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北苑中学校シリーズ

月長石(ムーンストーン)はベッドで毒の夢を見る 

作者: 藤沢みや

>>本文内でいじめについての描写がありますこと、あらかじめご了承下さい。

管理人はいじめをされる側に問題があると言う無神経な人が心底苦手です。






 きっかけは些細なことだった。

 たぶん。

 だって、あたしは、なにがきっかけで『それ』が始まったのか正確にはわかっていないから。

 きっとつまらないこと。

 他人が聞けば、そんなことで始まったの? と首を傾げるような、そんなことなんだと思う。

 クラスの中で誰とも話せない。

 話しかけても、あたしには話が戻ってこない。声をかけてみる、するとその子はあたしが振った話題を隣の子と話し出す。混ざれるだろうかと待ってみるけれど、決して戻ってこない。広い広いグラウンドに、黄色のテニスボールをただ放り投げるようなそんな感じ。

 みんな、ニコニコしてる。

 毎日、楽しそうに笑ってる。

 新しくできたタルトのお店の話。可愛い雑貨屋に入った新商品。テレビCMの男の子がカッコいい。そんな日常会話が全部、あたしの頭の上を通り過ぎていく。

 笑顔の波の中で、笑えないあたし。

 一日のうち、話す言葉なんて「おはよう」「さよなら」たったの八文字。大きな独り言。

 移動教室の時、親切のつもりで書いた黒板の文字。昼の掃除が終わっても誰も消してくれない。それを隅でかたまってくすくす笑い合う悪意の塊。

 耳につく、下卑た笑い声。

 まるで口の端が捻じ曲がっているような厭な笑み。

 悪意の底で埋もれてしまいそう。

 なにかを言えば、諸悪の根源に「山野さんはあたしのこと嫌いなんだから、同じ班なんて嫌なんじゃないのぉ」と粘着質に返される。

「あたし」が「あなた」を「嫌いだから」という理由で、諸悪の根源を恐れているクラスメイトの誰からも回されない先生からの伝言。移動教室変更。部活の集合場所。掃除区域の変更。

 隣のクラスの子に言伝を頼まれたからメモを書いて悪意の根源の机に置いておいた。それは、次の日も次の日も、さらに次の日も後ろの黒板の前にホッタラカシ。

 一度見て、後ろにポイ。

 そのまま、誰も知らない振り。

 見捨てられたメモ。

 見えないあたし。

 存在を消去された、山野更紗という人間。

 あたしはその見捨てられたメモを、自分でクシャリと握りつぶして捨てた。












 ケータイを見て唇を噛み締める。

 小さな液晶の画面には溢れるような悪意の渦。






市ね詩ね氏ね士ね誌ね師ね史ね詞ね資ね紙ね子ね志ね歯ね梓ね私ね刺ね市ね詩ね氏ね士ね誌ね師ね史ね詞ね資ね紙ね子ね志ね歯ね梓ね私ね刺ね市ね詩ね氏ね士ね誌ね師ね史ね詞ね資ね紙ね子ね志ね歯ね梓ね私ね刺ね市ね詩ね氏ね士ね誌ね師ね史ね詞ね資ね紙ね子ね志ね歯ね梓ね私ね刺ね市ね詩ね氏ね士ね誌ね師ね史ね詞ね資ね紙ね子ね志ね歯ね梓ね私ね刺ね市ね詩ね氏ね士ね






