その三 あの頃との再会
その帰り道だった。
久しぶりに遠回り方向へ自転車を向けた。お昼過ぎとあって学生服姿の集団が黒っぽく歩道を埋め、歩いていた。徒歩で通学している生徒たちだった。友だちから聞いたところによると、公立中学では自転車通学を全面禁止にしているらしい。まあ歩いて十五分程度のところに住んでいる奴ばっかりなんだもの、それほど困るということもないだろう。青大附属の場合は立村くんのように、本来汽車で通学しなくてはならない生徒だっている。その点条件が違っているのだろう。一言で「自転車で十五分程」と言ってしまえばすぐ近くだと思われそうだけど、歩いてみりゃわかる。四十五分くらいたっぷりかかるんだもの、青大附属の生徒たる私にとって、自転車を使わない生活なんて考えられなかった。
公立中学の生徒たちが通学路をうねうねしながら歩いている。していた。自転車用道路にも人がはみ出している。ハンドルを切って前に進もうとするんだけど詰まってしまって動かない。仕方ないので徐行運転に切り替え、片足をペダルから離して進んだ。うっかりたちの悪い奴にひっかかってかつあげなんてされたくないもの。
どこからともなく聞き覚えのある声がした。
「清坂じゃないのか、あれ」
斜め後ろから聞こえてきたのはざらついた声だった。返事しろよって感じで甘ったるく聞こえた。声の主がわかりそうでわからなかった。
「お前、附中だろ。どうしてこんなところ通るんだよ」
悪ぶった口調で、声の主はだんだん近づいてきた。
私は自転車を止めるかどうかで躊躇した。
いったん停めると後ろから来る人に迷惑をかけてしまいそう。
本品山に知り合いって、いたっけ? 心で首をひねっているうちに、さらに向こうは私に畳み掛けてきた。
「青大附属行ったからって、お高く留まってるんじゃねえよ」
ちょうど私の左隣にその声がぺったり張り付いた。
ようやく背中、肩に当人のけはい。思わず斜めに身体を引いた。
無理やり、私の隣へ自分の自転車をつっこんできたらしい。ちらと横目で見やると、そいつは真っ黒い詰襟の学生服でしっかり場所を確保していた。もう一度よおく顔を覗き込み、なんだかほっとした。だってこいつ「お久しぶり!」って声掛けられる奴だもの
「なあんだ、榎本じゃない、けどずいぶん髪の毛伸びたよねえ」
榎本は返事をせず、額いっぱい覆っている前髪を雑に横へ流した。返事をしないで私ににやっと笑いかけた。榎本と当時おしゃべりしていた頃は、こんなに悪ぶった言い方する奴じゃなかったんだけどな。ちょっとどうしてこんな風な言い方するようになったのか、興味を持った。懐かしさかもしれない。
「あ、そうだ、これから暇なの?」
榎本の額にかかる長めの前髪に目をやったまま、私は誘った。
「とりあえず、久しぶりだしさ。どっか空いているとこにいこうよ。あんた、別に今日、彼女とか待っているわけじゃないでしょ。見たところひとりみたいだし」
榎本はゆるゆると私に合わせた速度でペダルを漕ぎ、片手を離して親指を立てた。OKのサインだ。ほんと、こいつ一年も経たないうちに、男子臭さでいっぱいになっている。
「さあな、でも、その誘い、受けて立とう」
そう簡単に縁の切れる相手でない男子が、私には貴史以外にも何人かいた。
六年の秋、塾の合間に出かける遊び場は、ほとんどが本品山の児童館だった。
自分のいる学区からは自転車で二十分くらいかかる場所だった。汽車で二駅くらいかかりそうなところで、私の家からはかなり離れていた。ちなみに立村くんの住んでいる品山地区とは地名が似ているけれども、実際はかなり離れているはずだ。
駅前ということもあって、コンビニエンスストアもあればゲームセンターもある。お小遣い持っている子がいればひとりがジュースを一杯注文して、ファーストフードのハンバーガー店にたむろうことだってあった。
