吐くことも無かった。
なんというか、とにかく呆れたのだ。同棲しているというのに招き入れるぐらいなら、いっそのこと堂々としてくれた方が男らしいと思う私は、世間一般からずれているのだろうか。
「なんだ。彼女居たんじゃん」
「え? あ……」
「私、浮気出来るほど器用じゃないし、そんな相手と付き合うほど暇でもないから」
むしろ相手の子の方が、何倍も男らしかった。
思わず「惚れた!」と叫びたくなるほど、きっぱりはっきり呆然とする彼氏に対して告げ、「じゃあねー」と立ち去って行く。
しかも、こんな状況で出会わなければ、結構な仲良しになれたんではなかろうかと考えていた私へ、同じことを思ってくれていたのか「良かったら、彼から聞いて連絡してよ」とまで言ってくれる。
一瞬の動揺からの立ち直りの早さと冷静さは圧巻だった。
反面、怒らない私はただ単に冷めているだけなのかもしれない。
「……おかえり」
「帰って、たんだ?」
それに比べ、なんというヘタレ。やっぱり怒る気になれず、遠慮なく呆れた顔を浮かべてやれば、彼氏はバタバタと大袈裟な仕草で靴を脱いでリビングへと向かう。
謝罪は無いし、欲しいとも思わなかった。
「はぁ~。いい加減、潮時だったのかな」
どの世界に、いつ顔を合わせたのか思い出せないカップルがいるというのだ。ただ付き合っているだけならまだしも、同棲しているにも関わらず。しかも5年も――
「笑えるわぁ」
暫く、壁に凭れかかってこれまでを振り返ってみる。
一緒に部屋を探し、家事に慣れるまではお互い不安ばっかりで。合わせて何枚、皿を割ってしまったか分からない。洗濯物だって、何度色移りさせてしまったことか。
そういや随分、リビングのテーブルで2人一緒に食事をしていない。
「そもそも顔を合わせてないんだから当然か」
私が寝る時には居なくて、起きている時に寝ている。先に帰ってきた方がベッドを使い、使われていたらソファで就寝。おいおい、これじゃあまるっきりルームシェアと変わらない。
だから怒る気になれないのだと、妙に納得できてしまった。
そのままリビングのドアを見つめるが、何かが変わる気配は微塵もない。
「仕方ないなぁ」
仕事仕事と、将来の為に満喫していたつもりはただの自己満足で、気付いた時には手遅れなことっていくらでもあるんだと思う。
今日のこともそうだ。
問題は、単純にさようならで済ませられないことだけ。出て行くにしたって、家はここ以外に無いし、ただいまと暢気な顔して実家に戻れるほどお互いにもう子供じゃない。
――好きの気持ちだけなら、簡単に思いだせるのが少し悔しかった。
「謝らないからな、俺」
だとしても、こうなってしまった以上潔く切り替えるしかない。
そう考えてドアを開ければ、テーブルで同じ様に考え事をしていたらしい彼氏が、目が合って開口一番そんなことを言う。
子供かなんて突っ込みは、男相手にするだけ無駄だ。母に教わった格言はその通りなようだ。
それでも敢えて言いたい。お前は子供か。
「いいよ、別に。私も悪かっただろうし」
「やっぱりお前――」
「なんて言えば、気持ち的に楽になれる?」
意地が悪いと言いたければ言うがいい。ふてくされる彼氏の頬がヒクリと動き、言葉を失くす。
「にしても、久しぶりに顔合わせるのがこの状況って。あんたも大概、タイミングの悪い男だよね」
「うっせ……」
冷蔵庫から自分の分だけ飲み物を用意し、同じテーブルに腰を下ろせば、直ぐ近くのソファーに移動してしまった。
こうなれば、お互いに声だけしか伝わらない。
振るのと振られるの。二人の終止符には、一体どちらの選択肢が相応しいのだろう。
ともかく今は、私が冷めた女だったことを感謝するべきだ。一回きりで、全ての相談を済ませられるんだから。
「……お前が、悪いんだからな」
「え、何が? ていうか、女々しい子供か」
なのにこの彼氏さま。穏便な解決を望まないのか。
母さん。世の中には分かっていても突っ込んでしまうことがあるのだと、娘はまた一つ大人の階段を上りました。
「だって、お前が先に浮気したんだろ!」
「だってって……。ていうか、はぁ!? だからあんた、さっきやっぱりとか言ったのか!」
そして、すぐさま一段下がります。
思わず叫んでから、自分で同レベルじゃないかと気付いてしまった。
