その9
アナトールは跪き頭を下げたザムゾンに訴えるように言った。
「さっきのままでいて欲しい。そんな風にかしこまらないで欲しいのだ」
アナトールの困惑は充分に伝わっていたが、ザムゾンも混乱していた。そもそもこの場所に入る事自体、恐れ多いことだったのをすっかり失念していた事を改めて思い出したからだ。
何かあったら、親代わりで面倒を見てくれている叔母さん夫婦に迷惑がかかる。ただ何のお咎めもなく、この場を立ち去ることが一番無難で波風が立たない。ザムゾンは少ない知識の中でそう判断した。
アナトールやキルシュに対する興味や関心はあるし、もっと話しをしてみたいという気持ちもある。彼等がザムゾンを害する気はなく、もっと話をしたいと思ってくれている事も判っていた。
だが、それとは別次元で彼等とは同じ場所で存在する事が許されていない、会う資格が無いのも確かなことだ。
この国ではそれほど身分に対して厳しい考えが根付いていた。
「そういう訳にはいきません。僕とあなたとは違い過ぎます」
ザムゾンも懇願するようにアナトールに返事をする。もっと生家の家柄が良いか、平民でも素晴らしく知恵があり修道院に入るくらい優秀ならば、こんな事を言う必要はなかった。
無理なことだが、ザムゾンはそう考えてしまった。単なる興味だけで、軽はずみな行動を起こした結果だと考えた。多分次の機会はないだろう。後悔と名残惜しさが胸に過ぎる。
…やっと、自分の求めているものの欠片に出会えたと思ったのに。
自分を形作る重要な何か、それを彼等から引き出し、得ることが出来たかも知れないのに。
顔を上げられず、下を向いたままのザムゾンを見てアナトールは肩を落とした。
「年長であるし、責任ある立場でもある。そういう事を考えると…それなりの責任と威厳は必要だな。確かに。お前の言う通りだ。身分が違うこと以上に、お前のその態度は正しいと言わなければならない。だが…私はお前にそんな態度で接して欲しくはないのだ」
強い言葉にザムゾンの心が揺れた。
アナトールは言葉を続ける。
「私は自分の名も役目も告げず、ただひとりの人間としてお前と出会ったのだから。ただひとりの人間。アナトールとして、お前と話をしたい。そう思うのは贅沢だろうか」
アナトールの『ひとり』という言葉が『独り』と聞こえ、ザムゾンはドキリとする。
まるで彼が孤独であるように思え、ザムゾンは心に今まで感じたことのない軋みを感じた。
顔を上げると真剣な瞳をしたアナトールと目が合う。
まるで迷子のような心細そうな目。哀しい色がたゆたっている。
…どうしてそんな瞳を?
…そんな寂しそうな目。
「アナトール。あなたは寂しいのですか?」
思った言葉は無意識のうちに口から出ていた。
言葉を聞いてアナトールは哀しげな目を驚きで瞠る。
「どうして、そう思う?」
「そんな風に見えたんです。炎の中のあなたの目も寂しそうで哀しそうだった。そして今も。とてもとても寂しそう」
ザムゾンが言葉を重ねるとアナトールの顔から哀しさと寂しさが徐々に消えていく。
表情は変らなかったが、その顔はどこかしら嬉しそうに見えた。
「そうか。ザムゾンの目には、そう映ったのか」
「まぁ、同情されているわよ。アナトール」
しみじみと言うと、今まで黙っていたキルシュがおかしそうに笑いながら言った。
「私に同情する人間がいるとは思ってもみなかった」
「スミマセン…失礼な事を言いました」
そう言われて、ザムゾンはまた失言したことに気がついた。身分違いどころじゃない。顔を真っ赤にすると、謝罪する。
「いいや。失礼でも何でもないさ。ただ珍しいと驚いただけだ。そんな風に見てくれる人がいるとはな」
アナトールはそういうと寂しそうで哀しそうな気配を一掃し、嬉しそうに笑いキッパリと言った。
「決めたぞ、キルシュ。私はザムゾンの友人になる」
次の更新は明日の予定です。