その四 ふたりっきりの午後
「美里の方だろ、俺ん家に来たがっていたのは」
わざわざ家に出向いてくるくらいだから、貴史も私に話したいことがあたのだろう。約束よりも早い日曜日の朝十時、わざわざ迎えに現われた。
薄っぺらい黒のウインドブレーカーでずいぶん地味に決めている。髪の毛だけやたらとべたついていた。よくみるとポマードを塗っているじゃないの。甘ったるいのかすっぱいのかわかんない匂いが鼻につく。近づくな髪の毛顔にくっつけるな髪洗って来い、そう言いたい。貴史のことが大のお気に入りで「たあちゃん、いい男ねえ」とか言ってひいきにしているうちの親には見せたくない格好だった。
日曜朝、まだ寝ている両親と姉、妹を起こさないように私はしのび足で外に出た。
「私、やっぱりいい」
「なんだよ、お前があんまりしつこかったから、立村に混ぜてやってくれって頼んでやったんだぞ」
「私だって別の日でいいって言ったでしょうが」
「立村に確認したらかまわないって言ったから、昨日お前んとこに電話したんだぞ。美里、いったい、どこ行っていたんだ? 確実にいるのは何時頃かっておばさんに聞いたら『朝なら大丈夫だ』って話だったからわざわざ迎えにきてやったのに、けっ、何様のつもりだあ?」
結局榎本の家でごろごろしていたため、家に帰ったのは五時過ぎだった。貴史から電話があったとは聞いた。どうしても受話器を取る気になれず、親にさんざん文句言われてふてくされ、さっさと寝てしまったのだった。
通りすがりの人は『けったいな』と言いたげな目で私たちを振り返っていった。しかたないので「おはようございまーす!」と明るい声で挨拶だけはしておいた。日曜午前中という時間帯は人通りが少ない。顔を合わせるといっても私と貴史のことをよく知っている近所のおばさんたちばかりだった。こんな中途半端なきざ頭している貴史連れて歩くなんて、こっぱずかしいったらない。
あとで親に「お宅の美里ちゃんと羽飛さんちの貴史くん、いつも仲がいいわね」と言いつけられるのがおちだ。貴史のとんがった髪型と、私の着ている灰色のジャンバースカート。どちらもあまり、見られたくなかった。慌てて出てきたので私の髪の毛も、なんだか寝癖が取れきっていなかった。みっともないったらありゃしなかった。
「だって、変じゃない」
「なにがさ」
「貴史の部屋なんてさ」
「よくわからねえ奴。俺の部屋のどこが変なんだよ」
貴史もさっぱりわからないという風に聞いてきた。
具体的に説明できず悔しかった。
「立村も、美里とならいいって言っていたしさ。立村に知られてまずいってことじゃないんだろ」
「けどさ、あんたの部屋に行くわけ?」
「あたりまえだろうが! なんなら美里の家に場所替えしてもいいけどな、立村は連れて行けねえよ。あいつ女子の家行ったことねえって言ってたから、きっとパニック起こすだろな」
「違うってば。貴史なんにもわかっていない」
──わかるわけがないのに。
前の日に榎本が見せたまなざしを貴史は知らない。今、私がどう感じてるかってことをを理解させようたって無理。百も承知のくせして、何、私、貴史に千里眼求めてるんだろう。ばっかみたい。。
「何がわかってねえんだよ」
「立村くんとは関係ないけど」
「じゃあ、今この場で用件言っちまえよ。俺だって無理に美里を引きずりこまなくたっていいし」
貴史は立ち止まり、ポマードのべっとりついた髪の毛をがしがしかき回しはじめた。頭が爆発して、みっともないったらありゃしない。男子ってほんっと短気だから困る。私だって本当はもっと落ち着いた場所で、煮詰めるように聞き出したかったのに。うつむきながら私は貴史の足元を見つめた。
「どうして、あんなにまじめになるのよ」
まずはこずえに頼まれた質問をそのまま聞いた。
「あのノート、絶対変よ」
「班ノートのことかよ」
「まじめなことを大まじめに話す奴なんて最低よね、って、女子の間で話題沸騰中」
「お前知らないわけじゃないんだろ」
「なにをさ」
立村くんの言葉を信じるならば、私がこっそり班ノートを見せてもらっていることを、貴史には秘密にしてあるはずだった。貴史はひょいっと肩をすくめて両手をへらへらさせ、
「立村から聞いたんだろ。とっくに立村も白状してるってな」
勝ち誇った風に両手を腰に当てた。こいつ、私の顔見たまま満足そうに鼻をふんと鳴らしている。頭の中が真っ白になった私は、なんも考えていないような貴史のせりふを、口ぽかんと開けたまま聞いていた。
「その上で、この前二人で相談して、今度の『裏・ノート』計画を立て直そうと考えているところなんだ。美里も混ぜてもいいって思ったしさ。あいつも女子誰でもいいってわけでもなさそうだしな。あえて美里を選ぶのにはあいつにもなにか考えるもんがあるんでねえかと。俺もまあ、いろいろな要素を考慮して、美里を仲間に引き入れようと思ったわけ。感謝しろよ」
──ふたりっきりの秘密のはずだったのに!
──貴史ってば、何考えているのよ!
──何もわかんないくせに!
──何が「裏・ノート」計画の建て直しよ!
──それに……立村くんも立村くんよ。
──私、誰にも言わないって言ったでしょ! なのに、大嫌い!
「な、だからお前が来ないとちょっとまずいんだ。立村もさ、美里以外の女では駄目みたいだしさ、な」
貴史が私をなだめだした。
ため息をめいっぱいした後、私は全身脱力した。
──だめだ、もう私の負けだよ。
いつもこうやって貴史の要求を飲まされてしまう。「裏・班ノート」の秘密は立村くんとふたりだけのものだと信じていたのに、結局結局、貴史が割り込んでくる。立村くん、やっぱり私のことを、「男ったらし」だとか「お付き合いが派手な人」だとか思って軽蔑したんじゃないだろうか。もううんざり!
