第20話 聖女、魔物たちの優しさに触れて価値観が崩壊する
入院から三日目。
アリアはヴェルムの許可を得て、リハビリのために病室の外へ出ることを許された。
「……信じられません」
杖をつきながら廊下を歩くアリアは、周囲の光景に目を白黒させていた。
すれ違うのは、タオルを首にかけたオークや、書類ファイルを抱えたゴブリンたち。
彼らは人間であるアリアを見ても襲いかかってこない。それどころか――。
「おっ、患者さんかい? 足元、滑りやすいから気をつけてな」
「おはようございます!」
挨拶をしてくるのだ。
爽やかに。礼儀正しく。
「な、なぜ……?」
アリアは混乱していた。
教典にはこう記されている。『魔物は魂なき泥人形であり、人間を憎み、殺すことしか考えない絶対悪である』と。
だが、目の前の彼らはどう見ても「善良な市民」だった。
(騙されてはいけません。これは魔王が見せている幻覚、あるいは高度な演技です……!)
アリアは必死に信仰心を保とうとした。
そんな彼女の足が、中庭に差し掛かったところで止まった。
そこに、「死」そのものが立っていたからだ。
「ヒッ……!」
アリアは息を飲んだ。
花壇の前に佇む、身の丈2メートルを超える巨大な骸骨。
豪奢な鎧を纏い、腰には凶悪な大剣を帯びている。
Sランクモンスター『スケルトン・ジェネラル(将軍級骸骨)』だ。
本来なら、一国を滅ぼしかねない災厄の化身。
その骸骨が、ゆっくりと屈み込んだ。
その足元には、人間の幼い少女が尻餅をついて泣いていた。
(――食べる気だわ!)
アリアの脳裏に警報が鳴り響く。
アンデッドは生者の命を憎む。ましてや、血の匂いのする無防備な子供など、格好の餌食だ。
「や、やめなさいッ!」
アリアは叫んだ。
まだ魔力は戻っていない。杖を構えても震えるばかりだ。それでも、子供を守らなければという使命感が体を動かした。
「その子から離れなさい! 汚らわしいアンデッドよ!」
アリアの叫びに、スケルトンがギギギ……と首を回してこちらを見た。
眼窩の奥で、赤い光が怪しく明滅する。
『……ム?』
スケルトンは、骨だけの腕を少女へと伸ばし――。
――ポン、ポン。
少女の頭を、優しく撫でた。
「……え?」
アリアは硬直した。
スケルトンは懐(肋骨の隙間)から、可愛らしいキャンディを取り出し、少女に手渡した。
『泣クナ、小サキ者ヨ。……痛イノ、痛イノ、飛ンデユケ』
重厚な、地獄の底から響くようなバリトンボイスで、極めてファンシーな言葉を紡いだ。
少女は泣き止み、キャンディを受け取って笑顔になる。
「ありがとう、ホネのおじちゃん!」
『ウム。……走ル時ハ、前ヲ見ルノダゾ』
少女はトテトテと親の元へ走っていった。
スケルトンはそれを見送ると、再び花壇に向き直り、ジョウロで丁寧に水をやり始めた。
「な……な、な……」
アリアの理解が追いつかない。
彼女はフラフラとスケルトンに近づいた。
「あ、貴方は……人間を憎んでいないのですか……?」
『憎ム? ナゼ?』
スケルトンは不思議そうにジョウロを置いた。
『我ハ今、コノ花壇ノ「管理責任者」ヲ任サレテイル。花ヲ愛デ、時ニハ子供ト遊ブ。……コノ穏ヤカナ日々ヲ、愛シテイル』
「で、でも、貴方はアンデッドで……教会の敵で……!」
『昔ハ、ソウダッタカモシレヌ』
スケルトンは遠くを見るように空を見上げた。
『前ノ職場デハ、我ハ殺戮兵器トシテ扱ワレタ。毎日戦イ、傷ツキ、骨ガ砕ケテモ修復サレテマタ戦場ヘ送ラレタ。……辛カッタ。痛カッタ。死ンデイルノニ、死ニタイト思ッタ』
その言葉は、アリアの胸に突き刺さった。
それはまさに、聖女としてのアリア自身の境遇と同じだったからだ。
『ダガ、今ノマスターハ違ウ。我ニ「園芸」トイウ趣味ヲ見出シテクレタ。……嬢チャン、見テクレ』
スケルトンは、一輪の花を指差した。
太陽の光を浴びて、力強く咲く白い花だ。
『綺麗ダロウ? コレヲ見テイル時、我ノ心ハ満タサレルノダ』
骸骨の顔に表情はない。
だが、アリアにはハッキリと分かった。彼が今、慈愛に満ちた優しい顔をして笑っていることが。
「あ……ぅ……」
カラン、とアリアの手から杖が滑り落ちた。
教会の教えは嘘だった。
魔物は心なき怪物ではなかった。
彼らもまた、過酷な労働環境に苦しみ、そして今、ここで救われた「労働者」たちだったのだ。
「私は……私は今まで、何を浄化しようとしていたの……?」
アリアはその場に崩れ落ちた。
彼女の目から、とめどなく涙が溢れる。
それは恐怖の涙ではない。自分の信じてきた正義が崩れ去った喪失感と、そして――彼らが幸せそうで良かったという、安堵の涙だった。
『……嬢チャンモ、泣クナ』
ゴツゴツとした骨の手が、アリアの頭に置かれた。
冷たいはずのその手は、なぜかとても温かかった。
『辛イ時ハ、休メバ良イ。ココハ、ソウイウ場所ダカラナ』
その日、聖女アリアの中で、何かが完全に壊れ、そして新しく生まれ変わった。
彼女は魔物の優しさに触れ、初めて教会の呪縛から解き放たれたのである。