今思えば五年の秋以降、私はクラスの女子から離れて行動するようになっていた。いろんな事件が重なったのもあるし、クラス担任とは一層険悪な関係になったというのもあるけれども、とにかく一緒に顔を合わせるのが苦痛になってしまったのが一番の理由だった。いくら仲良くたって貴史だけでは埋まらない友だちという場所。別の子ともっと喋りたい、一緒にいたい。そんな気持ちでたまたま足を向けた先が、本品山の児童館だった。
二階建ての蔵っぽい雰囲気の白い建物だった。遊び道具は大抵のものがそろっていた。入り口の「来館者ノート」に名前、学年、小学校名を記入したあと、常連の友達名も探し、声を掛けるのが常だった。知り合いがいればすぐに探し、いなければ来ている子を無理やり友だちにして、バトミントンの相手に指名したりもした。
同級生と違って、児童館の友達とは毎日顔を合わせるわけではない。学校で嫌なことがあった時などは、児童館の友達に思い切りぶちまけ、悪口を言い合った。顔も名前も一致しないのだから、なにかトラブルがあってもそれほどあとくされがない。そのあたりは安心だった。またどんなに言いたい放題本音を言ったところで、告げ口される心配もない。自転車で二十分近くかかるということもあり、同じ小学校の児童を見かけたことはなかった。
児童館の常連として「来館者ノート」の中にいつも名前が残っていたのが「榎本晶」だった。いつも美里の行く時間帯に、ひとりで二階図書館の本を読みふけっていた。
貴史に話したことのない野郎友達は、榎本だけだった。
「青大附中模擬試験」を受けに榎本に誘われたこともあった。児童館が五時で閉館した後、なんだか遊び足りない気持ちで榎本の家についていったこともあった。
「榎本、本品山中学に行っていたんだね。知らなかったな」
「悪いな。どうせ俺は附中にすべったぜ」
三月を境に私は榎本と連絡を断った。電話番号は教えてもらっていた。でも一度もかけたことがなかった。私の電話番号は教えなかったから、向こうから連絡をしてもらうということもなかった。
あの頃の思い出がふつふつとよみがえり、なんだか家に帰りたくなくなる。
カラフルなスカートとトレーナーを着ていた一年前と違い、今はそれぞれの中学制服のままだけど。
「児童館に行かねえか? もう中には入れねえと思うけど、バトミントンのラケットくらいは貸してくれるんじゃねえかな」
「いいね、それ」
児童館はここから五分くらい漕いでいけばすぐだった。榎本はポケットから白い小箱を取り出し、私に差し出した。水色の包装に一見タバコかと思った。
「やだ、あんたたばこなんか吸っているの、不良なんだあ」
「中見て吸って見ろよ、本物の煙草が食えるか?」
片手で器用に蓋を開け、私の鼻先に突きつけた。
「あ、ほんと。チョコレートだだ」
「何も食ってないだろ、食っちまえ」
「おなか空いてきちゃったよ。匂いかいだらなおさら。でもよく学校で取り上げられないね。持ち込み禁止とか言われない?」
「そんなまぬけな真似しねえよ」
口調が一年前と比べて、無理やり悪ぶっているように聞こえた。食べ物をくれるというのが榎本の感情表現そのものだと、私は前から知っていた。去年の今ごろも榎本は、会うたびに小さく包まれたスポンジタイプのチョコケーキ、みかんのぐみキャンディ、細かく切り落とした金太郎飴、などなど持ってきてはぽんと手に握らせてくれた。食欲旺盛、ダイエットのことなんて全然考えていない私は大喜びで受け取っていた。
私は榎本の前に自転車を置くような格好でいきおいよくペダルを踏んだ。二台並んでななかまど並木をくぐりぬけた。陽が遮られているせいか、学校のななかまどの実にくらべて色濃く見えた。少し赤みがさしている。らんらんと実をつけ、風で揺れていた。
ななかまどか。
