第11話
ガラスが割れた音を聞き、気配を殺して1階へと様子を見に行く2人。
不気味な息遣いが聞こえてきたのは、先程まで2人が寛いでいたリビングからであった。
リボルバーを握りしめ、入口から顔を少しだけ出して、中の様子を確認する結衣。
既に2体のイリシオスが侵入しており、丁度今、割られた窓からもう1体が侵入した所であった。
「(マズいね…。一旦2階に避難するか…それとも玄関から飛び出して、奴等と鬼ごっこを始めるか…)」
その時、玄関の扉の曇りガラスの部分に、人の形をした影が横切ったのが見えた。
それを見ていた結衣は、自分の背後に居る梨沙に顔を向けて、何も言わずに階段を指差す。
「(袋の鼠…ってね)」
結衣は苦笑を浮かべ、足音を殺して2階へと戻っていった。
「どうしたもんか…。2階に居ても奴等に見つかるのは時間の問題…」
2階のベランダがある部屋に逃げ込み、小さな声でそう呟く結衣。
「1体ならまだしも、辺りの奴等を全員となったら、間違いなく返り討ちでしょうね…」
窓の元へ行き、辺りを彷徨いているイリシオス達を見て溜め息をつく梨沙。
梨沙の言葉に、結衣はリボルバーに銃弾が装填されている事を確認しながら、こう答えた。
「戦うつもりはさらさらないよ。もしも見つかったら、死に物狂いで逃げる方が良いと思う」
「流石の結衣さんでも、奴等とはやり合う気になれませんか?」
「まーね。流石の結衣さんでも、頭にリボルバーぶっ放して死なないような奴等は相手にしたくないね」
「ごもっとも」
その時、部屋の外から、床が軋むような音が聞こえてくる。
同時に部屋の入口に顔を向け、耳を澄ます2人。
その音は徐々に近くなってきて、この部屋に何かが近付いてきているという事が嫌でもわかった。
「(空耳…ってワケでは無さそうだね…。できる事ならそうであってほしいんだけど…)」
ゆっくりと、入口に向けてリボルバーを構える結衣。
梨沙もそれに倣って、腰元の鞘からナイフを抜く。
部屋の入口の扉の前で、床が軋むような音はピタッと止まった。
そしてしばらくの間、自分の耳が聞こえなくなったのかと思ってしまう程の静寂が訪れる。
微動だにせずに、扉を見つめる2人。
今、扉の向こうに何かが居る。
2人は確信を持って、扉が開けられる事をじっと待つ。
しかし次の瞬間、敵は2人が微塵も警戒していなかった方向から現れた。
2人の背後にあるベランダへ出る為のガラス扉が、突然けたたましい音と共に割れる。
素早く振り返った2人が見たのは、破壊した扉のガラス片を気にもせずに踏みつけながら部屋に侵入してきた、2体のイリシオスであった。
「ゆ、結衣さん…!」
不意を突かれた突然の襲撃に、思わず狼狽してしまう梨沙。
そんな一方、結衣は慌てる事なく、冷静に素早く状況を判断した。
「(さっきの足音、あれは多分別の個体のもんだ。つまり、今はまだ姿を見せてないけど、すぐに背後の扉からももう1体出てくるハズ。となりゃ、悠長にこいつらと遊んでる暇は無いってワケだね。上手くこの2体を避けて、ベランダから外に出るとしますか…)」
考えが纏まった結衣は、顔を正面に居るイリシオスに向けたまま、隣に居る梨沙に話し掛ける。
「梨沙ちゃん。まずはこいつらを上手く避けて、ベランダに出るよ」
「上手く避けてって…そんなの…」
「来るよッ…!」
梨沙が言葉を言い切る前に、2体のイリシオスはそれぞれ2人に飛び掛かった。
結衣は身体を少しずらしてイリシオスの攻撃を回避し、素早く腕を取って背後に回り込み、間接を決めると同時に押し倒す。
梨沙は少し反応が遅れたものの、掴まれる寸前でサイドステップをして回避し、辛うじて危機を切り抜ける。