 音が出ないようにケータイを静かに閉じて、お腹を押さえる。

 お腹が痛い。ずっと痛い。

 中二になってからずっとお腹の調子がおかしい。

 お腹が痛くないのは学校がない日曜日だけ。

「‥‥‥」

 溜息を吐きたいけど声にもならない。

 なんだかすりおろし器ですりおろされて、ぼこぼこになっていく大根になっている気分。

 見上げた先には真っ白な建物。

 ――― お兄ちゃんに頼ってどうするのよ‥‥‥

 あたしには兄がいる。一応。

 一応というにはわけがある。兄は小さな頃から難しい病気を患っていて、自宅に帰ってきたことがないのだ。ずっと、病院で暮らしている。

 食事を一緒に採ったことも、一緒のお布団で寝たことも、出かけたこともない。そんな兄がいる。

 山野瑞希。

 兄なのに、クラスメイトよりも話したことのないヒト。

 ケータイの電源を切ると、ゆらりと立ち上がった。

 そして、真っ白な塊に足を踏み出す。

 真っ黒な靴で、真っ白な階段を一歩。一歩。

 見上げて息を吐き出し、また一歩。

 数段上がってから振り返り、自分が来た道を見下ろす。

 ここから、転がっても軽い怪我しかできないだろう。

 また、一歩。

 足を踏み出すたびに周囲を見渡す。

 真っ白な建物に入って階段で七階を目指す。西翼の七階。一番奥のリネン室の隣の病室。

 エレベータを使わずに、階段で上がる。

 一歩、一歩。

 少し進むたびに振り返る。見下ろす。

 階段の上から覗く地上。

 この細い隙間を上手に落下すれば、楽になれるのだろうか。

 また一歩。

 あたしが、ギリシャ神話のオルペウスだったら、大切なヒトを冥界から救うことができない‥‥‥でも、そんな大切なヒトなんていないからいいけど。

 のそのそと歩いていたって、いつかは目的の場所に着くものらしい。

 目の前には病室703。

 兄が住まう、小さな頃からの仮の宿。

 音もなく、静かに扉がスライドする。

 中をそうっと覗くと、ベッドの上に片膝を立てて座る少年の姿。

 兄なのに、下手したら弟に見える体躯。

 切れ長の瞳が開いた扉を捉えて、ほんの少し、見開かれた。

「更紗。久しぶり」

 小さく片手を上げて兄が笑う。

 こんな狭い病室に閉じ込められて、薬や点滴、注射ばかりの毎日を送っている兄が笑っていて、外にいて好きなものを好きな時に食べて、寝たい時に寝て、見たいテレビを自由に見て、学校で勉強できるあたしが笑えない。

 なんて不自然。

「‥‥‥更紗。どうしたの?」

 母が不思議そうに近寄ってくる。

 考えていなかった。

 兄の病室に来れば母がいるのは当然だ。なんで、その可能性を忘れていたのだろう。

 ――― 母は、難病と戦う兄のための活動で忙しい。

 母として、妻として、活動家として頑張り過ぎだと夜中に両親が言い争っている声を何度か聞いたことがある。実情を全然知らないあたしには、まるで空中に浮かぶ埃みたいにとらえどころがなくって、関係がない話題でしかなかったけれど。

「お母さん」

 としか、呼べなかった。

 お見舞いに来たなんて、白々しい。

 そんな嘘は言えない。

「更紗、頼んだもの、持って来てくれたんだ。入って。母さん、悪いんだけど下の売店でなんかジュース買ってきてくれない? 更紗はなにがいい? ミルクティーでいい?」

 にっこりと笑って兄が言う。

 そんな、頼まれごとなんてされていない。そう言い返そうとするあたしに向かって、兄が片目を不器用に瞑る。

 そんなあたしたち兄妹を見て母は「じゃあ、買ってくるわ。瑞希はコーヒーでいいのよね」と確認してからあたふたと売店に出かけていった。

 ぱたぱたとサンダルの音が遠ざかる。

 あたしは閉じられた扉をそのまま見つめ続けた。

「更紗、座ったら?」

 兄が声をかけてくる。

 まだ、声変わりをしていない兄の声はとても澄んでいる。

 陽にあたっていない肌は病院の建物と同じように白くて、ちょっと気味が悪い。でも、髪の毛と瞳は真っ黒。その、真っ黒で射抜くような力を持った双眸があたしを見つめている。

 野生の獣に睨まれるような居心地の悪さをなんだか感じて、あたしはふいっと顔を逸らして「ありがと」と小さく呟く。そしてパイプ椅子に座った。

 座面が固いパイプ椅子はギシギシと嫌な音を立てた。

 椅子に座っても、声が出ない。

 話すことができない。

 話せない。

 だって、ここまで来たはいいけど、ずっと小さな頃から難病で苦しんでいる人に、クラスの子にいじめられて辛いだなんて、そんなこと‥‥‥言っていいのだろうか。

 そんなの甘えてるって突き放されたら、あたしはどうしたらいいのかわからない。

 あたしは考えなしだ。

 なんで、兄に頼ろうなんて思ったんだろう。

 それしか解決策が浮かばなかった。

 あたしより苦しんでいる人に、あたしの悩みなんて、相談しても迷惑なんじゃないだろうか。

 どうして、来たんだろう。

 なんで、扉を開いてしまったんだろう。

 何故、あたしは、ここにいるんだろう。

「眉間にシワ」

 短い言葉にあたしは顔を上げた。

 兄が、眉間を指差して微笑んだ。

 その笑顔に泣きたくなる。

 あたしに、笑顔で話しかけてくれる人がいる。それが嬉しい。そして、やるせなくなる。

 だって、よく言うじゃない。いじめられるほうだって悪いところがあるって。

 そんな、悪いところがあるあたしが、病気と懸命に戦っている兄にこれ以上迷惑をかけていいんだろうか?