私はぶっきらぼうに答えるしかなかった。横向いたまま返事した。
「わかったわよ。昼の一時に行けばいいのね」
「絶対、一時だぞ。遅れたら殺す」
貴史がそれだけ言って背を向けた時、またポマードの匂いが漂った。胸悪くなった。ごほんと咳が出た。風邪の前触れか、咽の奥がかすかにじんと痛んだ。
「みさっちゃん、お久しぶり! 貴史、みさっちゃんだよ!」
二階の自室にいる貴史に、階段の下から声を掛けてくれた。
貴史のお姉さんはこずえにそっくりだ。顔形というよりも、性格がもろにそう。もっともこずえほど下ネタの嵐になることはないけれどもね。貴史にとっては「姉ちゃん」だろうけど、私にとってはたまたま年上の友だち、って感じの人だ。うちのお姉ちゃんや妹とも仲良く遊んでいたし、いつでも気兼ねなくおしゃべりできる人だった。そうだ、小学校四年の頃、貴史と冷戦状態になっちゃった時も、間に入ってくれたのはお姉さんの方だった。
すっごくいい人なんだけどなあ。貴史がこずえのことをちょっと苦手にしているのは、きっとお姉さんの影響があるのかもしれない。
「それでは、おじゃまします」
私はにっこり挨拶して、次に奥で手を振っている貴史のお母さんに頭を下げた。
「みさっちゃん、貴史、学校でいろいろとうるさくて大変でしょう。よろしくね」
なんだか勘違いされている節がなきにしもあらず。学校だけじゃない、家族の間でもこうだもの。
「いえ、そんなことないです」
こういう風にはきはき答えられる自分って名女優だ、ほんとそう思う。
それにしても貴史、自分の方から呼び出しておいて、出迎えがないっていうのはどういうことなんだろう。失礼な。いつもなら降りてきてくれるのに、ずいぶん威張って、
「じゃあ、上がってこいよ」
だけ言うだけだった。
何様のつもり? 少しこれはお灸を据えないといけない。
「男はやだねえ、もうすっかり、彼氏気取りなんだからねえ、みさっちゃん」
お母さんに聞こえないよう、お姉さんは私の耳元にささやいた。
──そういうんじゃないんだってば!
私は言葉を飲み込んで、貴史の部屋に続く階段を昇っていった。人ひとり通ることのできるだけの幅がある階段だった。板の軋む音が耳障りだった。
突き当たりのドアをノックすると、すぐに貴史が顔を出した。
青無地のトレーナーに濃い目のジーンズ姿だった。着替えたのだろう。朝の格好とは違い、髪の毛は染めていなかった。きっとお母さんに見つかって、頭に水ぶっかけられたに決まってる。知らん振りしてまずは挨拶を。
「あれ、まともな格好だね」
「うるせえ、急いで入れ」
貴史は私以外誰もいないことを確かめ、すり抜けることができるだけの幅を開けてくれた。片手ですぐに閉め、いきなり鍵を掛けた。
「いつから鍵なんてつけたのよ」
「姉ちゃんや母ちゃんが部屋をかき回しにくるから、自衛が必要なんだ」
ノブのところに掛け金のようなものを打ち付けて、ひっかける形になっていた。取り外すのは簡単だろう。日曜大工・貴史のお手製に違いない。
部屋にはまだ誰もいない。当然立村くんもいない。
「立村くんはまだなの?」
「あいつは一時半に来る」
「三十分もずれてるじゃない! 私だけなんで一時なのさ!」
「たかが三十分だろうが」
「私、立村くん迎えに行ってくる」
「俺の家にあいつ来たことあるんだ。いくらあいつが方向音痴でも迷わねえよ。それより、どうして俺のこと、避けるんだ? お目当ての立村がきていないっていうのを差し引いてもだなあ」
「なに勘違いしているのよ! あんたが『一時に来ないと殺す』なんていうから、きちんと時間守ってきたのに、なあにあの扱いは! 失礼じゃないの!」
鍵を発見してしまったせいだった。わかっていた。
完全に閉ざされた空間。昨日の昼間に榎本と一緒に過ごした時間。グラビア雑誌の仇っぽい表情。榎本が私に似たアイドル歌手をぬめっとした目で「見て」いるらしいってこと。
頭の中がぐちゃぐちゃした。
茶色の木目が浮き出しているベニヤ板の壁を見つめているうち、ふとすとんと気が楽になった。
──やっぱりここは貴史の部屋だもん。
小学時代は貴史と一緒に蒲団を並べて夜中までしゃべったこともあった。貴史の入手した数学問題集の『教師用解答』を丸写ししたのもこの部屋だ。
私はふうっと息をついて、もう一度部屋を見渡した。
蒲団は押し入れの中。六畳間、机と本棚くらいしか置いていないのでかなり広い。本棚には少年漫画の単行本がびっしり詰まっていた。遠目から見て漫画を置いてある棚だけは調和が取れていた。上の一段に詰め込まれた参考書やら、世界名作全集なんかが紛れ込んでいるところは色の並び方からして汚らしいったらない。本と棚との隙間に立てきれなかった分詰め込んだり、帯を破いたままにしておいたり。せめて続き物は全部、順番に並べなさいよって言いたい。
私が貴史の彼女だったら、まずこの本棚をなんとかするだろうな。
私は折り畳みテーブルに両手を置いて、貴史をはったと見つめた。隙を見せないように意識しながら、改めて尋ねることにした。
「まあいいわ。それでは立村くんがいないうちに、聞きたいことを聞くね。目的はなに? うちのクラスの女子関係情報を仕入れたいとか?」
「なに気合いれてにらみつけるんだ?」
「真剣に聞きたいからそう言っているだけよ」
「あの『班ノート』のことだろ。そっちはあとで立村が説明担当に回るってたから後回しでいいだろ」
「あんたの方が先決ってことね、まあいいけど」
「とりあえず確認したいことがあったから、あえて美里を三十分前に呼び出したというわけだしな」
カーテンごと窓は開いたままだった。風の吹き付ける音が秋の答え。枯葉を窓辺へ運び、そのままふわっと流れている。電気ストーブの電源は入っているのに効果ないじゃないの。寒くなったから閉めてほしい。貴史も風邪ひくのはごめんだったのだろう、よっこらしょと立ち上がり、窓をきっちり閉め、カーテンを開けっ放しのまま座り直した。
「立村くん抜きで、話さなくちゃだめなことなのね」
「あいつこんなことしゃべってるって知ったら、絶交されちまうだろな」
「そんなすごいことなわけ?」
立村くんのことなら、どんなすごいことだって聞いておきたい。
貴史は班ノートをかばんから指で抜いた。左角に黒い綴じ紐が通されていた。貴史は真中あたりのページをめくって私に差し出した。
十月二十五日。私が書いた班ノートの日記だった。
「班ノート」 十月二十五日 清坂美里
私はどうだっていいんだけど、今日学校に来る途中で、とある人の噂話を聞いてしまいました。
雨が降っていたんで、バスで来たのね。そしたら、学生服の男子(当然、公立)が数人、後ろでぎゃあぎゃあわめいているのね。
「おい(あえて伏せ字にします)が附属行っているんだってな」
「あいつらなら、いじめられて当然だぜ」
「でも、うまくいっているみたいだって、(同じく伏字、というか、知らない人の苗字)が言っていたぜ」
「あいつのことだから、猫かぶっているんだろ。それに、附属の奴ってぼっちゃんぼっちゃんした奴が多いから、あいつの同類ばかりうじゃうじゃしているんでないの」
「学校際の時、乗り込んでばらしてやっかな」
とかなんとか。まあ私はいいんですけど。
ちなみに(伏字)とは、我がクラスの男子であることを告白しておきましょう。武士の情けで、こればかりは私の胸にしまっておきますわ。
ということで、私はやっぱり不真面目に書きました。
先生、ごめんあそばせ。
「なんか問題あるの? ネタじゃないの、完璧に」
「て、いうかだな。あいつがすげえ、気にしているんだ」
「立村くんが?」
よく意味がわからなかった。なんで?