梨沙はそのまますぐにベランダへ、結衣はついでとばかりに押し倒したイリシオスの腕を折ってから、その場を後にした。
ベランダに出た2人はすぐに手すりを飛び越えて、1階部分の屋根に降り、その上を移動して別の家へと飛び移る。
その時に、家の周辺を彷徨いていたイリシオス達が2人の姿を視界に捉え、仲間に知らせる為の雄叫びを上げた。
ひとまず別の家の屋根に逃げる事ができた2人は、そこで一度立ち止まって様子を見る。
「どんどん集まってきてますね…。大丈夫かな…」
「正直言やぁ、まともに鬼ごっこしてたら持たないね。どうにかして撒いちまいたい所だけど…」
そう言って、何か良い方法が無いか辺りを見回す結衣。
しかし、先程まで2人が居た家の近くに居たイリシオスが、恐ろしいスピードでこちらに向かってきている光景を見て、2人はその場からの移動を強制させられる事となった。
「何よあの速さは…」
垂直の壁をよじ登り、傾斜が大きい屋根を駆け抜ける、地形をものともしない圧倒的な移動能力に、思わず苦笑を浮かべてしまう梨沙。
「奴等の意表を突くような移動ルートを選んで逃げないと、捕まるのは多分あっという間だ。梨沙ちゃん、しっかりついてきなよ?」
結衣はそう言い、屋根から飛び降りて、下にあった乗用車の上に着地する。
「…言われなくても、死ぬ気でついていきますよ」
結衣に聞こえない事はわかっていながらもそう呟き、梨沙は結衣と同じように屋根から飛び降りた。
着地した車の元から離れ、開けた通りに出た2人。
一息つく間もなく、2人を挟み込むように前方と後方から複数のイリシオスが現れる。
それとほぼ同時に、2人が先程まで居た屋根の上にも姿を現した。
「早速囲まれちゃったかぁ…」
「随分と余裕があるように見えますけど…何か策があるんですか?」
「無いよ?」
「は?」
「昔の人は言いました。窮すれば通ずってね」
「要するに行き当たりばったり…って事ですね」
「そーとも言う」
結衣は近くの建物に目をつけ、そこに向かって走り出す。
そしてリボルバーを取り出し、建物の裏口の扉のドアノブを狙い、引き金を引いた。
「梨沙ちゃん。家具の物色は好きかい?」
すぐに追い付いた梨沙に、結衣がリボルバーをしまいながらそう訊く。
「家具?…あぁ、この建物家具屋なんですか?」
「多分ね。お値段異常な感じの」
「え?」
「いや何でもない。行くよ!」
扉を開け、建物の中に入る結衣。
続けて梨沙も入り、すぐに扉の鍵を掛けて追手の追跡を断ちきる。
しかし、追い付いたイリシオスが扉に体当たりをし始め、梨沙は長くは持たないという事を悟った。
「(ま、しばらくの足止めにはなるか…)」
先に進んだ結衣を追い、薄暗い業務用通路を走り抜ける。
しばらく進んだ所に十字路があり、結衣はそこで立ち止まっていた。
梨沙が追い付いた事に気付き、結衣は3つの道を交互に見ながら訊く。
「どの道が正解かな?」
「正解?」
「行き止まりだったら一貫の終わりだからね。ここは慎重に…」
結衣が話し終える前に、後方から扉が破られた音が聞こえてきた。
「…選んでる暇は無さそうだね。よし、とりあえず真っ直ぐだ!」
「待ってください」
今まさに走り出そうとしていた結衣を呼び止め、頭上を指差す梨沙。
そこには看板があり、結衣が選んだ正面の道は倉庫に辿り着くという事が記されていた。
「おぉ…こいつは危ねぇ危ねぇ…。つーか気付けよ私」
「売り場は右の道ですね。急ぎましょう」
「らじゃー」
十字路を右に進んでいくと、正面に銀色のスイングドアが見えた。
走っているまま体当たりでドアを開け、辺りを見回す。
1階の売り場には、棚やベッドなどの大きな家具が通路毎に並べられていた。
