化物
僕の中に棲むこいつは、いつの頃からか凶暴に暴れはじめた。
勢いは中学に入ったあたりで顕著になり、気づいた時にはもう手がつけられなくなっていた。
それまでの僕はどちらかといえば大人しい性格だったが、こいつが覚醒してからは、視界の端々にいやらしい妄想がねじこまれるようになった。
周囲を見渡すだけで、制服のシャツの透け具合や髪をかき上げる仕草にも翻弄される自分がいた。
頭の片隅で「そんなことばかり考えるな」とストッパーがかかっているのに、その制御をすり抜けるかのようにこいつは毎日、少しずつ大きくなっていった。
人は誰しも、身体の中に化物を飼っているとよく言う。
僕の化物はおそらく普通よりも旺盛で、厄介な部類に入るのだろう。
友人たちが「今日もかわいい子を見かけた」「あの子に告白しようかな」と笑い合っているとき、僕はすでに恋愛の入り口より先を見据えて、性的な妄想に耽っていた。
こいつが命令してくる欲求は、ただ「触れたい」「確かめたい」だけじゃない。
もっと奥底まで引きずりこむような、理性を焼き払うほどの衝動だった。
しかし、思春期がすべてではない。
高校・大学と進む中で恋人もでき、互いに愛を確かめ合うことの尊さも学んだはずなのに、20代に差しかかった途端、こいつはさらに牙をむきはじめた。
「もっと刺激的な体験をしろ」「まだ知らない快感があるだろう」と耳元で囁かれ、僕はその声に踊らされる。
性的な欲望は深みにハマるほどあやしく輝いて見え、満たされてもすぐに「次」を欲するようになった。
社会人として数年が経ったころ、仕事の飲み会で友人のユウスケと隣り合わせになった。
彼は昔から僕のそうした性癖を半ば呆れながらも受け止めてくれる数少ない理解者だった。
グラスを交わしながらしばらく他愛ない話をしていたが、ある程度酔いが回ってきたところでユウスケが低い声で切り出す。
「なあ、最近どうなんだよ。女の子とは……相変わらずなのか?」
僕は肩をすくめて、「うーん、まあ毎週末誰かと会ってるよ」と答えた。
彼は少し目を丸くした後、眉をひそめる。
「それ、ただ会ってるだけじゃないよな? お前、相手が誰でも関係持っちゃうんじゃないか?」
「……否定はできないかも。今のうちにいろんな経験しておきたいっていう気持ちが強くてさ」
「それって“やりたい”だけだろ。さすがにまずいんじゃないか?」
ユウスケの言葉には、友人としての心配が滲んでいた。
「わかってるんだけどさ、仕事で嫌なことがあると無性に抱き合いたくなるんだ。新しい人とセックスすれば気が晴れる気がしてさ。最初はすごく満たされるんだけど、結局すぐに物足りなくなる」
「それでずっと繰り返してるのか。お前、彼女作る気は?」
彼女を作る気がないわけじゃない。でも化物の声が常に「もっと、もっと」とせき立ててくるから、安定した関係を築くのが難しい。
僕は曖昧に笑い、「今はまだ無理かな」と視線を逸らした。
正直に言えば、僕はもう抑えられなくなっていた。
仕事のストレスを理由にするのは簡単だが、実際にはただ「新しい快楽を試したい」という衝動に毎日駆られていた。
誰かに愛されるよりも、身体が満たされる瞬間を欲する。その方が楽で、一時的に何も考えなくて済むから。
でも、そんな生き方を続けるうちに僕の心はむしろ空虚になっていった。
そんな中、まともに付き合っていた彼女がいた。
名前はミサキといった。
彼女は僕が夜中に妙に落ち着かなかったり、そわそわとスマホを眺めているのを見ても、「どうかしたの?」と柔らかく声をかけてくれた。
僕が言い淀んでいるときは、「大丈夫だよ。私は全部を否定するつもりはないから」と、まるでこちらが逃げてしまわないように優しく受け止めてくれた。
一度、僕が「実はさ、いろんな女性と関係を持ちたくなる衝動があって……」と打ち明けたときも、「うん、ちゃんと聞くよ」と深夜まで付き合ってくれた。
まるで自分の中の醜いところを全部見せても、彼女なら受け入れてくれる気がした。
だが、彼女のあまりの優しさが逆に僕を増長させたのかもしれない。
一時的に落ち着いても、また新しい女性に目が行き始める。
マッチングアプリや飲み会で出会った女性を「どんな体なんだろう」と想像し、ひそかに誘いのメッセージを送ってしまう。
そんな自分を情けなく思いながらも、化物が心を奪うと彼女の存在さえ一時的に忘れてしまう。
ある晩、ミサキはいつになく重たい口調で言った。
「もし本当に辛いなら、一緒に専門のところに行こう? 私もいっしょに行くからさ」
その瞳は弱々しくもまっすぐだったが、僕は反射的に笑ってごまかした。
「そこまでじゃないから大丈夫だよ。ちょっと性欲が強いだけだって」
「……そっか。ごめんね、余計なこと言って」
ミサキは小さくうなずいたきり、それ以上は何も言わなかった。
でも、その頃から彼女の表情は明らかに疲れてきていて、僕と目を合わせる時間が減っていった。
ある夜、ミサキが僕のスマホを見てしまった。
洗面所でシャワーを浴びている間に着信があり、止めようと画面を触った彼女が、偶然にも他の女性との生々しいやり取りを見てしまったのだ。
メッセージにはお互いの好みや具体的な行為の話まで赤裸々に書かれていた。
ミサキはそれを読み、何も言わずにスマホを置き、浴室から出てきた僕をじっと見つめていた。