「私、この中に立村くんの『り』の字も出してないけど」
「伏せ字の名前が自分のことじゃねえかって、やたらと気にしてるみたいなんだ」
「どうしてよ? よっくわからない!」
何度も読み返した。貴史をつつきながら、まずは本当のことを説明することにした。
「言いたくないけどこれ、水口くんのことよ。たしかになあって納得してしまったけどね」
「ああ、すいのぼんぼんか」
貴史は納得したって顔で膝を叩いた。
「あの入学式は強烈だったもんなあ。あすこまで親べったりの同級生がいるとは、正直、俺も思わなかったしなあ。そっか、すいか。あいつならありうるわな」
ちなみに水口くんとは、入学以来学年トップの成績を保っていながら今だにネクタイが一人で結べないという、私たちと同じ年齢にしては幼いところのあるクラスメートだった。ちょっとしたことですぐ泣き出すし、物投げて騒ぐし、いったいこいつどういう教育受けてきたんだろうとつくづく貴史と噂したものだった。もっとも最近は、同級生の奈良岡彰子ちゃんがある意味「お母さん」代わりになって面倒を見ているので、それほどトラブルも起きなくなった。同級生に面倒見てもらうっていうのも、ちょっと恥ずかしいものがあるんだけど、まあいいよね。男女関係なく仲良しが増えると、私も貴史もクラスの居心地がよくなるし。
「そっか、それならいいんだがな」
貴史はしばらく黙り込んだ。まだひっかかるものがあるようだった。
「変だね。立村くんって。実名でなにからなにまで書かないとだめなのかなあ。神経細かすぎるよね」
「あいつ、水口に近い過去があるんだと思う」
いつもなら口にしない、貴史のやわらかい言葉が耳に響いた。
私は戸惑い、言い返そうとした、けど言葉が見つからなかった。
「美里も知っているだろ、あいつんちの事情」
「両親が離婚して、お父さんに引き取られていることでしょ。たいしたことないじゃない。立村くんも自分で話していたじゃない。でも、たまたま親の事情に巻き込まれただけでしょ。それと暗い過去とどうつながるのよ」
まだ私の頭では、貴史の考えていることがわからなかった。
「『裏・ノート』にかけないようなことかもしれないぞ。ノートでおちょくれるような内容のものだったら、立村も平気で口に出せるんだろうが、俺の見たところによると」
「おちょくれない内容って、たとえばなにさ」
「たとえば──万引きとか」
「まさか!」
「たとえばだぞ、たとえば。あと、家出とか、シンナーとか、薬とか、タバコとかで警察のお世話になったとか」
「まさか、そんなことしていてばれていたら、絶対青大附中になんかこられなかったよ。うちの学校、内申書見るのよ。あんたと私が受かった時、先生連中は最初誰も信じなかったでしょ。あとで聞いたけど、私たちの内申書って相当きつい内容だったらしいよ。菱本先生が読んでいるのをこの前見せてもらったしね」
「どんなこと書いてたんだ? 沢口のことだ、前科何犯くらい書いてあった?」
「さあ、そこまで細かいところチェックしなかったけど、菱本先生受けてたよ。『清坂、どうして小学の時、あれだけはめはずしていたんだ?相当小学校時代、暴れてたらしいなあ』って。いくら暴れたって私たち、悪いことしたわけじゃないし成績も青大附属に入るだけのもんはあったから問題なかったみたいだけど。けどさ、考えられないよね。立村くんが私たちと同じくらい、暴走してたなんてさ」
「まあな。考えられるのはあと、女子となんかやらかしたってあたりか、だな」
「そんなわけないじゃない!」
「立村の面だとなんとなく女子受けしそうな感じだから、そっち方面の経験は早かったんじゃないかって、思ったりもするわけだ」
貴史、正気なんだろうか。今、すっごく、ほっぺたが熱い。榎本の部屋に一瞬だけスリップしてしまったみたいな、変な胸騒ぎがする。
「あんた自分で何言っているかわかっているの! すっごく失礼だよ立村くんに対して!」
貴史と榎本との表情が重なって見えた。すぐに消えた。
私のよく知ってる貴史の顔して、けろりとまぜっかえした。
「まさかといっているだろが、冗談だよ冗談」
「冗談でも言わないでよ! 貴史のすけべ!」
「変な想像する美里の方がずっとすけべなくせに」
血が冷めた。やだ、いったい何考えてるんだろう、私。
目の前にいるのは貴史なんだから、変なこと考えて言っているわけがないじゃない。
決して榎本のようにいきなり、私を値踏みするような目で見据えることもなく、ただ「と、思うんだけどな」って首ひねってるだけなのに。榎本みたいに、「すること、していたかなあ」なんて一言も言ってないのに。でも目の前に蘇ってしまう榎本の視線。『榛野七草』似の私を、変なまなざしで射たあいつを見えないところにに追いやりたかった。
「まあいいわ、続けて」
「怒るなよ。これから言うことはま、俺の本音だからな」
貴史は鍵をはずして、ドアの隙間から人のけはいがないことを確認した。戸口にケーキとマグカップが二人分、用意されていた。たぶん、お母さんかお姉さんが気を使っておいていってくれたのだろう。中に運んだ後、もう一度貴史は留め金をきちんとかけた。
「美里はチーズケーキが好きだからってうちの母ちゃんが選んできたんだ。俺がこういうの嫌いだっていうのを知っていて、平気で用意するんだからなあ」
「でも、食べられないわけじゃないでしょが。いらないんだったら、私もらうよ」
「無理して食えないことはないってだけだ。本当に美里って餌付けされているって感じだぜ。」
貴史は黒、私は赤。おそろいのマグカップに注がれたココアを少しずつすすった。いつも私が遊びに行くと、貴史のお母さんは私専用のマグカップを用意してくれるのだった。。
「みさっちゃんの好きな物はみんなわかっているから、お迎えする時もやりやすいのよねえ」とは、貴史のお母さんのせりふだった。
貴史はケーキに手をつけず、私にもそうするよう目で伝えた。しかたがない。カップをテーブルにおき、貴史が話し出すのを待った、音量をいきなり落として語り始めた時、私は思わず上体を貴史の方へ傾けた。そばに寄らなくては聞こえないほど、小さい声だった。
「土曜の昼、俺、立村の家に行ったんだ。いやあすっげえ広い部屋だった。だいたい俺の部屋の二倍はあると思うぞ。で、床から天井までびしっと本棚が、壁一面ざーっと埋めているんだ。向かい側は洋服ダンスで、それまたすごい量の服が詰まっているんだ。あとはベッドと机くらいだったからやたらと広く感じるけどな、ああいう部屋に住んでいる奴なんてさ、いままで俺見たことねえよ」
貴史の部屋の二倍。
ということは私と姉の部屋をくっつけたよりも広いってことだろうか。
うちみたいに三人姉妹共有の洋服たんすが馬鹿でかいならまだわかる。けど、立村くんは一人っ子のはず。そんなに衣装持ちなんだろうか。