「外で逃げ続けるのは無理があるよな…。どっかに隠れるか…」
「これだけ物があれば、それも可能ですね」
身を隠す為の場所を探し始める2人。
しかし、2人が良いと思われる場所を見つける前に、イリシオス達が追い付いた。
2人はその場から離れながら会話をする。
「呑気に隠れ場所探してる場合じゃなさそーだね…。外に行くのは気が引けるし、上に行こうか」
「上?」
「私の記憶が正しければ、この建物に別の建物が隣接してたハズ。同じくらいの高さのね」
「…飛び移る気ですか?」
「おや、もしかして怖いの?」
「だ、大丈夫ですよ…。怖くなんてありませんから」
「ふふ…。その言葉を信じるよ」
非常階段を見つけ、無機質な灰色のその階段を駆け上がる2人。
イリシオスの奇声は徐々に近くなってきており、余裕が無くなってきている事を2人は嫌でも知ってしまう。
追い付かれる寸前で2階に到着して非常扉を開けたのと同時に、結衣がリボルバーで追手の2体の頭を撃ち抜く。
絶命には至らないものの、頭を吹っ飛ばされたイリシオスは転倒する。
その隙に梨沙が扉を勢い良く閉め、後続の個体の進路を一時的に遮り、2人はすぐにその場から離れた。
「階段はあそこだけ…どうしたもんかねぇ…」
「エレベーターは使えませんかね?」
閉めた扉を警戒しながら、すぐ側にあるエレベーターに視線を送る梨沙。
「エレベーターか…。照明が生きてるから使えるかも。試してみますか」
扉にリボルバーを構えたまま、エレベーターのボタンを押す結衣。
すると、頭上にある階数を知らせるランプが点灯し、エレベーターが下から登ってきている事を2人に知らせた。
同時に扉が破られ、2体のイリシオスが姿を現す。
「しょうがねぇ…エレベーターが来るまで遊んでやるとしますか…」
「大丈夫…ですかね…」
「大丈夫だよ。今の所は2体だけだし。他の奴等が追い付いたら面倒だけど」
襲い掛かってくるイリシオス。
結衣はリボルバーで頭を撃ち抜き、梨沙は突進を避けて首にナイフを突き刺して蹴り飛ばし、すぐに距離を離す。
通常のゾンビなどでは立ち上がる事ができない程の致命傷ではあるものの、イリシオスはものともせずに立ち上がる。
再び襲い掛かってきたが、結衣はイリシオスの突進を避けて頭を掴んで壁に叩き付け、梨沙は掴み掛かられる寸前に喉元にナイフを突き刺し、一瞬だけ見せた隙を見逃さずに足を払って転倒させる。
そこでエレベーターが到着し、扉が開いた。
「梨沙ちゃん!行くよ!」
「はい!」
イリシオスが再び立ち上がる前にエレベーターへと向かい、中に入って急いで屋上へのスイッチを押す。
扉が閉まっていくが、同時にイリシオスが立ち上がってエレベーターに飛び付くように接近する。
しかし、結衣が素早く2体の頭を正確に撃ち抜き、イリシオスはエレベーターに辿り着く事なく吹っ飛ぶ。
扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと上がり始めた。
「やれやれ…一息つけそうだね」
リボルバーのシリンダーに銃弾を込めながら、結衣が呟く。
しばらくは何事もなく動いていたが、屋上に到着する寸前で、突然エレベーターがぐらりと揺れる。
「な、なんだ…?」
止まってしまったエレベーター。
駆動音が止まり、その場に静寂が訪れる。
「ちっ…どうなってんだい…」
苛立ち、扉をどんと叩く結衣。
「結衣さん…下から何か来ます…」
「え?」
梨沙の言葉を聞き、結衣は耳を澄ます。
すると、エレベーターの真下から、イリシオスの声が聞こえてきた。
そしてそれは、徐々に近付いてきている。
「まさか…登ってきてんの…?」
