詩乃の涙
俺が中学2年に上がった年。祖母は急に体調を崩し、そのままあっさりと亡くなった。病気かと思っていたが、単純に寿命が来たのだろう。詩乃がいることにより、祖母は本来あるべき未来よりもずっと元気に余生を過ごせたはずだ。だからこそ、突然弱っただなんて感じてしまう。
祖母が体調を崩してから、店を閉めた。祖母がいないならもうやるつもりはないんだろう。
冷たくなった祖母の手を、ずっと握りしめていた詩乃が小刻みに体をふるわせている。葬儀は明日。これが俺たち家族で過ごす最後の時間だ。
詩乃のまぶたの奥から、ハラハラと涙がこぼれる。詩乃よりも大きな手は、それを拭ってやることしか出来ず、止めることは出来なかった。
「詩乃、悲しいな。だが、ばあさんは詩乃といられて幸せだったはずだ。何度も詩乃の頭を撫でて、抱きしめて、手を繋いで歩いてくれだだろう? そうしている時のばあさんは、いつも笑っていた」
祖母もずっと、詩乃に会いたかったのだと思う。連絡が途絶えた娘の子供。無理に会いには行かずに、ただ娘からの連絡を待っていたんだろう。
祖父が俺たちをここに連れてきた時、祖母は母よりも温かな笑みを浮かべて優しく抱きしめてくれた。いらっしゃいではなく、おかえりと迎えてくれた祖母の姿は、なぜかこびりついて離れない。
「詩乃、お前のことは俺が守る。だから、詩乃はじいさんのことを助けてやって欲しい。きっと寂しがっているから」
俺たちの前では涙を流さなかった祖父。だが心が弱りきっているのは明らかだった。詩乃は俺の言葉を聞いて、隣の部屋の椅子に腰かける祖父の元へと急いだ。
「じいじ」
「ん? どうした詩乃。ばあさんとお話は出来たかい?」
「したよ、いっぱいできたよ」
歩き慣れた様子で、祖父の声のする方へ向かう。椅子の前にたどり着くと、詩乃は祖父の膝に手を置いて、目の前に膝を着いた。
「じいじ、ばあばいないの寂しいね。でもね、詩乃もにいにもいるよ」
膝を撫で、祖父が置いていた両手にたどり着く。そのままその手を自身の手できつく握り締め、祖父の顔を真っ直ぐに空洞の目で見つめた。
「だからじいじ、ひとりじゃないよ」
ずっと開けているのは辛いのか、まぶたを戻す。祖父はたまらずといった様子で詩乃を抱き上げた。祖父の温もりを感じて安心したのか、詩乃がまた涙を零し始める。
「詩乃に1度でいいから、ばあさんの顔を見せてやりたかった……。いや、詩乃はいつもばあさんのことを見ていたな」
「ばあば、詩乃と似てる?」
「ああ、似てるよ。笑った顔がとくにな」
たとえ目が見えなくても、詩乃はいつも人の顔を見て笑顔を浮かべていた。詩乃に見つめられる俺たちは、詩乃の目はどんな色をしているのか、どれだけ輝いているのか、いろんなことを想像して話す。
詩乃ちゃんの笑顔は太陽みたいに綺麗だから、きっと目もとっても綺麗ね。そう言いながら詩乃を撫でるのが、祖母の癖だった。祖父も祖母も、いつか詩乃の目が元に戻ると信じていた。原因も分からず、治し方も知らない。そんな瞳がいつか戻ると信じていた。
「じいさん、詩乃の目はいつか治る。だからそれまで元気でいろよ」
「ふっ、そんなにヤワじゃない。詩乃が結婚して、ひ孫を産むまで死ねないさ」
「ずいぶん生きるんだな」
「お前は生きて欲しいのか死んで欲しいのかどっちなんだ」
祖父に抱きしめられたまま、詩乃は泣き疲れて眠ってしまった。祖父母と俺、そして詩乃の4人で布団を並べ、この日初めて、俺たちは全員揃って眠りについたのだ。
祖母が亡くなって数ヶ月後、祖父にひとつ連絡が入った。祖父の故郷である三重で道場をやらないかという話だ。祖父の友人がもともと師範を行っていたが、最近、教え子たちが急激に上達しているらしく、もう一人人手が欲しいようだ。妻を亡くして悲しんでいるだろうと、友人なりに気をつかったのだと思う。
三重と言えば、前世で自分が住んでいた土地に近いはずだ。呼び方が変わっているが、小中学校での授業でそこはしっかり勉強した。
ここにいても妖気を蓄え、妖力を扱う練習はできるが、三重の方にいけばよりいっそう力をつけることができるだろう。そこに住む妖の数も多くなるはずだ。
「じいさん、悩んでるなら行けよ。俺らもついてく」
「だが、お前たちはここを気に入ってるだろ」
「知らない土地に行くのは、詩乃にとってもいい事だと思う。それに、じいさんが昔住んでたんだろ? なら、俺も見てみたい」
「そうか。詩乃はどうだ? ここには友達もいるだろ?」
人形遊びをやめて、詩乃は祖父の方を向いた。少し悩んだ様子を見せたが、すぐに笑みを浮かべて告げる。
「じいじとにいにが一緒なら、どこでも行きたい!」
「そうか、そうか。決まりだな、だが準備もいるだろうし、影丸が高校に行くのに合わせるか」
現在、祖父が道場で教えている子供には悪いが、きっと祖父がいい師範を見つけてくれるだろう。
「それで影丸、勉強の方はどうなんだ」
「まあ、人並みに?」
「そろそろ塾の出番だな」
決していいとは言えない俺の通知表を思い出したのか、祖父は深くため息をついた。昔なら字の読み書きもできて計算もできる俺は、かなり優秀な人材だと思うんだがな。現代じゃそれは通じないらしい。
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