話を遮って尋ねた。
「立村くんの服ばっかり?」
「らしい。立村がコート着る時ちらっと覗いたけどな、いかにも立村って感じの服がびっしりかかっていたもんな。コートだけでも十着くらいはあったんじゃねえかな」
「私とお姉ちゃんの分を合わせても、そんなにないよ」
「で、コートがすごいんだ。よく『シャーロック・ホームズ』が着ているようなコートあるだろ、あんなのもあったんだぞ」
──とんびのマント。
「ええっと、大正、昭和の高校生が学生服の上にはおったっていう、とんびのマント?、ほら、膝下までくる真っ黒いコートのことかなあ? こうやって両手を広げると、とんびというよりもムササビの羽に見えるんだよね、私、テレビでしか見たことないけど。なんか暑苦しそう! さすがに立村くん、学校には着てこれないよね」
「めったに着ないとは言っていたけどな。今日は絶対、それ着てこいと命令してきた」
「うっそお、なんかそれ、笑い、止まんないかもしれない」
立村くんの私服姿はあまり見たことがなかった。評議委員会合宿の時、水色のチャイニーズカラーシャツを、ボタンはずさずきちんと着ていたことくらいだろうか。そろそろ十一月ということもあり男子たちの間ではスタジアムジャンバー姿が中心だったが、立村くんは薄手の白いジャケットを羽織っていた。この頃は風が強いし、そろそろ厚いコートが欲しい気持はわからなくもない。
「楽しみ、立村くんのとんびコート姿って、見てみたい」
「もっと驚いたのが本棚だな」
いやらしいグラビア雑誌なんか絶対持ってない、そう信じたかった。
「ううんとねえ、『世界の名作』とか、音楽雑誌とか? 立村くん、古い洋楽好きみたいだしね」
「半分は当たっている。そうなんだ、そういう本だけなんだ」
「イメージどおりかあ」
しばらく貴史は自分の本棚を見つめて、一冊、少年漫画の単行本を取り出した。最近テレビドラマ化された人気学園SF漫画だ。私も貴史から貸してもらったことがあるた。
「『砂のマレイ』、まだ原作と同じままだよね。いつくらいからオリジナルの内容になるんだろうね」
黙ったまま、貴史はテーブルの上に本を置いた。
「立村、知らなかったんだよ。『砂のマレイ』」
「SF嫌いなの?」
「いやそんなんじゃない」
本をテーブルに立て、貴史はおもむろに言い切った。
「立村の本棚には、漫画本が一冊もなかったんだ」
貴史はさらに続けた。
「全部、『世界の文学』とかいう、図書館に並んでいるような全集と、文学関係の文庫本がほとんどだったんだ。字が小さくて、題名ばかりは有名なもんばかり。ずらーっと並んでいた。壁一面にだぞ。なのにな、漫画とかふざけた雑誌とか、俺や美里が読むような本が一冊もないんだ。立村が言うには、『漫画を読むとばかになる』と言われ続けてきたらしい。思い当たる節は確かにあるよな。立村、雑誌とかマンガとか、テレビネタにどうしようもなくうといところがあったしな。謎が解けたぜ」
隣に並んでいる本棚の内容をざあっと見直した後、私は頭の中で立村くんの部屋をイメージしてみようと試みた。十畳前後の洋室で、黒っぽいたんすが右壁一面、向かいの壁には本棚がこれまた一面を埋めているのだろう。『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『武器よさらば』など。読んだことはなかったけれど、文学全集には納められているような本だらけの光景。信じられない。これって、中学一年の部屋じゃない。
「でもまさか、読んでいるわけないよね」
「いいや読んでいるらしい。自分で本を選べるようになったのは、青大附属に受かってからだってさ。それまでは自分で好きな本買ったことねえって言ってたぞ。」
「信じられない! そんな生活耐えられない!」
「青大附属受かって最初にしたのは、まずテレビを一晩中つけっぱなしにしてたって、入学式の時あいつ言ってたよな。あれ見て納得した。ほんとあいつ、まともな娯楽に飢えていたんだなあ」
ようやく貴史がケーキに手をつけた。あわせて私も真中からばっさりと切り込み、一口でほおばった。
「食い物があれば、お前、幸せな顔しているもんなあ」
「おいしいもんいいじゃないの。それより続き続き」
口に物が入った状態で答えながら、私は話の続きを促し、頷いた。
「確かに、立村は変わった奴だと思うんだ。たとえばな、別の奴だとテレビとかそれこそ漫画とか、そういった話で盛り上がるって簡単だろ?、けどな、立村だとだめなんだ。あいつはそういう話になると、ただ黙って聴いている。俺たちの話題に合わせようともしない代わり、邪魔もしない。読んだことがないからどうしようもない、って面してるな」
「そのわりには、あんたたちいつもつるんでいるよね」
「やはりそう見えるかよ、美里にも」
言葉を半分言いかけたまま貴史はうなずいた。私もつられた。
立村くんが貴史のような開けっぴろげな奴と仲良くしている理由が私にはわからなかった。貴史捕まえて何度も聞こうと思っていた。でも私が見せたくない、立村くんへの気持ちを貴史に一瞬のうちに見抜かれてしまうのがいやで、質問を飲み込んでいた。
「文学全集愛読書野郎の立村くんと、マンガばっかりの貴史とだと、なんだか沈黙が続きそうな気がするんだけど。そうでもなかったんでしょ。昨日は盛り上がったの」
「あたり。結局帰ったのは六時過ぎ。立村の父さんが帰る直前までいたんだ」
「いったい何の話をしていたわけ?」
「美里が聞きたがっていることそのもん。お前が書いた班ノートのこと」
やっと話が振り出しに戻った。私は姿勢を正した。
「立村が作ってくれたチャーハンを食いながら、しばらくは音楽のこととか、いろいろしゃべっていたんだ。あいつ、古い洋楽系のインストロメンタルしか聴かないって言っていたから。そのレコードを何度もかけなおしてな。三回転くらいやって、A面が終わって、針を戻してからな。いきなり、立村が言いにくそうに切り出したんだ。美里が書いたとこ、たしか十月二十五日分、そこ開いてな、伏字のところを指して、『清坂氏が立ち聞きしていたっていう連中、本品山中学の奴だろうか』って聞いてきたんだ」
本品山中学は榎本の通っている学校でもあるし、立村くんが公立中学を選んでいたら通っていた可能性大のところでもある。学区がいろいろ複雑で、五校の小学校から生徒が集まってくるとは聞いていた。立村くんの住んでいる品山地区は、かなり本品山中学から遠いらしいが、それでも通わなくてはならないらしい。昨日榎本がそう言ってた。
「貴史はどう答えたのよ」
「立村に思い当たる節があるのかって、聞き返しただけだってさ。表情は変わらなかったけれど、別の話の合間にちょくちょく、俺や美里が載るバスの路線を知りたがってきてさ。いかにも、こだわっている風だったんだ」