「扉をこじ開け、ワイヤーロープを伝って登ってくる…奴等ならやりかねませんね」
梨沙がそう言ったと同時に、地面が強い力で叩かれた。
「そんな奴等なら、床に穴開けて入ってくる事ぐらい容易いね…。その前に逃げちゃいましょうか」
「逃げるって…どこに?」
「ふふ…。1回、やってみたかったんだよねぇ」
結衣はそう言って、エレベーターの天井の隅にある、一ヶ所だけ少し色が違う部分を指差した。
「…映画みたいですね」
「閉じ込められた時の定番だ。行くよ」
リボルバーを取り出し、色が違うその部分の四隅を撃って破壊して穴を開ける。
「よし。私の身体を踏み台にする権利を授けよう」
穴の下に立って両手を前に出すように組み、そこに足を掛けろと指示する結衣。
「そういう事なら、ちょっと失礼しますね」
「キミがスカートじゃない事が本当に残念だよ」
「何言ってるんですか…」
結衣の手に足を掛け、勢い付けて一気によじ登る梨沙。
そして、上から結衣に手を差し伸べる。
「どうぞ」
「ありがとさん」
ジャンプをしてその手を掴み、梨沙に引き上げられるような形で登り、結衣もエレベーターから脱出した。
「さて、ここからが本番だ。いけるかい?」
遥か上まで続いているワイヤーロープを指差し、結衣は梨沙にそう訊く。
「余裕ですよ。屋上まであと少しですからね」
「そいつは頼もしいね」
上機嫌に笑ってそう言い、ワイヤーロープに飛び付いてよじ登り始める結衣。
結衣がある程度登った所で、エレベーターの床が破られ、2体のイリシオスが侵入してきた。
「ゆっくり登ってる暇は無さそうだね…。梨沙ちゃん、ちょっと急ごう」
「了解です」
梨沙もワイヤーロープに飛び付き、結衣の後を追い掛けるように登り始める。
2人はかなり早いペースで登っていったが、イリシオスのスピードはそれを優に上回っていた。
「結衣さん!このままじゃ追い付かれます!」
「ちぇ…。やっぱこうなるか…」
結衣はそう言って、ロープを登る手を止める。
「梨沙ちゃん。私の足でも腰でも良い。掴まってて」
「え?」
「早く!」
「は、はい…!」
ロープから上に居る結衣の右足に移る梨沙。
すると結衣は、片手でロープを掴んだまま、もう片方の手でリボルバーを取り出した。
「しっかり掴まってなよ…!」
そう言って、ロープの自分が掴んでいる少し下辺りをリボルバーで撃ち抜く結衣。
結衣の身体よりも下のロープは切断され、掴んでいるイリシオスと共に落下していった。
エレベーター自体は落ちなかったものの、ロープが切れた事によってイリシオス達は登る術を失い、2人を見上げて叫び出す。
「残念だったねぇ。2人共スカートじゃないんだよ」
「さっきから何言ってるんですか…」
再びロープを登り始める2人。
「…静かになったね」
ひたすら登り、天井が近付いてきた所で、結衣がそう呟いた。
気になった2人は、真下を見てみる。
いつの間にかイリシオス達が、エレベーターシャフトの四隅に設置されている鉄骨を登ってきていた。
「こりゃマズいね…あとちょっとだってのに…!」
登るスピードを上げようとはするものの、既に疲労はかなり溜まっており、思うようには登れない。
ゴールまであと僅かといった所で、一番早く登ってきたイリシオスが2人に飛び付いた。
その個体を素早く結衣がリボルバーで撃ち抜き、空中で体勢が崩れた所で梨沙がその身体を蹴り飛ばす。
一難は逃れたものの、目視できるだけでもイリシオス達はまだ数十体は居た。
「キリがねぇ…急ごうか…!」
残り5メートル程を、一気に登る2人。
途中、何体かイリシオスが追い付いたものの、全て結衣が撃ち落とし、先程のように落下させて時間を稼ぐ。
