第5話 元勇者、初めての『有給休暇』に戸惑う
「ハッ……!?」
アーサーは弾かれたように飛び起きた。
全身から冷や汗が噴き出している。心臓が早鐘を打っていた。
窓の外を見ると、太陽はすでに高く昇っている。
目測で、午前十時。
「じゅ、十時……!? 寝坊だ……!!」
血の気が引いた。
勇者時代の起床時間は午前四時。五時には朝練、六時には王都の巡回、七時には王への定時報告が義務付けられていた。
十時起きなんて、万死に値する。処刑だ。減給だ。鞭打ちだ。
「す、すみませんっ! すぐに準備を……!」
アーサーは半狂乱でベッドから転がり落ちた。
だが、着替えようとして手が止まる。
枕元に置いてあるのは、ボロボロの鎖帷子ではなく、肌触りの良い木綿のシャツと、プレスの効いたズボンだった。
「……あ」
ふかふかの絨毯。広々とした個室。サイドテーブルに置かれた『朝食券』。
記憶が蘇る。
そうだ。俺は昨日、勇者を辞めたんだった。
ここは魔王城の社員寮だ。
「……助かった……」
へなへなと座り込む。
だが、すぐにまた不安が鎌首をもたげた。
転職したとはいえ、初日から遅刻はまずいのではないか?
アーサーは慌てて着替え、部屋を飛び出した。
「魔王様! も、申し訳ありません!」
アーサーはダンジョンの指令室に駆け込み、スライディング土下座を決めた。
「初出勤日に寝坊など、言語道断! どんな罰でも受けます! トイレ掃除でもドブさらいでも……!」
指令室の空気は凍りついた。
執務机でコーヒーを飲んでいた魔王ヴェルムが、きょとんとしてこちらを見ている。
その横で書類整理をしていたリリィも、目を丸くしていた。
「……アーサー君?」
「は、はいッ!」
「今日、君はシフトに入っていないはずだが?」
ヴェルムはスケジュール表をペラリとめくった。
「君たち元勇者パーティは、入社手続きの関係で三日間は『有給休暇』扱いだ。ウェルカム休暇だよ」
「えっ」
「だから、今日は休みだ。働いちゃダメだ」
働いては、ダメ。
その言葉の意味を理解するのに、アーサーの脳は数秒を要した。
「や、休み……? 丸一日、ですか? 待機命令ではなく?」
「完全オフだ。緊急呼び出しもしない。どこへ行こうが、何をしようが君の自由だ」
自由。
その言葉の重みに、アーサーはめまいを覚えた。
「で、でも、何をすればいいのか……。剣の素振りとか、魔物の討伐リスト作成とか……」
「だーかーらー」
ヴェルムは呆れたように立ち上がり、アーサーの肩に手を置いた。
「それが『社畜脳』だっていうんだ。いいか、仕事のことを考えるのも禁止だ。これは業務命令だ」
魔王はポケットから革袋を取り出し、アーサーに握らせた。
「福利厚生の一環で『遊興費』が出る。城下町(ダンジョン都市)エリアに行って、うまい飯でも食って、温泉に入って、昼寝してこい。以上!」
背中をバンと叩かれ、アーサーは廊下へと押し出された。
途方に暮れたアーサーは、とりあえずダンジョンの居住区画を歩くことにした。
そこは、驚くべき光景だった。
魔物たちが、笑って暮らしていたのだ。
オークが屋台で肉を焼き、ゴブリンの子供たちが走り回り、スケルトンが日向ぼっこをしている(骨なのに)。
すれ違う魔物たちは、元勇者であるアーサーを見ても襲いかかってこない。むしろ――
「おっ、新人さんかい? 顔色が悪いな、これ食ってきな!」
「警備部長さんだよね? よろしく頼むよ!」
オークの屋台で串焼きを奢られ、ハーピーの少女に手を振られた。
温かい。
人間界の王都では、誰もが眉間にシワを寄せ、勇者に「早く魔王を倒せ」と重圧をかけてきたのに。
ここでは、誰も彼もが余裕に満ちている。
(俺は今まで、何を倒そうとしていたんだ……?)
ふと、広場のベンチを見ると、かつての仲間たちの姿があった。
魔法使いは、魔導書片手にニヤニヤしながらカフェテラスでお茶をしている。
僧侶は、サキュバスのお姉さんたちと楽しそうに談笑している。
戦士は、大柄なミノタウロスと腕相撲をして大盛りあがりだ。
「……みんな、馴染むの早いな」
アーサーは苦笑いした。
同時に、肩の力がふっと抜けるのを感じた。
彼は空いているベンチに腰を下ろした。
オークに貰った串焼きを一口かじる。ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。
「……うまい」
空が青い。風が心地よい。
明日の心配をしなくていい。今日、死ぬ心配をしなくていい。
「これが……休み、か」
アーサーの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
悲しみの涙ではない。
人間としての心を、取り戻した涙だった。
その日、元勇者アーサーは、生まれて初めて「何もしない一日」を過ごした。
それは彼にとって、どんな冒険よりも価値のある一日となったのである。