榎本と最後に会った時、初めておかし以外のものをくれたっけ。
黄色い、やたらとすっぱいジャム。
ななかまどの実をつぶしたジャムだって言ってた。
小さい瓶に詰めてあったっけ。
忘れていたかったものに触れてしまった。振り切るように漕いだ。
児童館は、あとひとつ小路を左に曲がるとすぐだ。
榎本は、車道から車が来ないのを確かめて、一気に私を抜き去った。目の前に尻突き出して走っていた。
予想どおりだった。
児童館は中学生になった私たちを受け入れてくれなかった。
使用可能なのは小学校に通っている「児童」のみ。中学生になると「生徒」と呼び名が変わるという理由でだった。せめてバドミントンくらい貸し出してほしかったけど、それもあっさり断られた。
「私たちも年食ったのね」
自転車の鍵をはずした。出発準備をしながら私は榎本を見上げ、ため息をついた。
「制服着ていたから、ばればれだ。なおさらだろ」
「これからどこへ行こうか、まだ昼間だしね」
すぐに思い浮かばなかった。榎本からもらったシガレットチョコを口にしても、かえっておなかが空くのが増すだけだった。ファーストフードのお店に入るという選択肢もないわけではないけど、小遣いが足りなくなりつつある今の私に三百円以上の出費は赤字だ。
榎本は何も言わずに私を見下ろしていた。
穏やかに、でも帰りたくないといった風に。私も何か物足りない。
「どこでもいいよ」
「じゃあ、俺の家に来ないか」
「それもそうね」
私はうなずいた。
「そうだね、私も暇だし」
何度も通ったことのある道だった。榎本の両親はふたりとも、真夜中まで帰ってこない仕事だと聞いていた。私も今まで会ったことはなかった。気兼ねしないで遊んでいられる場所だった。
児童館で初めて榎本に話しかけたとき、
「ねえ、どの小学校なの?」
「え? あ、本品山」
戸惑いながらも二言三言ことばを返してくれた。前から何度か顔を見かけていたけれど、本ばかり読んでいるような男子だったし、集団でつるんで遊ぶこともなく孤立したタイプだった。いつもだったらそんな奴に目なんてくれないと思うのだけど、一年前の私はどうしても声を掛けたくてならなかった。タイミングを見計らい無理やり誘った。
「ねえ、卓球やろうよ。それくらいできるでしょ?」
たまたまバドミントンのラケットが足りなくなっていて、卓球する場所しか空いてなかったからだった。十分よい言い訳になった。
それがきっかけで榎本とは少しずつ話をするようになった。
「六年になってから青潟市外より転入してきたんだ、今までは市外にいたんだけどな」
「ふうん、今の時期に?」
「青大附属受けるから。けど、前通っていた学校とは教科書の進度が全然違うし、話も合わないしさ」
「ふうん、じゃ、どこで友だち作るの? やっぱりこことか? だけどあんた全然喋ろうとしないじゃないのよ。だったらいくら欲しくたって友だちになんてなれないよ」
「塾行ってるから」
私の通っている塾とは別だったけど、少し近づけたような気がした。青大附属を受験する同級生はそれなりにいたけど、学校の勉強だけではどうしようもないと自分でもわかっていた。塾の友だちと学校の同級生とは、やはりおしゃべりの内容も違う。いつのまにか児童館に来るたび、榎本が図書室に座っていないかを探すのが習慣となっていた。
もし転校生だったら、榎本なんて虫の好かない陰気な優等生だと決め付け、私も相手にしなかっただろう。どうして児童館の中だとこういう奴を平気で受け入れてしまえるのかよくわからなかった。学校ではなんとなく禁句となっている「青大附属受験」も、ここでは解禁。安心してしゃべっていられた。
「うちの親たちにはね、『行きたいなら行けば』って言われてるんだ。私も今の小学校いやだし、行けるなら行きたいよ」
「じゃあどんな準備してるんだ? 塾かやはり」