そして、何とかゴールに辿り着く事ができた2人は、エレベーターの扉の両脇にある小さな足場に飛び移り、2人で扉をこじ開け、エレベーターシャフトから脱出した。
「はぁ…」
思わず膝から崩れ落ち、限界まで酷使した事により痙攣している腕を両手で抱き込むようにさすりながら安堵の溜め息を漏らす梨沙。
そんな彼女に、結衣は笑って手を差し伸べた。
「大丈夫かい?」
「す、すみません…。大丈夫です…」
「もうちょっとだけ頑張ろう。今の内に隣のビルに移りゃ、流石の奴等でも見失うハズだ」
「はい…」
結衣の手を取り、立ち上がる梨沙。
その際に力が抜けていたせいか、引っ張られながら立ち上がると同時に結衣の身体にもたれかかってしまう。
「おっと…こんな時に大胆だね梨沙ちゃん」
「あ…す、すみません…!ちょっと力が入らなくて…」
「………」
何故か、梨沙の身体を離そうとしない結衣。
「結衣さん…?」
不思議に思った梨沙が彼女の顔を見上げると、結衣は梨沙の顔を胸元に埋め、優しく抱き締めた。
「ゆ、結衣さん…!な、何してるんですか…!」
「…ごめんね」
「…え?」
「私のせいで、こんな大変な目に遭わせちゃって」
痙攣している梨沙の腕を見て、結衣はそう言った。
「いやあの…そう言ってくれるのは嬉しいんですけど…急いだ方が良いんじゃないですか…?」
「ふふ…。そうだね…」
梨沙の身体をそっと離し、屋上の端へ行き隣の建物を見る結衣。
梨沙は突然の結衣の抱擁に面食らい、しばらくの間ぽけっとしていたが、エレベーターの方から聞こえてきたイリシオスの叫び声で我に帰り、結衣の元へと小走りで向かった。
「結衣さ…ん…」
そして、言葉を失う。
「参ったねぇ…。私が思ってたよりも離れてやんの」
隣の建物までの間隔は、4メートル以上であった。
「フェンスのせいで助走も取れねぇ。どうしよう梨沙ちゃん」
「どうしようじゃないですよ…。一応言っておきますけど、私は世界記録並みの幅跳びの能力は持ってませんからね」
「残念ながら私も持ってなくてね。…まぁ、それでも一応手はある」
「え?」
リボルバーを取り出す結衣。
すると、彼女は向かいの建物の、1つ下の階の真正面にある縦横2メートル程の大きな窓ガラスを撃った。
命中した箇所に穴が開き、そこを中心にピシピシっと亀裂が入る。
結衣はリボルバーをしまい、横目で梨沙を見てニヤリと笑った。
「おわかりかな?」
「いえ、わかりません。わかりたくないです」
「大丈夫だって安心しろよー!自分を信じるんだ!ビリーブ!」
「…冷静に考えてください。失敗したら紛う事なく転落死ですよ?それに仮に届いたとしてガラスが割れなかったら…いや割れたって破片でズタズタに…」
梨沙が言い切る前に、エレベーターの扉を破壊したイリシオス達が2人を見つけて走ってくる。
「困りましたねぇ綾崎先生。彼等は冷静に考える時間すら与えてくれないみたいですよ?」
「………」
梨沙は憤る気持ちを必死に抑え、フェンスをよじ登った。
「にっしっし~…そう来なくっちゃ!」
それを見て結衣もフェンスを登り、片足だけを乗せてジャンプの準備をする。
隣で同じ姿勢を取りながら、梨沙が小さく口を開いた。
「結衣さん…本当にやるんですか…?」
「他にも手が無いワケじゃないよ?ただ、これが一番楽で安全なんだよん」
「安全って何ですか」
「言葉の定義なんてモンは人によるのさ。…よし、3、2、1で一緒に行こうか。その方がガラスが割れてくれる確率が少しは上がる…ハズ」
「待ってください。1の"い"で飛ぶんですか?"ち"ですか?」
「うーん…。"ち"かな?いやでも"い"で飛んだ方が踏ん切りが良い気もする」
「は、早く決めてくださいよ…。奴等、もう迫ってきてますから…」