そんな冷静さは残ってくれていたが、心外なのは変わらない。ガタリと立ち上がると、彼氏も振り向いて感情を顕に言った。
「一週間前! ホテル街でお前が男と歩いてんの見かけた!」
――そうだった。
あ、いや、浮気していた云々ではなく、彼氏がやられっ放しを良しとしない性格だということを思い出す。
以前、軽い口喧嘩の末、我慢出来なくなった私が丁度横を流れていた小川へ突き落とせば、仕返しだとお互いずぶ濡れになったこともある。あの時はもう笑うしかなくて、気付けば仲直りできていた。
でも、今は川が無い。あるのはテーブルにソファー。生活感漂うリビングなのだ。
「ちょっと待って。私が浮気? 馬鹿言わないでよ」
「言ってねぇよ。ほんともう、お前あり得ない……」
あらぬ疑いを突き返すも、全くもって受け入れてくれない。
一週間前を思い出そうとしても、ホテルなんてお世話になっていたのはずっと前の話しだし。こいつは一体、どんな勘違いをしてこうなったのか。
いや、ちょっと待とう。ホテルから出てきたという定番じゃなく、ホテル街を歩いてたって言ったよね――
「やっと、目標達成して。なのにお前はいつの間にか浮気してて。悔しくて、俺も浮気し返そうとしたのに……。なんで今日に限って、家に居るんだよ!」
後少し。何かが引っかかって、喉元まで出かかっていたというのにこの男、ちょっとうるさい。
そもそも、その理由は相手の女の子が可愛そうだ。運良く、元から遊びと考えていた上あっさりした性格をしていたから良かったものを。泣かせていたら、確実にぶん殴っていた。
「しかも、あろうことか相手はホストっぽかったし! お前、そんな遊びに興味無かったじゃん!」
またしても思考が脱線し、状況を変えてくれそうな何かを思い出せないままな状態から抜け出させてくれたのは、その一言だった。
この際、内容への突っ込みはやめておこう。
全ての合点がいき、溢れたのは今世紀最大の呆れだ。
「馬鹿……。あんた、後であの女の子の連絡先教えなさい」
絶対に仲良くなって、一日中男の馬鹿で餓鬼さ加減について語り合いたい。あの子となら、心行くまで熱くなれると思う。
「話を擦りかえるなよ。しかも、ただの後輩だ」
「だとしても、今は浮気相手でしょ。あのね、私の家族構成言ってみなさい」
「お前が浮気しなきゃ、俺だってしなかったし。本当なら、したくもなかった! あの子とは、別に――」
「抱く気が無かったなんて言葉、いらないから。それよりも、さっさと言え」
いやはや。女々しいったらないわ。誤解させてしまった私にも非はあるかもしれないが、残念ながら心の中で既に解決してしまっている。
結局はそう――勘違いでしかない。
ガツンとグラスでテーブルを叩き、ソファーへと移動し彼氏の前に仁王立ち。頭を叩いて言い訳を止めれば、渋々と気付いていないながらも答えが返ってきた。
「親父さんと、かぁさん。にーさんに……、デブ猫」
「猫は今はいらん」
ついで、デブって言うな。
ここでやっと沸いた怒りは、彼氏に対してのものではなかった。
鮮明に思い出せた一週間前の自分が憎らしい。
「あのさぁ、うちの馬鹿兄貴のこと、あんた良く知ってるじゃん。なのにどうして、気付けなかったわけ?」
「意味分かんねぇ。にーさんだったら直ぐに分かるし。俺が見たのは確実にホストだった!」
――ええ、そうですとも。ホストに見えたことでしょうね。
「にーさんがスーツ着たら誰が見てもホストだって笑ってたの、一体誰よ!」
「俺!」
グーで殴ったのは言うまでもない。
焦って、混乱して――冷静じゃないのは仕方がないけれど。即答な上、あまりにも自信満々で言ってくれたものだから我慢できなかった。
痛みに呻く姿を睨みつけながら、落ち着いたら兄へ電話を掛けて満足するまで責めたててやろうと心に決める。
「あんたの言った私の浮気相手のホストは、そのにーさんだ。この馬鹿!」
「嘘付くなって! だって、あの時その相手、めっちゃお前にべったりだったじゃん」
「同期の結婚式の三次会で、べろんべろんに酔っ払ってるから迎えに来てって電話が来たのよ。ちなみにホテル街を歩いたのは、場所がその近くにあるキャバクラだったから!」
そう。彼氏の言う私の浮気相手は実の兄だった。
残業でヘトヘトだったというのに、顔見知りな兄の同期の人から連絡が来て、私じゃないと収拾がつかないなんて言われてしまい仕方なく世話をした結果がこれか。二度と酔っ払いの迎えなど行かない。
