表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

中庭にて

作者: alIsa

 あらゆる生に恵みをもたらさんとギラつき、しかしそれでいて、よくしつけられた娘のような光のジェムは、南を越えたばかりで、疲れを知るどころか、より熱を増し、地に眩しい微笑みを注いでいる。その輝きに応えるかのように、めまいのするほど美しいあの女のもとでは、全てが彩られて鮮やかだ。僕はベンチの背もたれに身を預けると、夏の熱いまなざしを背と首に受けながら、唇の上を舐めて、それから額に浮いた水の玉を拭き取ろうとした。おのずから首が下を向く。そして、僕のまなざしもその動きにつられてアスファルトに落ちる。――そう、全てが鮮やかなのだ。地に揺れる僕の影は、まるで墨のようにくっきり黒々と刻み込まれていた。その影のすぐ横には、同じくらい黒い影が、川の底にある石のごとくしんとして、少しも動くことなくベンチに座っているのだった。

 京環第三病院の中庭、とは言っても病棟から離れた所にあるのだが、そこで僕はただ一人の友人であるサイトウと横並びに座っていた。彼は数週間前、大学の夏休み直前に入院したばかりで、本来であればまだベッドで横になっているべきなのだが、あんな薄暗いしみったれた病室でずっと寝ていては却って体に良くないと思い、僕が独断で連れ出したのである。

 ここは静かだ。後ろは山に面しているということもあり、せわしい人の営みからは切り離されていて、時の流れやら、車のガスやら、そういうものとはおよそ縁がない。また、セミも折良く鳴きやんでいて、聞こえてくるのは、水気を含んだ風の木々を揺らす音や、鳩の羽をはためかす音や、スズメのさえずる音だけである。それと、夏の暑さにすっかり参ってしまった僕のため息も。しかし、サイトウからは、息をする音も衣ずれの音も、何も聞こえてこなかった。あまりにも彼から音が立たないので、耳を澄ませば、彼の体を流れる血の音や細い髪の毛が夏の風にまくられる音さえ聞こえるような気さえした。サイトウはずっとこうだった。外に連れ出して空や草木や鳥でも眺めていれば、少しは気も紛れるかと思ったが、かれこれ一時間、彼は死人のようにピクリとも動かず、うつろな瞳を自らの影に向けているのだった。

 僕は友人から目を離し、再び足下に視線をやった。と、スズメが僕の影に乗っかった。小さく茶色い体にほの暗い影の色が混ざる。しかし彼は気にもとめず、餌を求めて飽きもせずにアスファルトをつついている。それに続いて、鳩もやってきた。日光を浴びて怪しいエメラルド色に光っていた羽はただの汚い灰色に戻る。しかし彼はまるで屈託もなく、首を小刻みに突き出しながら通り過ぎていく。影の色に染まりつつも全く憂いも無さそうな彼らに、僕はどうにもやるせなくなって苦笑を浮かべたが、彼らがサイトウの影を踏みにじるや否や、理不尽な怒りが、生理的不快感が、僕の鼓動と混ざり合った。それでも僕にはどうしようもなく、顔を上げて遠くを見やるだけだった。現実から逃れるように、中庭のずっと奥へと向かう視線は、結局、木々の梢に見え隠れする病棟にぶつかった。カステラのような形をした、灰色の、鳩の翼よりも汚れた灰色の建物。窓ガラスは薄く濁っていて、廊下を足早に過ぎる医者や看護師も灰色だ。太陽に応えて緑に輝き、夏にのぼせて生き生きと繁茂する木の葉に囲まれているせいか、その建物はより一層みすぼらしく、しかしそれと同時に物々しく、無機質に見える。その様子が何か得体の知れないものを、強大な力を人知れず隠し持っているかのように感じられて、僕は身震いせずにはいられなかった。

 風がゆるりと吹き、木々がさあさあと鳴る。弱い風だったが、それでも耐えられなかったのか、木々の一つから、おそらくまだ若い薄緑の葉がくらりと落ちていく。くるりくるり、表を上にしながら、裏を上にしながら、落ちていき、かさり、と若い命は静けさの中で地に横たわった。

 それを聞き届けると、僕は友人の方を見た。胸元の緩んだ病衣から、彼の肌がのぞいている。くすんだ白。雨雲の色だ。やけどのあとのようなシミが見える限り一面に広がり、縫い目のような傷跡が、薄いものからつい最近できたものまで、痛々しく刻まれている。僕は堪らずそこから目をそらし、サイトウの顔に視線を転じた。そして、彼の体に残った傷のことを努めて考えないようにしながら、口を開いた。

「医者によると、あと二ヶ月は入院だってさ。せっかくの夏休みが丸つぶれだな。いや、ひょっとしたら、後期の授業に間に合わないかも……。はは、ツイてないね。」

 サイトウは相変わらずだった。この猛暑の中、汗一つかかずに地面を、というより、彼と地面の間にあるものを黙って見つめている。

 僕は語りかける。

「まぁ、でも、なんとかなりそうなんだってね。医者も看護師もみんな、絶対に良くなるって言ってたもの。」

 そう。サイトウは、僕の無二の親友は、一命をとりとめたのだ。

「……そりゃあさ、体中傷だらけで大変だろうけど、死ぬよりはマシなはずさ。僕の連絡があと少しでも遅かったら、もうお手上げだったって、医者も言ってたよ。」

 友人は微動だにしない。灰色の頬はまるで凪いでいて、青黒い唇は岩礁のごとく不動だ。しかしそれでも、彼の心臓は確かに動いているのである。

「大丈夫、大丈夫。ここの病院、設備は整ってるし、医者の腕も超一流らしいからさ。……ネットの情報なんだけどね、はは。」

 友人は何も言わない。かつての姿をかろうじて保ったまま、あるいは取り戻したまま、沈黙している。

「あー……、ここって確かに見た目は酷いし、トイレなんか特にどうしようもないけど、でも本当に、医療サービスで右にでる病院は無いってくらい、質は良いんだって。ほら、ラーメンの隠れた名店みたいな。はは、外装は汚いけど超ウマいラーメンを出すみたいな、あはは。」