他人が動揺していることにすぐ気付く。即、問い詰めるのもお決まり通り。
「『どうしてそんなに、本品山にこだわるんだよ。さてはお前、暗い過去があるのかよ』って俺も聞き返したんだよ。そりゃ気になるよな? けどあっさり『なにばかなこと言っているんだ』あしらわれちまってさ。そのくせまた隙あるといろいろ尋ねてくるんだ。『清坂氏は品山に知り合いとかいるんだろうか』とか、『本品山は清坂氏の行動範囲内か』とか。肝心要のことは一言も口にしなかったな」
立村くんは最後まで具体的内容について触れようとはしなかったらしい。
貴史が繰り返し
「知られたら困ることでもあるのかよお前」
そう尋ねたらしいけど、全然何にも答えなかったという。
「無理やり聞き出そうとしたからよ。あんたってばかね」
「別に、立村がすけべなことしたとか、そういうことを期待したわけじゃないし、もし警察沙汰起こしていたら、とっくにばれていると思うんだ。だからまあ、万引くらいかなあ、と思ってさ」
「それってものすごい警察沙汰よ」
私は班ノートをぱらぱらめくりながらつぶやいた。万引ほどばかばかしいことはない、と思っていた。別にいい子ぶって言っているわけじゃない。スリルなんて、捕まってしまったあとの後片付けに比べたらどこが気持ちいいんだか。
怖かったのは、立村くんがそういうことをしている可能性のあるなしだ。
もし、立村くんが万引なり女子とエッチなことをしていたとしても、意外じゃないと思う自分がどこかにいた。
──立村くんだって、榎本と同じ中学一年の男子であることには変わりないんだよね。
胸の奥の骨が、ぎしぎし痛くなるくらい激しくものを言っていた。好奇心だけが勝手に動き出した。もう知らん振りはできない。
──知らないでおけば、きっと立村くんを好きなままでいられるのに。
波立たない海に、荒波を立てたくてならない私。
「もし、立村くんが万引きしていたとしたら、どうするつもりなのさ、貴史。今さらながら菱本先生に言いつけるつもり?」
「どうもしねえよ。ああ、そうだったのか、って、それくらい」
「簡単に済ませるわけじゃないんでしょ」
「そういわれればそうだけどさあ」
貴史だって、立村くんの過去を知りたがってくるくせに!
それをネタにして、なにか考えているんじゃない?
標的に矢を射てやりたかった。私がもし男子で、貴史と同じ立場だとしたら、ありとあらゆる方法を講じて立村くんの隠していることを知ろうとしているだろう。秘密があることを知った以上、無視していられない私の性格だ。
「あのなあ、美里」
突然貴史の表情が静まった。息を吸って、じろりと私をにらみつけた。
私も条件反射で思いっきり目に力を入れてにらみかえした。
「俺とお前の長いつきあいに誓って答えろ」
「何よ、いきなり」
「お前、立村に本気だろ」
ケーキを差したフォークを、テーブルの上に落としてしまた。からりと鈍い音がした。私は落ち着いているつもりだった。鼓動が高まり、頬が熱くほてってくる。
言い返すことしかできない。
「話が飛び過ぎているわよ!」
「無理やりくっつけるから安心しろって」
にらみつけていたその目をそらし、うつむき加減でにやついた後、貴史は再びまじめな表情にもどった。
小学校の頃にも、好きな男子がいなかったわけじゃない。絶対貴史と正反対の、おとなしそうな優等生タイプでなくちゃいやだった。人前でそんなこと言ったこと、一度もなかった。隠していたつもりでいたけど、大抵の場合貴史には勘付かれていたことが多かった。小学校の頃から、こんな風につっこまれることはめずらしくなかった。たいてい、貴史の部屋でケーキやプリンを食べている真っ最中に。
白状したことはない。冗談じゃない。死んでも打ち明けるなんてこと、しなかった。
けど貴史に問い詰められたとたん、その男子たちに対しての気持ちが冷めてしまう。
立村くんへの想いも、同じくしぼんでいくのだろうか。
貴史の目の前でなかったら、自分のほっぺたが熱くなってないか手を触れて確認したかった。できなかったから、私は答えるしかなかった。
「そう思いたかったら、勝手にそう思えば」
ぎりぎりの線で、言葉を選んだ。
「はっきり言ったってかまわねえのに。変な奴」
貴史は吐き出すような口調で呟いた。勝手に心臓がどきまきした。
貴史がむっつり黙り込んで、残りのチーズケーキを食べ始めた。
その隙に私は頭の中で要点を整理した。貴史の考えていることのひとつやふたつ、想像つかないわけではない。伊達に十年以上つるんでいるわけではない。腕時計に目を走らせた。まだ時計盤の十の文字まで針が進んでいなかった。あと二十分待つことを思うと、どういう顔をして立村くんを迎えればいいのかわからなかった。黙っていても違和感ない風に、口一杯にケーキをほおばった。
「俺も、立村みたいな奴、好きだなあ。すごく変な話だけどなあ、男同士でつるみたいって思える相手は、あいつが初めてなんだよな」
私の前に置いてあった班ノートを、ゆっくり取り上げ、ぺらぺらとめくった。私から目をそらしていた。私が立村くんを好きだというのと同じ重みを持った言葉らしい。
女子同士だったら、いつでも言い切ってしまえることなのに。
──どうして男子同士だと照れるんだろう。変よね。
──え?でも、今、貴史、『男同士でそう思える相手』って言っていたよね。
──聞き間違いじゃないよね。
「貴史。今まで親友がいなかったなんて、言わないよね。あんなに小学校の時、男子と仲良くやってきていたのに、その中に立村くん以上の親友がいなかったなんて、あんた、そんなに哀愁目いっぱいな奴だったわけ? 信じられない」
「どうせ俺は哀愁野郎奴だ。うるせえな」
「あんたの方から話を振ってきたんでしょうが!」
「話をそらす癖はやめろよな。俺もお前の無神経なくせに余計なことに神経とがらせる性格、幼稚園のころから頭にきていたんだ」
「そのせりふ、そのまんまあんたに返してやるわよ!」
「どうしてどうでもいいことにそうこだわるんだよ。ああ、こんなうるさい女のどこがよくって、母ちゃん姉ちゃん、美里ひいきにしてるんだがな。よっくわからねえ」
「うるさくって悪かったわね」
手の届くところにあった長い柄の箒を握り締め、スイカ割りの要領で貴史の頭に振り下ろしてやりたい。一年前だったら、即そうしていたことだろう。でも、立村くんが来る前に一戦交えるのはためらわれた。息を深く吸い込み。「自制心、自制心」、そうつぶやいた。
・立村くんには小学校時代、知られたくない過去があったらしい。
・その過去が私たちにはわからない。
・貴史はそれを知りたがっている。
・そのために私に相談を持ちかけた。
単純にまとめるとこんな感じだった。
次に疑問点を挙げてみた。
・立村くんの隠していた過去を知って、貴史は何を考えているのか?