「母さんが、戻ってくるまで十分くらいしかない‥‥‥場所を変えて話をゆっくり聞いてあげたいんだけど、ボクはこの部屋から動けない」

 兄の言葉に瞳を瞬かせる。

「眉間のシワ。おどおどした目線。挙動不審な体。話しかけたそうに開かれて、でも閉ざされる唇。これだけ揃っているのに話したいことがないとは思えないよな」

 にっと笑うと、兄は机の上のメモ帳とペンを手に取った。さらさらとなにかを書き付けて、近くにあるセロハンテープを切り取って今書いたばかりのメモに貼り付ける。

「これ、扉に貼っておいて」

 渡されたメモには『お母さんへ 更紗とナイショ話をするので一時間ほど席を外してください 瑞希』と書かれていた。

 のそりと立ち上がって扉に向かい、真っ白な扉に可愛いサル柄のメモ帳を貼り付けた。

 そして、さっきまで座っていたパイプ椅子に戻る。

 でも、戻っても、なんて話し出していいのかがわからない。

 気まずい。

 ぎゅっと、スカートを握り締める。

「兄妹っていっても、更紗と話したのってそんなにないよな‥‥‥ボクはいつも人に頼ってばかりで頼られるのって初めてだから、不謹慎かもしれないけど‥‥‥だいぶ嬉しい」

 兄の言葉に顔を上げると、そこには微苦笑を浮かべる少年の姿があった。

 細くて、薄い体を空色のパジャマで覆い、片膝を両手で包み込むようにしている。

「ホントのところを言うと‥‥‥更紗には、いつも申し訳ないって思っていたんだ。母さんも父さんもボクのことばかりで、更紗のことをきちんと見ているのかずっと気にかかっていた」