「うん、問題集を解くくらいだけどね」
榎本は少し私を馬鹿にしたような目で見つめると、大きく両手を広げた。青大附属の具体的描写をし出した。
「青大附中ってさ、すごいんだぞ。この辺の学校みたく、石炭ストーブじゃないんだって。みんなスイッチひとつで教室全部暖まるようになっているらしい。授業では映画も見られるし、理科の実験用にサルも飼っているんだぞ」
「サルって、何のために?解剖するの?」
「知らないけど、いるんだってさ。先輩が言ってた」
榎本と過ごすたび、青大附中でブレザー制服を着て走り回っている自分の姿がくっきりと浮かび上がってきた。
「受かったらまず、確認しなくちゃね」
私は榎本に約束した。指きりさせた。
「まず理科の実験用サルが本当に飼育されているかどうかを確認しなくちゃね」
あれは一月の半ばだったと思う。
「直前模擬試験があるから、清坂も来いよ」
榎本に誘われて登録した『青大附中模擬試験』の帰り道だった。
夕方過ぎ、また児童館へ立ち寄った。いつものようにふたりピンポン球を追っかけた後、、榎本は学区境界線である踏切まで私を送ってくれた。
踏み切りが上がる直前に、小さなビンをかばんに滑り込ませ無言で背を向け、ダッシュで反対方面に走り出した。一度転んで、でも振り向かずに。。
その瓶を私はまじまじと見直した。
薄黄色で、つぶつぶしているジャムらしきものだった。
ラベルには小さく、『ななかまど』と書いてあった。
「え? 榎本、何これ? ななかまど?」
七回かまどに入れても煮えなかったという言い伝えのある樹木で、青潟の街ではしょっちゅう見受けられるものだった。小豆大の橙がかった赤い実がにぎりこぶしひとつの大きさに固まってぶら下がり、細かく揺れていた。あれは観賞用の実と聞いていた。
どうしてくれたのかわからない。聞こうとした時にはもう、榎本の背がはるか遠くに向かっていた。私は立ち止まったまま、榎本を見送っていた。
すっぱさの方が強かったけれど、私は誰にも見せず、少しずつなめた。自分用のスプーンをこっそり用意し、姉、妹の目を盗んでなめた。誰にも見せたくなかった。
榎本への答えだった。
──あいつがが同じ小学校だったら。
その日以降、私は児童館に一度も足を踏み入れなかった。理由はそれなりにある。青大附属受験前だし、遊んでいられないってこと。もともと小学校の知り合いにはそこらへんで遊んでいる子がひとりもいなかったし、たいして怪しまれることもなかった。
同時に私は、貴史をなんとかして青大附属受験させるべく、計画を練りだした。
榎本の家に到着した。入ってみてぐるっと見渡してみて、一年前より少し、黒っぽい色調が増えているのに気が付いた。男子の好きそうな超合金のロボット模型やプラモデルなどはほとんど見当たらなかった。車雑誌が山積みになり、床に放り投げられていた。写真集のようにつるつるした、紙質のカタログだ。高校生が読むような週刊誌も広げて裏に置かれていた。表紙がショートカットのアイドル歌手で、ミニスカートでチアガールファッションでぼんぼんを振り上げている。
──本ばかり読んでいた榎本なのにな。
難しそうな本が本棚に一冊も見当たらないというのが意外だった。いわゆる週刊誌に埋め尽くされていた。
榎本お手製のチャーハンをたっぷり盛り付け、電子レンジで暖め二人分の取り皿とちりれんげを持ってきた。自分の机の上にどすんと置いた。添えるお茶はウーロン茶で。中華料理って感じだった。もう空腹の限界状態だった私は、女子らしくおちょぼ口でなんてお上品なことしてられない。私は立ったままちりれんげと取り皿を手にした。机を見下ろす格好で、チャーハンを移しかえては食べ、食べてはすくい、を繰り返した。
「本当に飢えてるな、清坂」
「青大附属まで毎日自転車で通っているんだもん。二十分はかかるのよ。大変なんだから」