・私に相談して何したいのか?
・貴史は立村くんをいい奴だと思っているのはわかる。
・できれば親友クラスの付き合いをしたいというのもわかる。
・けど立村くん自身は貴史のことをそこまで深く思っていないらしい。
・そこで貴史はどうにかして立村くんと強いつながりのきっかけを探している。
・貴史は立村くんのことをもっと知りたいと思っている。
・隠していた過去をネタにして、そのきっかけにしたいと思っている。。
ここまで考えて、まだ答えの出ない問いがあることに気付いた。
──私になにしろっていうんだろ?
「要するに、立村くんの小学校時代がどんなもんか探れって、そういうことをあんた言いたいわけ?」
とりあえず出た結論をよよりどころに私は尋ねた。
「まあ、そんなところだ」
大きくうなずいた。唇を結び、班ノートを私に投げて返した。
「貴史、あんたって淋しい奴ね」
私だって、もしこれが立村くんのことじゃなかったら、こんなこと決して言わない。
もし貴史が誰か好きな女子がいて、その子のこと探りたいっていうんだったら、もっと協力してやったっていい。けど、相手の隠していることを暴き立てて、その弱みを握って友達になるなんて最低もいいとこじゃないの!
そりゃあ私だって、人のことは言えない。友だちが好きでいる男子情報を得るため、いろいろ釜をかけたりして探り当てたりしたことはある。でも、そういうことした相手と、親友になりたいとは思わないに決まってる。ばれたらどうするの。
聞いた話の内容から考えて、立村くんが小学校時代辛い思いをしてきたことは確かだろう。本音を言ってしまえば、私だって知りたい。
でも貴史が、そんなことするのは許せなかった。
共犯者になってしまうのは、いや。
──ばれたら立村くんに誤解されちゃうよ。
ひとつは、人の心の傷をびりびりとはがすいやな奴だってことと。
貴史と私との仲が、『付き合っているもの』だということになることと。
立村くんは私のことを、五月の末あたりから『清坂さん』ではなく、『清坂氏』と読んでくれていた。その頃、一年生の間で女子と男子が『氏』つきで呼ぶことがはやっていた。確か歴史の授業で奈良時代の「豪族」とか「山上氏」などについて調べた際、出てきた言葉で、意味もなくみんな「氏」をつけて呼んで遊んでいたのだ。
D組担任および社会科担当の菱本先生が、
「お前らも、世が世なら、『氏』で呼ばれてたんだぞ、ほれ、これから毎日、男女問わず使ってみろ。やんごとなき大人になれるぞ」
なんて意味不明なことを口走り、あおったのもある。
もっともすぐにはやりは廃れたのだけど、立村くんはそう呼んでくれていた。たぶん、他の男子連中が使わなくなったのに、立村くんだけがその波に乗れず、つい口走ったのを、私が「はーい!」と返事したからに違いない。知る限り「氏」で呼んでくれるのは、私だけだった。特別の呼び名。だからこそそのまま私は、立村くんの眼中に入っていたかった。
「俺な、美里」
貴史はふうっと息をついて寝そべった。頭に手を組んで、天井を見上げていた。
「立村って、どこかかなわねえってところがあるんだよな」
「あたりまえでしょが。思い上がるのもいいかげんにしなよ」
言いたい放題の言葉を浴びせたにも関わらず、貴史は歯向かってこなかった。
物思いにふけっていた。はにかんでいたのか、部屋の空気がぬるく感じた。まじめな話をしている時は、いつもこんな空気のやわらかさが肌に伝わってくる。榎本の部屋には決して感じることのできないものだった。
「絶対他の奴に弱みを見せないようにしているところあるんだよな、あいつ。例の班ノートでもそうだけどな、本音を書かないことを美学にしてるみたいなんだ」
「別に立村くんだけじゃないわよ、私たちだってそうじゃないの」
「けど、どう読まれるか、計算はしてねえだろ。立村の場合、菱本先生が何を期待して班ノートを書かせているのかを、見抜いてやってるんだ」
「それがどうしたって感じだけどね」
「頼むから黙れよ。立村が普通じゃないところさ、菱本を『先生』じゃなくて『男子の一人』として観察しているところなんだ」
誰だってそうじゃない、と口に出そうとしてやめた。
殴られたら、きっと痛い。
「先生、っていうか、なんていうか。あいつは尊敬する大人っていうのが誰もいないって言っていた。みな同じ人間じゃないかって。そういうやつらに頭ごなしに怒鳴られたり同情されたりするのはたくさんだって、言いたいんだろう。けど、立村は俺たちみたいに腹が立ったらすぐに文句言うようなことをしないんだ。計画どおりに事を進め、菱本をからかって、あと地団駄踏ませてやろうとたくらんでいる。ありゃ俺も負けたと思ったな」
「あんたがそんなことをあっさり思いつく頭の持ち主だったら、私とあんたとの仲はとっくに終わっていたけどね」
「じゃあ聞くけど、俺と美里の六年間って、いったいなんだ? ほとんど立村と同じ路線じゃねえかよ。呼び出されて怒鳴られて、教室から抜け出したとか言われては殴られ、成績がよくなったらよくなったで『高慢なところが見受けられる』と通信簿に書かれるしまつだぜ。クラスの連中だって同じだったろ。覚えているだかよ、四年ん時ののお泊り会。俺と美里だけ、図書館に真夜中閉じ込められて、鍵かけられたって、ほんとひでえ目にあったろ」
「あったあった。あれ、おもしろかったよね」
思い出し、手を打った。一階の図書館に二人、鍵をかけられて閉じ込められたことがあった。反省しろということだったのだろう。数時間後、担任・沢口は鍵を開けてくれたらしいが、そんなの私たちは気付かなかった。なぜって、さっさと窓からふたり抜け出して、夜の街を自転車であちらこちらさまよったのだから。たぶん二時間くらいは徘徊していたと思う。親に報告は行かなかったので、私と貴史のふたりだけに秘められた秘密として今日まできた。。
「あんなところ、窓開ければ抜け出せること、知らなかったみたいね。沢口の奴」
「あの時も思っただろ。俺たちが責められたり怒鳴られたりしている時、みんな知らん顔だったこと。普段はつるんでいても、ピンチの時に見方でいてくれた友達がいたか?」
「つっこまれると、そうだよね、うん、いなかったかもしれない」