 本当に死体みたいだな。そう思うと、僕の言葉はとうとう詰まり、自覚できるほど笑顔が引きつった。だが、サイトウは確かに生きている。僕は、死体に話しかけるなどという、とんちきなお話によくある安直なオチのようなことをしているわけではないのだ。

「あっ、そうだ!僕にしてほしいことがあればすぐ言えよ?困ったこととかもね。例えば、看護師に嫌がらせされたとか。欲しいものとかも、何でもいい、あれば遠慮なく言ってくれていいから――」

 その時、僕はサイトウの頬がほんの微かに、小指で水面に触れたかのように、震えているのに気がついた。僕は言葉を紡ぐことも忘れて口を開いたまま、彼のこけた頬を凝視する。どう言えばいいか悩んでいるのか、声を発するのに難儀しているのか、彼の口からはしばらく何も聞こえてこなかった。ようやくその口が開き、空気の漏れる音が聞こえたと思った矢先のことである。

「サイトウさーん!サイトウさーん!斉藤フミヤさーん!どこですかぁ!」

 ずっと遠く、病棟の方から女性看護師の声が聞こえてきた。彼の身を案じているというより、余計な仕事にうんざりしているといった調子の声。その無遠慮な声はあまりにも大きかったので、僕らのいる中庭の長閑な情景と、手応えのない、それでいて張り詰めた静寂を滅茶苦茶に蹴散らしてもまだあまりあった。看護師の声に驚いた僕は、ついそちらの方へ首を回してしまい、急いでサイトウに視線を戻したが、頬のさざ波はすでに過ぎ去り、口は元の通りに閉ざされ、彼は何事もなかったかのように黙って座っていた。

 声はそれきり聞こえず、周りは再び静けさに埋もれた。が、それが先と同じものだとは、どうしても思えなかった。あの女の声のせいか?分からない。いくらポケットを探っても家の鍵が見つからないときのような、あのぼんやりとした焦りが、過ちを犯してしまったかもしれないという恐れが、僕の目の前を霧のように漂いつつあった。サイトウはもう口を開かない。彼は深く傷つき、変わってしまったのだ。

 ――僕の行いは正しかったのか?どういう理由があったとしても、どういう経緯だったとしても、彼を無理矢理この病院に押し込んだのは、間違いじゃなかったのか?


 十分ほど経っただろうか、太陽に焦がされたかのように深い茶色をした木々の間から、看護師の姿が見えた。僕が彼女を発見するのと同時に向こうもこちらに気づいたのか、安堵と驚愕の中間にあるような声を出しながら、中庭に近づいてきた。両手で車椅子を押しているせいで、その歩調は遅い。彼女が歩くごとに、車椅子がキィキィと鳴いている。その音はまるで油を差し忘れた古い機械のようで、僕は一瞬だけ、その音が彼女から発せられているのではないかと錯覚した。

「もぉう、心配したんですからね。ミササギさん、患者さんを勝手に連れ出しちゃダメでしょ!」

 看護師は中庭に入るや否や、あの中年女性特有の馴れ馴れしく甲高い声でそう言った。

「はは、すみません。気分転換になるかなって思って。」

「だとしても、ちゃんと許可を取ってもらわないと。ビックリしたんですからね。お薬の時間に斉藤さんの姿が見えないんですから。」看護師は咎めるような調子で言った。

「……すみません。」

「あらもう、歩きでここまで連れてきたんですか?まだ車椅子が必要なのに……」

 看護師はサイトウの腋に手を入れ、あの中年女性特有の怪力で、彼の体を立ち上がらせた。僕にはその動作が事務的で作業的で機械的で、ひどく乱暴に見えた。手慣れたある種の仕事人が仕事道具を、愛着ゆえであれど、雑に扱うように。あるいは、いわゆる訓練された店員が客を人間だと見なさなくなるように。

「あの!サイトウはちゃんとよくなるんですよね?」僕は思わず強く尋ねた。

「へ?ええ、もちろん。」看護師は呆けたような顔をしてから、自然な様子でうなずいた。

「本当に、昔と同じように、元に戻るんですよね?」

 看護師はそれに対しては何も言わず、ただあきれたように曖昧に笑った後、

「斉藤さん、よかったですね。こんなに心配してくれる友達がいて。」と、車椅子に座ったサイトウの肩を軽く叩きながら言った。

 小さな四つの輪が滑り出し、車椅子は、キィ、キィ、とくたびれた老人のような細い声を漏らす。サイトウはその上で、固く座らされて為すがままになっている。僕はただ、その場で彼の背を見送ることしかできなかった。

 人の生を感じないこの中庭には、今やただ一人、僕だけだった。昼を越した太陽は何も言わず、ただ僕の背をじっと見つめている。そのまなざしは、僕を咎めているわけではなかった。かといって、慰めているわけでもなかった。ただ無邪気に熱をまき散らしているだけだった。

 僕の思考が、次第にだらりとぼんやりしていく一方で、僕の焦りは、より鮮明により鋭く、止めどなく募っていく。

 気がつくと、今まで静まりかえっていたはずのセミが、僕の鼓膜をも突き破らんばかりに、わめきたてていた。憂鬱で、やけっぱちで、神経質で、死に物狂いな鳴き声だった。それらの声は、僕自身の焦りが肥大するにつれて、ますます激しく自傷的になっているように、僕には感ぜられたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