すべて平らげた後、私と榎本は床に座り込んだ。胃袋が満足したせいかだんだん眠くなってきた。榎本の本棚にもたれ、脚を伸ばしてふうっと息をついた。お盆にウーロン茶を載せ、榎本は私の隣においてくれた。
「あのさ、清坂」
なんだか眠くて、だるくなっていた。榎本のことばを何気なく聴いていた。
「附属って面白いか?」
「そりゃあ、いいよ。私なりに『青春を謳歌』しているつもりだけど」
「あ、そういえば入試の時、『謳歌』って出たよな」
「私、しっかり書いたよ」
「俺さあ、『謳歌』と書けなくて『欧化』って書いてさあ。たぶん、あれで落ちたと思うんだ」
「社会の『欧化政策』と間違えたんだ! 思いっきりまぬけよね」
机の上にメモ代わりにしているレポート用紙に大きく『欧化』と書き、榎本はシャープペンシルを取り出した。
「もし受かっていたら、清坂と一緒だったんだろうな」
いまさら聞かなくても、何度も考えたこと。
もしあの時、榎本と付き合っていたら、そして同じ青大附属に通っていたら。。
時と場所の差は、簡単に越えられるものではない。もう私は、一年前ななかまどジャムをもらってどきどきしていた自分ではなくなっている。ふと立村くんの筆跡を思い出した。榎本はそ知らぬように続ける。
「ついてねえよな」
「そう? あんたは、今、誰か付き合っている人とかいないの」
「お前の方こそいるのか」
「いないとしか言いようないけどね。それより、あんたに聞いているのよ、榎本は?」
「さあ、な」
口篭もる榎本。この言い方だといそうな感じがする。
言葉が途切れるわずかの間、私はちょっとだけため息をついた。
──一度はね、ジャムとかいろいろくれたりしたくせに、今はあっさりと他の子に乗り替えているのかな。ちょっとしゃく。
「清坂がもし、一緒だったらな、俺な、どうなっていただろう」
「どうもなっていないに決まっているでしょうが」
「すること、していたかなあ」
隣で足を伸ばす榎本は何も言わずにうつむいた。
まなざしが、長い前髪で少し隠れた。
ちっ、ちっ、とことばをまさぐるかのように舌先で音を立てていた。うつむいたまま、さっき書いた『欧化』の文字を指先ではじいていた。鉛筆書きのそれを数回なぞり、歯を食いしばっていた。硬くなったパンをかみ締めているようだった。
心臓が勝手にがんがんなり始めた。
身体の中は熱くほてってくるのに、なぜか震え走った。
これって、前の榎本と違うよ。
あんな顔して私の方を見たこと、なかったはず。
「清坂って、今見て思ったけど、『榛名七草』に似ているって言われないか」
もう一度、榎本は私の方を見て、アイドル歌手の名前を出した。
表情を読み取るのが難しい。
「たまに言われるよ。髪を切ってから特にね。もしかして榎本って、ファンなの?」
そこまで言って、さっき見た高校生雑誌を探した。確かあの表紙は『榛名七草』だったはずだ。私に似ているといわれているけれども、売り出しイメージはセクシー路線で決めている『グラビアアイドル』系だった。
「でも、あまり、好きじゃないな。雰囲気が正反対だもん」
「そうかなあ、そっくりだと思うけどな」
雑誌を手にしてみた。見出しだけをさらっと流し読みした。
『セクシーショット・榛名七草・君は僕の女神様』
すぐに閉じて、榎本の手に押し付けた。
「なんか、こういう本に載っているのがいや。ちょっと窓開けない? 暑くなっちゃった」
私は窓枠に手をかけた。手が自然と震えた。
「あ、ああ、もう少しなにか食べ物持ってくる」
あわてて榎本も立ち上がった。生ぬるい空気が私の前を通り過ぎ、戸口で消えていった。
開けっ放しにしていやに寒かった。でも榎本も閉めなかった。私もあえてなにもしなかった。
榎本の戻ってくる前に、私はもう一度例の雑誌を開き、榛名七草のセクシーショットを再確認した。