「……何か言うことある?」
彼女の声は凍えつくほど冷たいわけではなかったが、そこには絶望がにじんでいた。
僕は慌てて弁解しようとした。
「いや、あれはただの刺激を求めるだけで、本気じゃないんだ。本当に好きなのはミサキだけなんだよ」
「そんな言い方、もう聞きたくないよ」
小さな声でそう呟いたあと、彼女はスマホを僕に差し出し、「もういいよ」とだけ言った。
問い詰める気力もないほど疲れ果ててしまったのだろう。
そしてドアを開けて部屋を出ていく後ろ姿を、僕はただ呆然と見送ることしかできなかった。
それから数日、彼女と連絡が取れることはなかった。
僕は何度も謝罪の言葉を送ったが、彼女からの返信はなかった。
仕事中も休憩中も頭にこびりついて離れない。
「なぜあのとき、あんなふうにしか言えなかったのか」「どうして止められなかったのか」そんな後悔ばかりが渦巻く。
だけど、いくら衝動に従おうと、どれだけ他の女性と遊ぼうと、ミサキの心を取り戻すことはもうできないと悟った。
そんな僕を見かねて、ある晩ユウスケが電話をかけてきた。
「お前さ、ミサキちゃんとどうなったんだ? 別れたって聞いたけど……」
彼の声はいつになく真剣だった。
「……俺が悪かった。裏で何人かと関係持ってるのバレて、さすがに愛想尽かされちゃったよ」
「マジかよ。お前もいい加減ヤバいって自覚しないと、これから先も同じこと繰り返すだけじゃないのか?」
「わかってるよ。でも、どうしても止まらないんだ」
僕がそう言うと、ユウスケはひどく歯がゆそうに、「それ、ただの浮気性とかそういうレベルじゃないだろ。いい加減、本気で向き合えよ。今度こそ誰かの力借りろ」と吐き捨てるように言った。
「誰かの力って、具体的にどうすれば……」
「カウンセリングでも何でもあるだろ。性欲コントロールとか依存症専門とか、そういうの探してみろよ」
僕は受話器を握りしめたまま黙り込んだ。
結局、ミサキとの関係は修復不可能なまま終わった。
失って初めて、彼女がどれほど僕の闇と真剣に向き合おうとしてくれていたのかを痛感した。
しかしそのときにはもう、化物が暴れた結果は覆せない。
そんな状態で日々をやり過ごすうち、ユウスケの言葉を思い出し、僕はとうとう専門クリニックのドアを叩くことに決めた。
医師は淡々とした口調で、「性欲が強い自覚がある、ということですね」と確認する。
僕は深くうなずき、ミサキのこと、どうしても衝動が抑えられなかったことなどを正直に話した。
医師は静かに続ける。
「お話を伺う限り、性依存症の傾向がありますね。性欲そのものは悪いわけではありませんが、度を越すと自分も相手も苦しめることになります」
さらには、「あなたの望む人生と、実際の行動が乖離していることが最大の問題です」と告げた。
僕は改めて、何が大切なのかを見失い、手元に何も残らなくなった現実に気づかされる。
医師からは、欲求が強くなったタイミングを具体的に記録することや、別の行動を習慣づけることをすすめられた。
例えば音楽を聴く、友人と話す、運動するなど、性的欲求とは別の回路で自分を満たしてみる。
効果があるかどうかはわからないが、それでもやってみようと思えたのは、自分がもう二度と取り返しのつかない傷を誰かに負わせたくないと痛感したからだ。
その後しばらくは何度も失敗した。
気を抜けばやはり本能に支配されて、浮ついた気持ちで新しい相手を探そうとしてしまう。
けれども、以前よりは確実に、化物が自分の身体を乗っ取る前に踏みとどまれる瞬間が増えた。
僕はそうして小さな勝利を積み重ねながら、もう少しまともな人間になれるかもしれないと希望を持ちはじめる。
今でも化物はそこにいる。
ふと気を抜けば、すぐにでも僕の意識を乗っ取ろうとする。
だけど最近は、その牙や爪の動きを感じ取れるようになってきた。
暴れ出しそうになったら、なるべく早く回避の行動をとる。
相変わらず失敗ばかりだけれど、ミサキのように大切な存在を二度と傷つけないために、僕は少しずつでも変わろうとしている。
男は誰しも身体の中に化物を飼っている。
それは、多くの場合において生きる原動力にもなるし、ときには大切な人を壊す凶器にもなる。
化物の餌を与えすぎれば、その欲望は制御不能になり、餓えさせれば苦しみのはけ口を求めて暴れ出す。
僕はそのバランスを学ぶために、生きているのだろう。
そして、化物の存在を完全に否定するのではなく、共存する道を探り続けるのだと思う。
「お前、最近は少し落ち着いたみたいだな」
久しぶりに会ったユウスケが、そう言って笑った。
「まだまだだけどな」と僕は肩をすくめる。
すると彼は、「いいんじゃないか、それでも」と軽く背中を叩いた。
そのとき初めて、僕は自分にとって「抑えきれない欲望」が必ずしも人生を破滅へ導く毒ではないのだ、と感じることができた。
人生を台無しにするかどうかは、自分がどう向き合うかにかかっている。
もう取り返しのつかない失敗をしてしまったとしても、そこから先の道を選び直すことはできる。
化物はいつでも、僕の身体のどこかで牙を研いでいる。
だが、その牙を使うか使わないかは、僕自身の意思が決めるのだ。
僕はそう自分に言い聞かせるように、夜の街を一歩ずつ歩いていく。