しかもその日は、スーツといってもビジネスじゃなかったから、彼氏にとっては尚更違って見えたのかもしれない。
その事実を一から十まで事細かに説明してやれば、気付けば目の前には呆然と固まる馬鹿の塊があった。
結果、どっちも浮気はしていないから良い。
――だとしても、浮気をしていたとお互いが思ってしまい、信頼関係が崩れていたのは明白だ。
うって変わってリビングを支配した沈黙が痛かった。
興奮と共に、ストンとソファーへ体が落ちる。重々しい息を吐けば、隣からは乾いた笑いが聞こえてきた。
「俺、ばっかみてぇ」
「何を今更。生まれたときから馬鹿でしょ」
全身を預けて座る私と、項垂れて自分に呆れている彼氏の間には、以前には無かった空間が出来ている。
これがまさしくすれ違いなのだろうなと、ぼんやり見つめた。
2人ともが引っ越すとなれば、手続きから何からが面倒だ。男の方が引き摺るって良く聞くし、女の中でもかなり大雑把な私が残る方が、どちらにとっても良いんだろう。そんなことを思う。
――当たり前に結婚するんだろうなって、思っていたのになぁ。
可愛くない私と付き合ってくれる物好き、早々いないし。貯金も貯まって、そろそろ仕事辞めてもいいかなって考えてもいた。
「残念だなぁ」
気付けばそんな気持ちを呟いている。
すると馬鹿彼氏は、グッと拳を握って立ち上がり何かを取りに行ったのかリビングから出て、直ぐに戻ってきた。
「スケジュール合わせでもする? 引っ越すなら手伝うし」
「誰が別れるって言ったよ」
「へ?」
不思議なことに、戻ってきた時の表情はどことなく凛々しくて。言われた言葉も意外だったので首を捻れば、何かを膝に投げられた。
それは、変哲もないただの通帳だった。
どういう意味だと目で訴えれば、黙って見ろと催促される。
そうして見た結果、出た感想は――
「わぁお」
素直な驚きの声だ。私もそこそこ預金は多い方だけれど、それと比べても結構な額である。
「本当は、ここまで必要ないとも思ったけど。考え始めた時、お前仕事楽しいってはっきり言ってたし」
さっき叩いたおでこを赤くしたまま、不機嫌さは直らず言われる。
だけど、別れる気が無いらしい旨を聞いて笑ってしまう私も存外単純だ。何より、やっぱりこいつのタイミングの悪さは秀逸すぎる。
「じゃあ、さ。もう一回、付き合い直してくれるってことで良いの?」
念のために確認。今日の女の子については未遂だったし、あの子と仲良くなれてから、2人に美味しいものを奢ってくれるのなら不問としてやろう。
頷いてくれるのを待ってからそう言えば、「お前らしいわ」と笑われた。
「で、さ……」
「ん?」
にーさんにも責任を負わせて、両方から奢ってもらうのも良いかもしれない。
そんなことまで考えてたのだけれど、彼氏の方はまだ話が終わっていなかった。そういえば、どうして今貯金額など教えてくれたのだろう。
目の前で気を付けの姿勢を取り、久しぶりに見た真剣な表情。男らしいと言えなくもないと何事か待っていれば、聞こえたのは可愛らしい言葉だった。
「俺を旦那にして下さい」
タイミングも、きっかけも。セリフだってどこか抜けてるし、何から何までシュチュエーションとしては最悪だ。
普通、プロポーズを直角に身体を曲げてお願い形式で言うだろうか。
「でも、ま。らしいっちゃ、らしいのか」
そこそこ長い付き合いの私たち。二度目の告白は色気の無いリビングで、私から。
それまでの期間で関係は、初々しいカップルから同棲相手、危うくただの他人になりかけて――
改めてカップルでいられた次の瞬間には、奥さんと旦那さんになるらしい。
「どうしよっかなぁ~」
頭を下げた姿勢を維持しながら、戦々恐々とした表情で答えを待つ姿を見て、ちょっとだけ意地悪をする。
答えてあげればきっと、びしょ濡れにならずとも2人で大笑いできるんだろうなと、緩む口元を膝で隠しながら思った。
痴話喧嘩は犬も食わないというわけで。この彼氏は尻に敷かれまくるんでしょうね。
でもまあ、一番被害を被ったのは、仕返しを理由に巻き込まれた後輩の女の子でしょう。
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