 その、まるでいくつも年上のような言葉に更紗は息を呑む。

「入院してると、考える時間はいっぱいあるからね‥‥‥来るたびに、更紗の空気が薄くなってて、怖かったよ」

 空気が薄い。

 その言葉に息が止まりそうになる。

 そう、自分でも自分がどんどん薄まっている気がしていた。

 酸素だったらまだいい。

 だって、必要とされるから。酸素がなければ人間は生きていけない。

 でも、あのクラスの中であたしは空気の中でも酸素以下。



 窒素、アルゴン、二酸化炭素。そんなにもない。ネオン、ヘリウム、クリプトン、水素、キセノン。

 まるで呪文。



「更紗、ここにおいで」

 兄が‥‥‥ぽんぽんとベッドの端を叩く。

 ふらりと立ち上がって、その場所に座った。



 酸素、窒素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、クリプトン、水素、キセノン。



 座ったあたしの隣に兄が座る。

 隣に並んで座るあたしたち。

 こんなことも、あたしたちには初めてだった。

 なでなでと子供にするみたいに頭を撫でられる。

 それが、見えないスイッチだった。

 今まで堰き止めていた涙が、両側から溢れ出した。

 涙と一緒に嗚咽が零れる。

 声が我慢できない。

 ただもう、壊れた機械みたいに泣きじゃくることしかできなかった。

 ぐーにした手の甲と平で何度も涙を拭うけど、そんなことじゃこの洪水はおさまらなくて、しょっぱい水がどんどん流れ出る。

 まるで呪文のような、空気の中の微量の成分。それよりも希薄なあたしという存在。

 それが悲しくて怖くて、辛くて‥‥‥でも、誰にも言えなくて。

 クラスの子達は笑ってる。

 あたしなんかがいなくても笑ってる。

 お母さんは忙しそう。

 あたしが朝、起きて学校に行けばそれで満足そう。

 お父さんも忙しそう。

 最近は会社も不夜城じゃなくなってきたとは苦笑しながら言っていたけれど、お兄ちゃんの入院代を稼ぐために必死で残業してる。

 言える人がいなくて。言いたい人は忙しそうで。あたしなんかのために時間を奪ったらごめんなさいという気分になってしまう。

 言えなくて、言わなくて、内に篭って、小さくなって。

 縮んでいって、しぼんでいって、体の中の元気というパワーがどんどん減って、あたしが揺らぐ。

 固形がゲル状になってゾル状になって、そして液体状になって、きっと気体になって空気に溶け込んで消えてしまう。

 そんなふうに、あたしは気体になっちゃう直前だった。溶けて消えてしまう。

 でも、今のあたしは気体なんかじゃない。

 だって、涙っていう液体が溢れてくるんだから‥‥‥

 泣きながら、あたしは思った。

 兄の手のひらを肩や背中や頭に感じながら思った。

 そうだ。

 あたしは、泣きたかったんだ。



















 ケータイを見つめて兄は溜息を吐いた。

 心底、呆れたという感じ。

「ひーふーみーやーいつーむー」

 まるで呪文のように呟くのは数を数える言葉。

「死ねを十六回別の漢字にして、コピぺで四回か五回? 暇人だな‥‥‥そんなことしてる時間があったら自分の将来のために勉強しろっつの」

 兄が言うと重みが違う。

 将来。

 それはずっと先の未来。

「考えてみたらアホだよな、十六回もちまちま変換して、この漢字使ってないよな、とか確認しながら打ってコピペしてる姿って」

 確かに言われてみればそうかもしれない。

 なんとか笑顔を浮かべてみせるけど、久しぶり過ぎて笑っている実感がない。

 笑うって、どうやってやるんだっけ。

 人が笑っている姿、嗤っている顔は思い出せるけど、自分が笑うのってどうするんだろう。わからない。

「社会人が、会社で更紗と同じ目にあったら『モラル・ハラスメント』って言うんだ。モラハラ。セクハラと一緒で犯罪。訴えることができる。知ってた?」

 質問に首をただ横にふるふると振る。

 モラル・ハラスメント。

 いじめというよりも、なんだかしっくり来る。

「頭の悪い大人の中には、いじめられたり、モラハラされる側にも悪いところがあるって言うけど、する奴がアホでバカで想像力皆無で、自分が狭量だって宣言していて、頭が悪いって公表してるんであって、される側はなんにも悪くない。百歩どころか一万歩譲って、もしも、本当にされる側にも悪いところがあるんだとしたら、それはきちんと人間の言葉で『あなたのこういうところは悪いから、直したほうがいいよ』ってアドバイスするのが人並みの対応ってヤツじゃないのか!?」

 兄が握り拳をぎゅぎゅっと握って力強く言う。

「だいたい、ちょっと考えればそういうことされて嬉しい人なんているわけないってわかるだろう? 自分がされたら激怒して責め立てる癖に、他人には平気で、しかも笑いながらそういうことをするんだ。思いやりって感情を知らない最低な奴らは」

 ‥‥‥兄の身に、なにかあったのだろうか。

 吐き出される言葉に実感が篭っている気がする。

「‥‥‥母さんが、そういう人間に囲まれて笑われていたことがあるの、更紗は知らないだろう?」

 白い壁を見て、兄が呟く。

「ボクがちょっとわがまま言うと‥‥‥病気だからって甘やかしてってブツブツ。文句言われるよりは‥‥‥って思っておとなしくしていると、やっぱり病気だから瑞希ちゃんは気が弱いのねってブツブツ。母さんがドナー登録の活動に熱心になると病気で苦しんでいる自分の子供を放っておいて他人の子供の心配かってブツブツ。アホばっかりだ。母さんが、家事に育児にボクの看病にボランティアにって懸命に動いているのを見てるくせに、助けることも見守ることもしないで文句だけ言って自分は理解者だってツラする大人なんて、本当に最低最悪、燃えないゴミより質の悪い汚臭のする生ゴミだ」