体育座りでお尻が痛くなった時の格好。膝と膝との間を緩め、若草色の水着姿で疲れたように口を半開きにしている。
──こんな格好、私は絶対にするもんか。
私に「榛名七草」のなまめかしいポーズを重ねているのだとしたら。
決して榎本を許さない。確認したいとも思わなかった。
なぜ、私を真正面から見つめようとしなかったのだろう。
──あいつ、この写真私に似ていると思って、どんな顔で見ているんだろう。変な想像なんてしてないよね。まだ一年も経っていないのに、いきなり何考えているんだろう。まさか、私のことをそういう目で見ていたなんてこと。
榎本が菓子皿に「柿の種」をたっぷり盛って運んできた。ピーナッツの入っていない、辛みの強いタイプだった。私は「榛野七草」の載った雑誌をひっくり返し、「柿の種」を片手に少しずつ受け、食べ始めた。窓から吹きぬける風を正面に受け、舌先にぴりぴり走る刺激を感じた。ずっと榎本の顔を見ずにほおばりつづけていた。
──あの目できっと、私に似ているっていう「榛野七草セクシーショット」を見つめ、「がまんしている」の?
──貴史が言っていたこと、それだよね。
家に着いたのは五時過ぎだった。
三時間近く、私は『榛名七草』のグラビアと一緒に榎本の部屋に座っていたことになる。
──今ごろ、榎本はあの写真で。
──ひとり、変なこと、想像してるのかな。
──『榛名七草』の体育座り写真で榎本は、私の顔を、おかずにしてるのかな。
すでにこの頃、私は「中学生男子特有の生理的現象」について、保健体育で習う以上のことを知っていた。
お姉ちゃんがすでに経験済だというのも気付いていた。友だちとひそひそ「あれがこなくってあせったけど、今日来たのよ、まじでどうしようかと思ったんだ」とかしゃべっていたのを聞いたことがある。
学校に行けば、その手の話ではたぶん青大附属ナンバー1を誇るこずえが、参考資料を大量に持ってきてくれる。うっかり見つかるとまずいけど、女子更衣室でこっそり読むこともある。
少女雑誌で、具体的な内容については袋とじになっている。『男の子のひそかな楽しみってなあに?』について詳しく説明してあるページは特にじっくりと読み込んだ。私にどうしても理解できなかったのは、なんで男子たちは女子のスクール水着姿にぎゃあぎゃあ騒ぐのか、どうしてスカートめくりしたがるのか、なんでグラビア写真集なんて見たがるのか、だった。
「ああそれね、男子は視覚から入るんだって。だから胸がぼいんぼいんしてるとか、ふともも丸出しとか、パンツ丸見えとかだと、あそこがびんびんになっちゃうんだって! 今度誰かで試してみようか? 美里、誰がいい? 羽飛、やっぱりああなっちゃうかなあ」
別にこずえからそそのかされたわけではないけど、やっぱり男子の「生理的現象」には謎が多い。少女雑誌の袋とじ部分を読んでも全く見当がつかない。こういう時はやっぱり貴史に聞くに限る。そこで今年の夏休み、二家族合同家族旅行に出かけた際、夜に、
「ねえねえ、裸の写真とか見ている時って、何考えているの?『男の子のひそかなる楽しみ』について教えてよ」
直接聞いてみたりもした。旅館の部屋で、他の家族がみな出払った中、
「よくもま、男にそんなこと聞けるよな」
とあきれられた。けどちゃんと聞きたいことは話してくれた。
「先輩が言うには、『脳天がはじけるような感覚』なんだってさ」
ほんとに先輩の話なんだろうか。もっと実体験に添った理由を聞きたいものだ。さらに尋ねた。
「肝心のあんたはそういうこと、うちでしているの?」
「美里、お前な、これ以上言ったら、そこの温泉に沈めて土座衛門にするぞ」
そんなあせらなくたっていいじゃないの。さすがに旅行をサスペンス劇場にする気はさらさらないので私は逃げた。ははん、あれは絶対、思い当たる節があるに違いない!
