水に踊る
蝉が鳴かなくなった公園。
スピーカーが高温注意のアナウンスを流す。
熱をはらんだ風がぶらんこを揺らす。
朝にはすこしはいた子供たちも退散して久しい。
水飲み場から零れた水もすぐに乾いて、なにもない。痛みさえ覚える光でなにもかもを白く染め上げる夏。
飢えて乾いて、それでも男はそのベンチにいた。
汗一つ流すこともなくその場でじっとしていた。
「どうしたのかい?」
誰かの声に男はのろのろと頭をあげた。
日傘をさした誰かは影が黒く顔が見えなかった。
「きちんと水分を取って、熱中症に注意しなくてはね。
もう遅いかもしれないけれど」
「水は、もういらない」
ひび割れた声で男は告げる。
「干からびて死ぬ方がお好みかい? 違うなら、どこか別の場所で休むといいよ」
「いや、ここでいい」
頑なに言う男に、日傘をさしたものは肩を竦めた。
「こう暑くてはゲリラ豪雨もくるかもねぇ」
笑みを含む声に男は目を見開いた。その言い方が記憶にある誰かに似ていた。それを思いだそうとしてもかすみがかったように掴めない。
「逃げられるって、思えるところが本当に、かわいらしい。
ねえ、そう思うよね」
「ええ」
低く冷たい声が聞こえた。男はその声に聞き覚えがった。それどころか毎日聞いて、楽しく過ごしていた。
ほんのすこし前までは。
「ちょっとした言い争いだったんだ。
わかってもらおうと思って、すこし冷静になってもらおうと思って、飲みかけの水をかけただけで」
それだけだったのに。水が滴る姿が、昔の恋人と重なって見えた。本当なのねと糾弾する声にうろたえて。
あれは事故だった。
男が気がついたときには、妻が倒れていた。そのとき、玄関のチャイムがなり、警察が表れた。室内を検分される前に、倒れた妻を隠さねばならなかった。
描くし場所になぜ風呂を選んだのかはわからない。
男は水の張らない浴槽に横たえ、ふたを閉めた。
警察が帰った後に、見れば水が満たされ溢れていた。ほんのわずかな生臭さは腐った海水のように思えた。
水に漂う髪が不意になくなり、妻の顔がよく見えた。横向きにいれたはずだったのに、天井を見ていた。
目を開けたままの妻だったものは、男を責めているようだった。
男は助けを求めるように日傘の相手へ視線を向けた。
影になった顔に口元の笑みだけが見えた。
「それはかわいそうに。
あなたは悪くないの。なにもかも暴いた彼女が悪いの」
「そ、そうだ。
昔のことだ。海でうっかり足を滑らして落ちることなんてよくあるだろう? 助けを求める声もきこえないことも。俺は被害者だ。愛しい彼女が失踪して、」
別れ際が明確ではなく、いつのまにか会わなくなったということもよくある。
男は別れ話は海ですることが多かった。ごねられてもすこしばかり話をして優しく背中を叩けば解決した。
「その後、すぐに、他の女と結婚式。
結婚式って半年前から準備するんですってね。
いつから、邪魔だとおもってたのかな。最後と思って思い出の海なんて行かなきゃよかった」
男は目の前の誰かの声も聞き覚えがあることに気がついた。
青ざめてがたがたと震える男。
「すまない。ほんとうに、怒って帰ったと思ったんだ」
「そういうことにしておいてあげてもいいけどね」
「助けてくれ」
その声に返答はなかった。
「ああ、降って来るね」
水滴がぽつりと落ちてきた。
男は悲鳴を上げる。水が、やってくる。
水に意思があるかのようにすべてを満たそうとする。喉を通り、胃も肺も水で満たされてしまう。
ぽつりぽつりと落ちてきた水は、すぐに量を増やし、轟音をたてる。
「たすけ……」
「そうなってしまってもまだ逃げたいとはね。
本当に恐ろしいのは、人であるというのは嘘でもなさそうだよ」
「ええ」
仲よさ気に話す二人の女に男は手を伸ばした。
「水に沈むのもわるくないわよ。水面も綺麗で人魚みたいになれるもの。
でも、あなたは入れてあげない。
みんなの気が済むまで、水で満たされればいいよ」
気がつけば男の周りには他の女も立っていた。
すまないと口に出そうとしても水で声も出ない。息ができなく苦しいのに死ぬこともない。助けを求める相手も誰もいない。
ずっと同じ夢を見ているようにここで、……。
その公園には幽霊がでるらしい。
雨の日に踊る霊とそれを見物するような女が現れるそうだ。その場には、微かに海の臭いがするらしい。