 その言葉に、更紗は涙がまた溢れ出す。

 知らなかった。

 母さんがそんなことを言われて苦しんでいるなんて。

 知らなかった。

 あたしは全然、お母さんの様子に気付くことができなかった。

 声にならない嗚咽で息が苦しい。

 小さくノックされて、扉が細く開かれる。

「ねえ、もう入ってもいい?」

 あたしの背中を兄が押した。

 それに押されて、あたしはお母さんに駆け寄って抱きつく。

 そして泣きじゃくる。

 温かくて、やわらかくて、いい匂いがする体にこんなふうに縋りつくのは年単位で久しぶりで、それにまた涙が溢れてくる。

 今日だけで数年分の涙を消費したみたいだ。なんだか疲れてきた。

「更紗‥‥‥?」

 母が心配そうに覗き込んでくる。

「母さん、今からショップに大急ぎで行って更紗のケータイを解約してきて」

「え?」

 兄の言葉に母はあたしを抱きしめたまま小首を傾げた。

 きゅっと抱きしめる力が強くなる。

「端的に言うけどね、更紗は学校でいじめにあってる。ケータイは解約。それからしばらくの間は学校も休ませて、ここに来させて」

 黒豹のような射抜く瞳が母を見上げる。

 有無を言わせない雰囲気のある口調。

「え!? い、いじめ!? 更紗が? ‥‥‥えええぇっ」

 プチパニック。

 混乱してる。

 ちょっと端的に言い過ぎじゃないだろうか。

「はい」

 手渡される、あたしのピンクの携帯。

「あ、アドレスとか‥‥‥」

「いらない。というか、取らなくていい」

 兄はきっぱりと言う。

「クラスで見てみぬ振りをして、お前を見捨てるような人間はこちらから縁を保つ必要はない」

「‥‥‥うん」

「母さんは、ゼッタイに中を見ないように。見ても気分が悪くなるだけで損だから。目標のない暇人が、遊び半分で書き殴った頭の悪いメール文なんかに人生の大切な時間を消費する必要はこれっぽっちもない!」

「え‥‥‥ええ。わかったわ」

 これでは誰が大人で、誰が子供かわからない。

「っぷ!」

 ついに笑みが零れた。

 自発的に笑うのなんて、久しぶり。

 久しぶり過ぎて感覚がわからない。

 なんでか知らないけれど、涙まで一緒に出てきた。

 あたしはくすくす笑いながら、そして泣きながら、母さんに抱きついていた。まるで大きなコアラのように。

「出席日数を考えて、あとはまだ中学生だからけっこう休んでも卒業はできるんだよな。高校は受験に影響が出るかもしれないけれど別に無理してお受験しなくても通信教育で良い大学に入れるし、卒業しちゃえば通信だろうが通学だろうが同じ大学だしね」

 ‥‥‥先のことまで考え過ぎじゃないだろうか。

「頭の悪い連中のために人生がおかしくなったって思っても仕方ないし、アホは死んでも治らないから、心優しいボクたちが慮ってあげないとね。まあ、嘆くのはそのうち飽きるから、どうせ時間を使うなら楽しいことを考えたほうがいいよ」

 にっこりと、真っ白な天使のような笑顔。

 でも、あたしには兄の毒舌ぶりに翻弄されて、見た目の清らかな笑顔がシンジラレナイ。

 ずっと幼い頃から入院していて、病気に苦しんで、それを懸命に堪えて‥‥‥なんというかそんな綺麗でやさしいイメージだった兄。

 宝石とか輝石とか貴石で例えるならムーンストーン。

 そんなやわらかな雰囲気だと思っていたのに。

「とりあえず、解約してから、それから作戦を練ろう! ただ、休むだけじゃもったいないからね。本来だったらその頭のネジの足らない奴らに仕返しのひとつでもしてやりたいんだが‥‥‥なかなか難しいだろうし」

 ううむ。と言いながら顎を撫でている。

「もう、瑞希ったらまた‥‥‥」

 また?

 母の言葉に更紗は顔を上げた。

「‥‥‥また?」

「あの子ったら、口だけじゃなくて本当に実践するんだから‥‥‥前なんて、駅前のおばさんが私の活動を批判するのを逆手に取って『母さんの心配をしてくださるなんて、おばさんはなんておやさしい』とか大げさに持ち上げるだけ持ち上げ、口先だけで丸め込んで、結局協力者まで紹介するような流れに無理矢理持ち込んじゃったのよ」

 母が困ったように苦笑する。

 あの、マシンガントークの上にねちねちした駅前のおばさんを口先だけで丸め込んだのか‥‥‥

 凄過ぎる。

「ほら、母さん。そろそろ行かないとショップが閉まっちゃう」

「でも、明日でもいいでしょう?」

「ダメダメ! 善は急げって言うでしょう。それに今日は大安なんだから、ゼッタイに今日がいい」

 大安。

 兄の言葉に、あたしとお母さんはまた吹き出した。

 今時、大安とか仏滅を気にする十代ってそうそういない。

 あたしは目を細めてベッドの上の兄を見る。空色のパジャマのやわらかな雰囲気。

 見た目はやさしい姿形をしたあたしの兄は、明日もベッドの上で毒舌を披露してくれるのだろう。

 ――― その温かい毒に侵食されて、お腹が痛いのがなくなったような気がする。















>>瑞希の言葉は私の思いの丈です。

あなたはちっとも悪くない。悪いのは、言葉を知っているのにその使い方を誤る人たちなのです。

大人か子供かなんて関係がありません。大人でも平然と他人を虐げる人はたくさんいるのです。

そんな情けない人たちに左右されるなんて、あなたの時間がもったいないです。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ひどい話ですね。 そして、良い話ですね。 内容の重さにも拘わらず読みやすかったです。 興味深く読ませていただきました。
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