「悪い奴じゃねえってことはわかってる。けどな、俺は結局最後までその話をできる奴が、一人も居なかったってのが、結構ひっかかってたりもするんだよなあ」
なんとなくだが、貴史が立村くんに惚れる気持を感じ取ることが出来た。
言葉ではなく、気持で通じ合うものがあったのだろう。
私と貴史は当然、小学校の教師連中たちから受けの悪い子どもだった。同級生にはたまにいやがらせされたけど、倍返しでやりかえしていたのでみな怖がって、手を出してこなかった。ほんの少しの間だけ仲たがいしたこともあったけど、私にとって一番秘密を打ち明けて語り合えるのは男女含めて考えても貴史だけだったし、その存在が代わることはまだ考えられなかった。
だけど、貴史はもしかしたら、私に代わる存在を立村くんに定めているのかもしれない。
あの、四年夏のお泊り脱走事件を素直に語ってしまえるような相手として。
私以外の存在として。いや、私と並べて、同じ位置にいる「親友」として。
けど、素直にうんとうなずけなかった。
沢口先生を相手に闘うとき、私たちふたりはどこかで激しく叫んでいた。貴史と夜、青潟の街を自転車で走り回っていた時、どきどきしながらも待っていたのは、追っかけこうも長く友達でいられるわけがない。
立村くんは、敵からの応答を無視して、少しずつ掘り進めていきたいタイプのように見えた。敵を上から見下ろして、将棋の駒のように動かし、自分のシナリオを完成させていく。それが今回の班ノートと、『裏・ノート』。菱本先生も、クラスのみんなも、私も、立村くんにとっては駒のひとつでしかなかったのだろう。
そこが受け入れられなかった。
だからこそ。
「立村くんがそういう人だと考えたくないよ」
ぽつりとつぶやいた。
「そんなワルじゃねえよあいつ」
貴史は身を起こして、尋ねてきた。
「美里、入学式後のの宿泊研修で何起こったか、覚えているか」
「記憶にはちゃんと残っているわよ。つい最近のことじゃない」
「晩に、国枝がぶっ倒れて騒ぎになっただろ。おまだ、その真相を聞いてねえか」
「全然」
旅館で夕食が終わって少し経った頃、突然貴史が女子の部屋に乱入してきて、
「余ってる浴衣ないか! あったらよこせ」
と叫んだことがあった。私はたまたま自分のパジャマを持ってきていた。用意されていた浴衣を一枚渡した。それ以上のことはその場ではよくわからなかった。
次の日の朝、同じクラスの国枝くんが病院に運び込まれたという話を聞いたが、男子たちも詳しい状況は話してくれなかった。もちろん貴史も言わなかった。女子の間ではさまざまな憶測が飛び交ったものの、結論が出なかった。結局それは謎の一つとして胸に収められた。
「評議委員に立村が無条件で選ばれたのは宿泊研修の後だったよな」
「うん、覚えている。てっきり貴史が選ばれるんじゃないかって女子の間では噂してたんだよ。そしたらいきなり立村くんを推薦するんだもの。あっさり決まっちゃってて驚いたよ」
貴史はすでに入学式当初から目立っていた。女子からも早い段階で目をつけられていたようだ。私に「あのかっこいい男子、美里の彼氏?」などと勘違いされるくらいだから、たぶん私と付き合いのない女子たちの間でも噂だったのだろう。
それに対して立村くんは目立たぬ無口なままの人だった。宿泊研修の後も、「あのやたらと真っ白い顔した、ほそっこい男子、誰だったっけ? 名前忘れちゃった」なんて、いかにも顔を覚えていないという女子が結構私に尋ねてきたものだった。
当然、委員選び直後の休み時間では、
「なんで羽飛くんじゃやないの」
と、疑問の声も女子中心にずいぶん耳にした。
もっとも今では、立村くんが思っていたよりも仕切り上手だということがみんなにも伝わったみたいで、特に反発の声も出ていない。力でねじ伏せたって感じだ。
「男子の力関係って、どうなっているの? いろいろグループに分かれているようだけど、立村くんはどの連中とも仲良くやっているよね。女子だたらそうはいかないよ。気に入らない子だったら、徹底して無視するよね。
「やはり変だと思ったか」
貴史は腕時計をはずして、テーブルに置いた。時計版がはっきり見えるおうに、バンドをたたんで、ちらりと針を確かめた。
「あの宿泊研修は、すごいことになっていたって、美里聞いていないだろ」
「国枝くんが倒れたってことくらいでしょ」
「まあ、そうなんだけどさ、倒れた原因がちょっとまずかったんだ」
「食中毒じゃないの?」
すぐには答えず、貴史はもう一度時計を見やった。
「部屋割りの関係で、俺は立村と別行動だったんだ。夕食と風呂が終わってから、同じ部屋の連中と食い物食ったり、花札やったりしていたんだ。そうしたら、いきなり、隣の部屋の連中が来てさ、南雲とかあのあたりがな、仲間に入れろって言うんだ。名前を覚えるいい機会だと思って、盛り上がっていた。でも、立村と国枝だけがいないんだ。『立村はどうしている』と聞いたら、いきなりもごもご言うんだよ。『国枝が具合悪くなっちまって、立村が介抱している』って感じで」
「どういうこと? 国枝くんが気分悪くなって、立村くんが看病しているってことだよね。同じ部屋にいた南雲くんたちは立村くんに押し付けて、貴史たちの部屋に避難してきたってこと? なんだか情けないね」
「詳しいことは俺も聞いていねえよ。しばらくたってから、『立村だけでも連れてくれば』とか言ったら、突然黙っちまって。どうもあの部屋には戻りたくないようなことを、南雲たちがもごもごと言い出したんだ」
「そんなこと言ったって、結局寝るのはその部屋しかないんでしょ。理由、あったの?」
「うん、確認してよくわかった」
貴史は唇をちょっとゆがめて、身震いして見せた。
「じゃあ様子見てこようかってことになり、言い出しっぺの俺がひとりで隣の部屋に行ったわけだ。ふすま開ける前から変な匂いしていあし、おかしいなとは思ったさ。でも、なあ、確かに戻りたくないわな。蒲団一面に吐かれていたれあ、立村に押し付けて、自分らは他の部屋に非難したくなるだろう」
「やだ、ひどい状態だったんだね」
