第18話 聖女、魔王城の前で力尽きる
「はぁ……はぁ……」
聖女アリアは、霞む視界で巨大な扉を睨みつけた。
魔王の居城、奈落の迷宮。
その威圧感だけで、今の彼女には重荷だった。
「出てきなさい……魔王……!」
アリアは杖を構えた。
指先が白くなるほど強く握りしめる。
「神の名において……不浄なる貴方を……じょ、浄化……」
彼女は最後の魔力を振り絞り、聖なる光を放とうとした。
だが。
グゥゥゥゥ……キュルルル……。
盛大な腹の虫が、詠唱を遮った。
同時に、極度の低血糖によるめまいが彼女を襲う。
世界がぐるりと回った。
(な、なんですって……? 魔王の……精神攻撃……!?)
アリアの思考は、最後まで聖女(社畜)的だった。
自分の体調管理不足ではなく、敵の卑劣な罠だと思い込んだまま、彼女の意識はプツリと途絶えた。
バタリ。
地面に倒れ込む寸前、ふわりと何かに受け止められた感触があったが、彼女は知る由もなかった。
◇◇◇
ピッ、ピッ、ピッ。
規則正しい電子音が聞こえる。
消毒液と、甘い果実の香りが鼻をくすぐった。
(……ここは?)
アリアは重いまぶたを開けた。
目に飛び込んできたのは、シミひとつない真っ白な天井だった。
体は羽毛のように柔らかいベッドに沈み込んでおり、掛布団は絹のように滑らかだ。
(あぁ……私は、死んだのですね……)
彼女はぼんやりと悟った。
魔王との戦いに敗れ、殉職したのだ。ここはきっと天国に違いない。
でなければ、こんなに体が軽いはずがない。節々の痛みも、慢性的な頭痛も消えている。
「気がついたか、アリア」
横から、懐かしい声がした。
アリアはゆっくりと首を巡らせた。
そこにいたのは、丸椅子に座り、器用な手つきでリンゴの皮を剥いている青年――勇者アーサーだった。
「ア、アーサー様……!」
アリアの瞳から涙が溢れた。
「貴方も……貴方も死んでしまっていたのですね……! 私が遅かったばかりに……!」
「ん? 何を言ってるんだ?」
「見てください、その肌のツヤ! 生きている人間とは思えないほど健康的です! それに、そんな上等な服を着て……天国で安らかに暮らしていたのですね……」
かつてのアーサーは、アリアと同じく目の下にクマを作り、頬がこけていた。
だが今の彼は、筋肉が程よくつき、肌は血色良く輝き、表情は穏やかそのものだ。
これが「成仏」した姿でなくて何だと言うのか。
「縁起でもないことを言うな。俺はピンピンしてるぞ」
アーサーは苦笑しながら、ウサギの形に切ったリンゴを差し出した。
「ほら、食え。糖度15度の『ダンジョン特産・蜜リンゴ』だ」
「あ……あぁ……」
アリアは震える手でリンゴを受け取り、口に運んだ。
シャクッ。
甘い。信じられないほど甘い果汁が、乾いた喉を潤していく。
「おいしい……」
「だろ? ここは天国じゃない。魔王城の『第4階層・総合医療センター』だ」
「え……?」
思考が停止した。
魔王城? 医療センター?
アリアは慌てて体を起こそうとしたが、腕に管が繋がれていることに気づいた。
透明な液体が、血管へと送り込まれている。
「な、なんですかこれは! 魔族の毒を注入して……!」
「ただの『高濃度ポーション点滴(栄養剤入り)』だ。お前、栄養失調で死にかけてたんだぞ」
そこへ、白衣を纏った男が入ってきた。
聴診器を首にかけ、カルテを持った魔王ヴェルムだ。
「目が覚めたようですね、聖女様」
「き、貴様が魔王……!」
「動かないで。点滴がズレます」
ヴェルムは慣れた手付きで点滴の調整を行い、カルテを見ながら淡々と告げた。
「診断結果を伝えます。……重度の栄養失調、睡眠負債、自律神経失調症。それに胃潰瘍の兆候も見られます。典型的な『過労』ですね」
ヴェルムは眼鏡の位置を直した。
「聖女様。あなたは今日から『強制入院』です。全治二週間。それまで退院は許可しません」
「は、入院……? ふざけないで! 私は祈らなければならないのです! 国で待つ信徒たちのために、一分一秒でも惜しんで……!」
「それが『病気』だと言っているんです」
ヴェルムの声が低くなった。
威圧感に、アリアが息を飲む。
「自己犠牲を美徳とし、自分の命を削ることを『正義』と勘違いしている。……それは誰のためだ? 神のためか? それとも、お前を都合よく使う『教団』のためか?」
「そ、それは……」
「アリア」
アーサーが、アリアの手を優しく握った。
その手は温かかった。
「俺もそうだった。みんなのために頑張らなきゃって、ボロボロになるまで働いた。……でもな、ここのマスター(魔王)に言われたんだ。『自分が幸せじゃない奴に、他人を幸せにすることなんてできない』って」
「自分が……幸せ……?」
アリアにとって、それは禁忌の言葉だった。
聖女は清貧であるべし。欲を持つべからず。そう教え込まれてきたからだ。
「まずは、休め。飯を食って、寝ろ。話はそれからだ」
「でも……」
「これは『魔王命令』だ。逆らえば……そうだな」
ヴェルムは少し考え、ニヤリと笑った。
「その美味しいリンゴを没収して、代わりに『最高級ステーキ』を無理やり食わせるぞ」
「……ッ!?」
なんて恐ろしい拷問(ご褒美)なのか。
アリアの腹が、肯定するように「グゥ~」と鳴った。
恥ずかしさで顔を真っ赤にする聖女を見て、ヴェルムとアーサーは顔を見合わせて笑った。
こうして、聖女アリアの「魔王城・強制療養生活」が始まった。
それは彼女が生まれて初めて知る、「人間らしい生活」へのリハビリでもあった。