ちなみにその話には続きがある。移動中車の中でふたりっきりになった時、貴史が思い出したように付け加えたのだ。
「あのな美里、俺たち男子がやらしいやらしいって騒ぐけどなあ、しょうがねえだろ」
やったことのない奴なんていやしねえよ。それこそ、立村だって男だから、経験ないとは言わないだろうし」
「見たわけじゃないんでしょ。人のことを勝手に想像するのはやめなさいよ、ったくだからあんたってばっかみたいっていうのよ。いい? 男子全部に対して言ってるんじゃないの。羽飛貴史、ご本人だけよ!」
例に出された立村くんの名で、私の頭はこんがらがってしまった。絶対、そんなわけない、絶対例外よ、そう絶叫したくなった。
怖いもの知らずのこずえが弟をからかうのりで、
「ねえ立村、あんたさ、もちろん毎日、しっかり夜抜いてるんでしょ? 悪いことじゃないんだからさ、しっかり励んでおくんだよ。そうすればすっきりして、ほら、今みたいにぼんやり考え事するひまなくなるんだからさ。ったく、あんたって欲求不満解消するのに罪悪感ばりばり感じてたりする?」
この手の質問をたまに浴びせていることがあった。
どんな答えを返してくれたのかは聞いたことがなかった。
こずえに聞けば教えてくれるだろうけど、立村くんの答えなんて、聞きたくなかった。
もっとも私だって小学校六年の時、『性教育ビデオ』を見せられた直後、奴に質問されたからおあいこだ。
「美里、「生理」って、鼻血と同じ血が出てくるって本当か?」
さすがに最初はぎょっとしたけど、同じクラスの女子みたいに、
「やあだ、あんたすけべだよね。最低!」
隠し事しちゃうのは絶対にいやだった。
「百科事典で調べてみよっか」
さっそく貴史とふたり、図書館の辞典を開いてじっくり読みふけった。
「たぶん鼻血もあれも、人間の体内でこしらえられるんだから同じなんだろうな」
「そうだよね、そういえばうちの学校、理科の実験でどうして蛙の解剖やらないんだろうね」
自然と話がそれ、その時もうやむやになった。
私はこずえから借りた『男の子のひそかな楽しみ』に関する袋とじのページを机のファイルから取り出し、読み返した。
初めて読んだ時は学校の休み時間だったけど、あの時は気分が悪くなり、次の日、給食が食べられなくなったことを覚えている。胃がむかむかして、授業を抜け出し保健室でちょっとだけ横になったっけ。その時の献立はクリームシチューだった。
『フィニッシュの時、噴き出す白い液体が』
のくだりまで読みかえした。具体的な身体の造りを指し示す図まで載っていた。その際にどういう格好で行う漫画タッチのイラストも一緒のページだった。生々しい指先の描き方がリアルすぎた。
──榎本もそういうことしてるわけないよね?
そう思いたかった。
なのに、部屋で見たのは「榛名七草」のセクシーショットだ。
しかも榎本は私と「榛名七草」を重ね合わせているときた。
写真を見た時のまなざしを私は受け入れられなかった。口を尖らせ、目はうつろだった。貴史から聞いた「男の子のひそかなたのしみ」はそこから来ているのでは。
榎本にイラストのポーズが重なった。目をつぶって首を振り打ち消そうとしても、焼きついて離れなかった。
児童館で遊んでいたあの頃なら、いくらでもおしゃべりすることができたのに。
感極まっているような男子の形に重なってしまうのが怖くてならなかった。榎本も、貴史も、立村くんも。