「あんなとこ、見たことねえよ。部屋に入ったとたん、俺もうっときそうになったもんな。国枝はトイレにこもっていて、立村もずっと背中をさすってやっている状態で。俺が来たのも気付かないんだ。まだ吐いたものを片付けてなかったみたいで、そのままになって」
立村くんは貧乏くじをひかされたということらしかった。
「『立村、誰か呼んでくるか手伝うかするか?』って、声を掛けたんだ。そしたら立村、振り返って、『呼ばなくていいから』と怒鳴り返してさ」
「けどどっちにしても先生を呼んだわけでしょ。国枝くんを病院に運んでもらったはずだよね」
「一応な。とりあえず俺は雑巾を用意して、国枝の散らかしたものをふき取って、シーツをまとめたり、蒲団をたたんだりしていた。立村が、また俺の方を見て、『浴衣、余ってないか?』と聞いてきたんで、女子の部屋から調達してきたりして、それなりに手伝っていたわけだ」
「そうか、どろどろに汚れてしまったから、きれいなものに着替えさせてあげようってしたわけね。立村くん、頭いいなあ」
。なんでいきなり、私のいる女子部屋に現われて、『浴衣余っていないか、美里』と声を掛けるのか、怪訝に思ったものだった。どうせなら男子の部屋からもらってくればいいのに。でもそういう事情だったらしかたない。立村くんの指示だったんだもの。
貴史はココアの残りを飲み干した。
聞いていて気持ちいい内容ではなかった。私はケーキを半分残したまま、フォークを置いた。
「国枝の様態が落ち着いて、とりあえず蒲団に寝かせてから後始末して、シーツを風呂場で洗ったりしてたんだ。立村が小学校六年間保健委員やらされていたってこと、その時に初めて聞いたんだ。『しょっちゅうだから慣れている』んだとさ」
「初耳だわ」
附中に来るような連中は、たいてい学級委員か学習委員、図書委員経験者がほとんどだった。偶然かもしれないけど、体育、保健委員だけやって青大附属に入学したという奴はいなかったように聞いている。理由はわからない。学級委員を務めておくと青大附属入試の際、有利らしいという話をちらっと聞いたことがあるくらいだ。
立村くんの持つ雰囲気からすると、典型的な学級委員タイプ、そんな感じだった。
あまり声高にものを言うわけではない。目立つわけでもないのに、立村くんが教壇の上に立って静かに話を進めようとすると、いつのまにか揉め事も片付いている。男子の間限定だけど、信頼されているんじゃないかって思っていた。
「ある程度片付いてからな、立村に国枝がなぜああなったのか説明してもらったんだよな。原因判明、同じ部屋の誰かがタバコを持ってきて、回し飲みしたらしいんだなあ、ったくボケが」
「しゃれになんないよそれ、よくばれなかったよね」
「立村が最初の段階で菱本先生を呼ばなかったのは、そこらへんが原因だったらしいんだ。ったく、南雲どもったらばっかじゃねえか? タバコを三本くわえさせて、そこに火付けたりしてたんだと。救いようねえよな」
「無理やりなの?」
「そこまでは聞かなかった。ただ、国枝のようす見る限りだと生まれてから一度もタバコを飲んだことがなくて、煙を吸ったとたんむせるだけむせてって感じだぞ。タバコ三本だぞ、死ねってことだよな」
「ほんと、男子ってばっかみたいよね。そりゃ女子でもタバコもってきている子いたから別になんとも思わないけどさ」
「お、いたのかよ」
「内緒よ、他のクラスの子だし。でもねえ、三本一気に吸ってみようなんて発想は、まずふつうじゃあ思いつかないよね。受けを狙ったの、それとも本当に試してみたかったのかなあ」
「その辺は国枝本人に聞いてみねえとわからねえよ」
貴史は事実関係を伝えてくれただけだった。
「あの直後に菱本先生を呼んだら、たばこを吸って大騒ぎってのが全部ばれちまうだろ。立村はともかく、あの部屋にいた連中はみんなつるんでいたみたいだから。残りのタバコもおっぽり出して、逃げ出してしまったんだもの。立村も頭抱えたと思うぞ」
「そうか、タバコの匂いがしたら、一発でばれるもんね」
「入学一週間で停学くらってみろ。しゃれにならねえ。とにかく国枝がぶっ倒れた段階で、他の連中がパニック状態になって。ちょうどその時に立村が風呂から帰ってきたんだと。あいつ一人、たまたま時間を遅らせて入ってきたらしい」
立村くんだって帰ってきたら、タバコの匂いとぐちゃぐちゃの蒲団状態だったなんて、そりゃあ困ったことだろう。
「でも、そこからが立村のすごいとこだった。まず、うずくまって吐き続けている国枝をトイレに連れて行って、背中をさすってやったろ。その後で、他の奴らに『隣の部屋に行っていろ』と指示したらしいんだ。『タバコのことはなんとかするから』とかなんとか言って。その後はまあ、今話した通り。トイレに全部、タバコ関係のものを流して証拠を消し、浴衣を用意して着替えさせてやり、ある程度片がついた段階で、菱本先生を呼び出したってわけ」
私が聞いた話では、「国枝くんが倒れるとすぐに、菱本先生が車で病院に運んでいった」って話だけだった。立村くんの活躍は全く、女子の耳に入っていなかった。
「ということはうちのクラスの男子、三分の一は立村くんのおかげで停学食らわずにすんだというわけね」
「そういうこと。菱本先生だけはなんだか、うさんくさそうな顔をしていたな。『どうしてもっと早く呼ばなかった!』とか言って立村を怒鳴りつけていたけどな。あいつ、一言も言い訳しなかった」
「よくわかった」
「帰りのバスの中で、『立村って、すごい奴だな』って男子みんな絶賛してたぞ。次の週にあいつが評議委員にあっさり決まったのは、そのあたりの人徳じゃねえかと俺は思う」
「見た目おとなしそうなのにね。なんで男子が一目置いているんだろうなあって思ってたけどね。男子グループみな派閥なく、納得してるんだもん」
「でもな、美里」
窓辺に立ち、貴史は外を眺めた。伸び上がってちょっとだけうなずいた。
「あいつ、本当ははったりかましているんじゃないかなあ」
「え?」
「本当のところを見せたくないって言うか、わざと計算高い振りをしているっていうか」
「どういうことよそれ?」
チャイムが無表情に鳴り響いた。
「ほら、奴が来たぞ。お待ちかねだろ、美里」
素早く階段を下りていく貴史。
ふたりっきりなのを忘れていた。