第26話
三国協定が正式に結ばれたのは、それから二日後のことだった。
テレジア、フランキス、ヴァルミア。
三国は国境地帯における魔獣移動路の保全、開拓前の生息調査、軍用魔獣の観察記録共有、そして魔獣医療・保護に関する共同調査団の設立に合意した。
書面に並ぶ言葉は硬い。
協定。
調査。
観察記録。
運用改善。
生息環境保全。
けれど、ルシアには分かっていた。
そのひとつひとつの言葉の向こうに、餌桶の前で迷うペガサスがいる。
翼を痛めたワイバーンがいる。
塩を求めて町へ迷い込んだ野生魔獣の親子がいる。
紙の上の約束は、現場へ届いて初めて意味を持つ。
だからこそ、これで終わりではない。
始まりなのだと思った。
◇
フランキスへ戻る日の朝、ルシアは王城の中庭にいた。
王都の空はよく晴れている。
かつては、この庭を歩くたびに肩身の狭さを感じていた。
聖女の家の娘なのに聖眼を持たない自分。
薬草の匂いを袖に染みつかせ、魔獣舎の記録を抱えて歩く自分。
誰かに見られないよう、なるべく端を歩いていた。
けれど今は、同じ庭に立っているのに、少しだけ違って感じる。
庭の向こうでは、騎士たちが移動用魔獣に水を飲ませている。
若い薬剤師が、その横で記録を取っていた。
水を飲む前に鼻先を離した回数。
補食を食べた後の姿勢。
歩いた距離。
眠れた時間。
以前なら、きっと誰も気に留めなかった記録。
それが今、仕事として扱われ始めている。
「お姉様」
呼ばれて振り返ると、セシリアが立っていた。
白い聖女の外套ではなく、今日は淡い銀糸の入った旅装に近い服を着ている。けれど、その瞳は変わらず澄んだ銀色だった。
「見送りに来てくれたの?」
「はい」
セシリアは少しだけ笑った。
「本当は、もっと長く話したいことがあります。でも、言い始めたらきっと止まらなくなるので」
「うん」
ルシアも小さく笑う。
「私も、同じ」
二人は並んで、中庭の魔獣たちを見た。
しばらく、言葉はなかった。
沈黙は、もう苦しくなかった。
「お姉様」
「うん」
「私は、ここでやります」
セシリアの声は静かだった。
「テレジアの聖女として。傷を癒やすだけではなく、傷つく前のことも見られるように。お姉様の仕事を、ちゃんとこの国に残します」
ルシアは妹を見た。
幼い頃、自分の後ろをついてきた少女。
聖女認定を受け、国中から祝福された少女。
そして今、自分の意思で国に残ると決めた聖女。
「無理をしないでね」
「お姉様もです」
即座に返され、ルシアは何も言えなくなった。
セシリアは少しだけ眉を上げる。
「お姉様の方が、ずっと無理をします」
「……気をつけます」
「約束です」
「うん。約束」
セシリアはほっとしたように笑った。
それから、少しだけ表情を引き締める。
「困ったら、手紙を書きます」
「私も書く」
「魔獣の記録ばかりではなく、お姉様のことも書いてください」
「それは……努力する」
「努力ではなく、約束です」
妹の声が少し強くなる。
ルシアは、思わず笑った。
「分かった。約束」
セシリアも笑った。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
昔には戻れない。
でも、それでいいのだと思えた。
昔に戻るのではなく、ここから新しく並べばいい。
◇
出立の前、王妃エレオノーラがルシアを呼び止めた。
王妃は王城の回廊に立ち、静かにルシアを見つめていた。
「ルシア」
「はい、王妃陛下」
「改めて、礼を言います」
ルシアは慌てて頭を下げた。
「私は、礼を言われるようなことは」
「しました」
王妃の声は柔らかいが、はっきりしていた。
「この国が見落としていたものを、あなたは見てくれました。あの時も、今も」
あの時。
王家の馬型魔獣を診た日のことだと、ルシアにはすぐ分かった。
「私は、あなたを守りきれませんでした」
「王妃陛下」
「だからこそ、今度はあなたの選択を尊重します」
王妃は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「フランキスで、あなたの仕事を続けなさい。テレジアは、必要な時に正式に協力を求めます。あなたを所有物のように呼び戻すことは、二度とありません」
その言葉に、ルシアの胸が熱くなった。
売られた娘。
不要になった婚約者。
欠陥聖女。
そう思っていた自分へ、王妃は違う言葉をくれた。
専門職。
薬剤師。
自分で選ぶ者。
「ありがとうございます」
ルシアは深く頭を下げた。
「私は、フランキスで働きます。でも、テレジアの魔獣たちのことも、できる限り力になります」
「ええ」
王妃は頷いた。
「あなたの仕事が、この国にも根づくように」
◇
フランキスへ向かう馬車は、王都の門を抜けた。
ルシアは窓の外を見ていた。
遠ざかっていくテレジア王都。
もう二度と戻りたくないと思っていた場所。
戻れば、またあの日の自分に戻ってしまうようで怖かった場所。
けれど今は、違う。
ここには痛みがある。
でも、それだけではない。
自分を認めてくれた王妃がいた。
隣に立ってくれる妹がいた。
変わろうとしている人たちがいた。
だから、テレジアをただ憎む必要はない。
ただ、戻る場所として選ばないだけだ。
馬車の向かいには、マグダレナが座っていた。
「顔色は悪くないわね」
