02
「全く、全く以て容易い事よ」
げっげっげっ…と、喉を鳴らすような不快な音をたてそれは嗤っていた。
「此方は只、少しばかりか弱い振りをすれば良い。僅かばかり憐れを装えば良い。さすれば」
ごりごり…くちゃくちゃ…
「餌共も間抜けな狩り人共も、ほうれ、この通り、残らず全て腹の底よ」
路地裏の奥。ビルに囲まれた一日中陽の当たる事の無い薄暗がり。
少女がそこに踏み込んだ時、それは食事中だった。
元は人の形をしていたであろうその塊を、彼女に見せつけるかのように、ゆっくりと、丁寧に少しずつ腹に納めていく。
それの姿は自身が言うように、成る程、か弱く、憐れに見えた。加えて、とても小さく、みすぼらしくもあった。
それは地獄の亡者、餓鬼の姿をしていた。
「何故、私に対しては無力を演じませんの?」
「必要在るまいよ。お主がいる此処は既に儂の領域。最早抵抗の術は無い」
「ああ、成る程。つまりは侮られていると言う訳ですわね」
納得がいったという様子で頷く少女。
凄惨な食事風景を目にしているというのに怯えや動揺の様子は見られない。
餓鬼は眼を細めてその侵入者の姿を値踏みするよう睨め付ける。
年若い女だ。十代の中程だろう。すらりとした体躯に濡烏の髪は肩程の長さ。染めているのだろうか、前髪の一房が桃色になっている。
白いブレザー、紺のスカート、黒のタイツにローファー。
餓鬼が目覚めてから今迄に喰らってきた餌共とさして変わる所は無い。
一つだけ違うのは、彼女の腰に巻かれた皮ベルト。そしてその後ろに交差して差してある燦爛たる拵えの二本の脇差しだった。
狩り人なのであろう。全く愚かにも、狩る側のつもりでいるのだろう。
僅かな時の後に、此処に在る塊と同じ姿になると云うのに。
その時の少女の表情を想像し、げひゅ、げひゅ、げひゅ、と笑いを漏らす餓鬼。
「あら、何か可笑しな事でもありまして?」
そんな餓鬼の様子を見て、緊張感の無い様子で首を傾げる少女。
「可笑しくも有ろうよ。いやなに、お主の事ではない。儂自身が余りに滑稽でなあ」
餓鬼は思い出す。封印が解け目覚めたばかりの時、狩り人に怯えていた頃を。
また追い立てられ、追い詰められる事を怖れていた頃を。
だから陰に隠れた。だから暗がりに潜んだ。慎重に、用心深く、恐る恐る、細々と。
少しずつ少しずつ餌を食み力を蓄えてきたのだ。
「それが、どうだ。遂に現れた狩り人共は、余りにも、弱く。全く、弱く。話にもならなかったではないか!」
始めはまさか、と思ったものだ。だが、次も。そのまた次も。赤子の手を捻るかの如く蹴散らせるとなれば。
挙げ句たった一人、小娘がのこのこと現れたとなれば。
餓鬼は堪えきれぬとばかりに呵々と大笑する。
「こうも、こう迄も!取るに足らぬとはなあ!これ程迄も衰えていようとはなあ!」
確信に至る。今の世にまともな力を持つ狩り人の類など残ってはいないのだろうと云う事に。
「これならば。取り戻せるのではないか。かつての時代、我等が縦横に跳梁し、無尽に跋扈していたあの時を!」
少女に全く気づいている様子はない。先程からじわじわと影が濃くなっている事を。ゆるりゆるりと闇が深くなっている事に。
やがて意識すらも真っ暗に塗り潰され、何も分からなくなるその時がもう間も無くである事を。
ここまでは何も変わらなかった。先程から、少女が餓鬼を目の前にしていながら斬りかかってくるようなそぶりを見せない事は若干不可解に感じたが、結局、これまで通り碌に戦い方も知らない間抜けがやって来ただけなのだと納得する。
だから餓鬼は思いもしていなかった。
自分が怖れていたものがとうとうここに現れたのだとは。
想像もしていなかった。
滅びが。
小娘の形をして目の前に立っているのだとは。