「よし。ニュアンスで行こう」
「は?」
「さん、にー…」
「ちょ、待…」
「いち!」
背後から迫ってきていたイリシオス達の手が2人の足に触れる寸前で、2人はフェンスを蹴って向かいの建物へと飛んだ。
2人の身体は放射線を描くように、目標である窓ガラスへと斜めに落ちていく。
狙った場所にジャンプをして、銃弾によるヒビが入って脆くなっているガラスを体当たりで割り、そこへ2人揃って綺麗に転がり込む事ができたのは、彼女達の並外れた運動能力があってこそ為しえた事であった。
「いってて…。梨沙ちゃん、生きてるかい?」
「さぁ…わかりませんね…」
「そりゃ困った。とりあえず、ここから離れよう。こんだけの事したって、奴等はすぐに追い付いてきやがるハズだ」
「ですね…」
腕に付着したガラス片を痛々しい表情で取り除きながら、立ち上がろうとする梨沙。
そんな彼女に、結衣は手を差し伸べた。
「大丈夫かい?」
「………」
梨沙はその手を取らず、ムッとした表情で立ち上がる。
「…梨沙ちゃん?」
「私は心のどこかで、結衣さんに甘えてたんだと思います」
「…え?」
「どんな状況になろうとも、結衣さんが何とかしてくれる。きっと、そんな風に思っていた」
「………」
「…でもそれじゃ、結衣さんに…あなたに迷惑を掛けてしまう。余計な心配をさせてしまったり。そんなんじゃ、私はパートナーとして失格です。今一度覚悟を改めて、私はあなたと闘います」
梨沙が話を終えたと同時に、結衣は突然梨沙の頭に手を回し、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
「…ッ!」
結衣は唇を離すと、驚きと羞恥が混じった複雑な表情をしている梨沙を見て、いたずらっぽく笑いながらこう言った。
「私、キミのそういう所が好きなんだ」
「そういう…所って…?」
「バカ真面目な所だよ。見ていて気持ちが良いくらいだ」
「それで…その…キ、キス…を…?」
「ふふ…。そういう垢抜けてない所もまた良い」
「か、からかってるんですか…!?」
「あはは!そうかもね~!」
上機嫌でそう言い、歩き出す結衣。
「全く…人が真面目に話してたってのに…」
そうぼやきながら、梨沙は不機嫌そうに歩き出す。
「(いきなりは、ズルいよ…)」
赤面している顔を見られたくない梨沙は、結衣の斜め後ろを歩いて、彼女についていった。
その後、通路の途中途中に並んでいる扉とその扉に番号が書いてあるプレートが付いている事を見て、この建物がマンションである事を知った2人は、適当な部屋に身を隠す事にした。
「鍵、掛かってますよ?どうやって入るんです?」
「鍵なら持ってるよ」
「はい?」
梨沙の質問に答える前に、結衣はリボルバーを取り出してドアノブの辺りに1発銃弾を撃ち込む。
そして扉を開けて、きょとんとしている梨沙に顔を向けた。
「ほらね?」
「…ま、今更何も言いませんけど」
銃声を発した事により、先程までのイリシオス達に加えて付近を彷徨いていた個体もすぐに建物に集まったが、部屋が大量にある事が幸いし、2人は追跡を免れた。
「今度こそ一休みできるってワケだ。私はちょっと寝るとするよ」
部屋の隅に置いてある大きなソファーに倒れ込む結衣。
「大丈夫なんですか…?万が一気付かれたら…」
「大丈夫だよ。私のいびきが奴等を呼び寄せちまったら、そん時ゃ謝る」
「そりゃ結構です…。特にやる事も無いし、私も休むかな…」
「梨沙ちゃん」
「はい?」
「…襲わないでね?」
「襲わねぇよ!」
イリシオス達は通路の外を歩き回っていたが、2人が居る部屋に気付く事は無かった。
第11話 終