「はい。大丈夫です」
「大丈夫という言葉は信用しないことにしているの」
「では、少し疲れています」
「よろしい」
なぜか満足そうに頷かれ、ルシアは少しだけ困った。
隣のノーマンが記録板を取り出す。
「帰路一日目、ルシア殿、自主的に疲労申告。これは大きな進歩です」
「記録しないでください」
「健康管理記録には」
「ノーマン様」
「はい。心の記録に留めます」
アルベルトが小さく笑った。
「フランキスへ戻ったら忙しくなる。三国協定の実務が始まるからね」
「はい」
ルシアは頷いた。
怖さはある。
やるべきことは山ほどある。
けれど、それはもう、押しつけられた雑務ではなかった。
必要とされ、任され、自分で引き受ける仕事だった。
◇
フランキス王立魔獣医療・保護施設へ戻ると、正門前に人だかりができていた。
騎士。
飼育員。
研究員。
薬材係。
それから、何頭もの魔獣たち。
白い迎撃ペガサスはまだ完全には回復していないが、飼育員に付き添われて立っていた。
リューネはエリックの隣で、穏やかに翼を畳んでいる。
ヒッポグリフが鼻を鳴らし、ドレイクが低く喉を震わせる。
そして、正門の上には新しい横断幕が掲げられていた。
――お帰りなさい、魔獣の聖女ルシア様。
相変わらず、文字の大きさは少し不揃いだった。
ルシアは馬車を降りたところで固まった。
「……また」
「また有志ね」
マグダレナが横で言う。
「文字の並びが甘いわ。次は私が監修する」
「そこですか」
アルベルトが苦笑した。
ノーマンは目元を押さえるふりをする。
「感動的ですね。誤字がないのも素晴らしい」
「誤字があったらどうするつもりだったの」
「直します」
「今?」
「今」
「やめなさい」
そのやり取りに、周囲から笑いが起きた。
騎士のエリックが一歩前に出る。
「お帰りなさい、ルシア殿」
その声に続いて、騎士たちと飼育員たちが一斉に頭を下げた。
「お帰りなさい!」
声が重なる。
ルシアは、胸が詰まった。
お帰り。
その言葉を、自分に向けられる日が来るとは思っていなかった。
売られて来た場所。
知らない国。
危険な魔獣たちのいる施設。
そこが今、自分を迎えてくれる場所になっている。
ルシアは一歩、前へ出た。
「……ただいま、戻りました」
声は少し震えた。
けれど、ちゃんと届いた。
白いペガサスが、短く鼻を鳴らす。
リューネも、翼を小さく揺らした。
それが返事のように思えて、ルシアは少しだけ笑った。
◇
その夜、ルシアは自分の部屋で机に向かっていた。
フランキスで用意された部屋。
最初に見た時は、きれいすぎて落ち着かなかった。
自分のために整えられた場所だと信じられず、いつ追い出されてもいいように荷物をまとめたままにしていた。
けれど今、机の上には記録帳が並んでいる。
ペガサス。
ワイバーン。
ヒッポグリフ。
馬型魔獣。
野生魔獣の移動経路。
壁には三国共同調査団の地図が貼られ、窓辺には薬草の鉢が置かれていた。
ここはもう、仮の場所ではない。
ルシアは便箋を一枚取り出した。
宛名は、セシリア。
書きたいことはたくさんあった。
無事に着いたこと。
横断幕がまたあったこと。
マグダレナが文字の並びに文句を言っていたこと。
ノーマンが誤字を探そうとしていたこと。
白いペガサスが、今日は餌を六口食べたこと。
リューネが深く眠れたこと。
それから、自分は大丈夫だということ。
ルシアは少し迷い、最初の一文を書いた。
――セシリアへ。私は、ちゃんと帰る場所に戻りました。
書いてから、胸の奥が温かくなった。
帰る場所。
その言葉を、自分で書けるようになった。
それだけで、少し泣きそうになる。
けれど涙は落ちなかった。
代わりに、ルシアは筆を進めた。
◇
三国協定の締結後、噂はゆっくりと広がっていった。
フランキスでは、魔獣の不調を見抜き、薬餌と記録で救う薬剤師の話として。
ヴァルミアでは、傷ついたワイバーンを救い、国境の村を守った姉妹の話として。
テレジアでは、聖女セシリアが魔獣の記録を取り始めた理由と、かつて欠陥聖女と呼ばれた姉の本当の仕事の話として。
人々は、ルシアを魔獣の聖女と呼んだ。
ルシア本人は、そのたびに困った顔をした。
「私は聖女ではなく薬剤師なのですが」
そう言うと、マグダレナは決まってこう返した。
「諦めなさい。もう手遅れよ」
セシリアと並ぶ時には、別の呼び名が使われるようになった。
銀の聖眼で傷と呪いを癒やす妹。
金の魔眼で苦しみの根を見抜く姉。
二つの目は、どちらが優れているかを比べるものではなかった。
癒やすための目。
見抜くための目。
二つが並んだ時、ようやく届く命がある。
だから人々は、二人をこう呼んだ。
銀と金の双聖女、と。
母国で欠陥聖女と呼ばれた娘は、
いまや国境を越えて、魔獣の聖女と呼ばれていた。
そして銀の聖眼を持つ妹と並んだ時、
人々は二人を、銀と金の双聖女と呼んだ。
けれど、魔獣たちの声は、まだ世界のあちこちで届かないままだった。
だからルシアは今日も、記録帳を開く。
誰かが苦しみに気づく前に。
壊れてしまう、その前に。
自分に見えるものを、今度こそ仕事として残すために。
⸻
第1部 銀と金の双聖女 完
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