その十二 あとがきはめくれない
今年の雪は遅かった。たいてい十一月の終りにはつららもぶらさがり、そのつららを折ってコップにつめて水を入れ「オンザロックだよね」とか言い合えたのに。なんと十二月になってからやっと本物の雪がちらついてきた。これだけ積もったら雪合戦やりたいけれど、さすがに私の方からは言い出せなかった。女子って不便だ。こういう時こそ貴史頼み。男子が盛り上がってくれるのを待つしかない。あおることだけはする。
「スカートじゃあ、雪投げなんて出来ないよ」
私はマフラーを深く巻いたまま、じっと外を眺めていた。
「何言ってるんだよ、ばっかみてえ。どうせ美里のことだしさ、明日にはなにかやるつもりでいるだろ」
「来年になったら全校雪合戦があるらしいという噂は聞いているんだけどね」
「来年まで待てるのか?」
「待てない。絶対、待てないね」
「じゃあ、方法を考えろよ。美里だったらそのくらいお手のもんだろ」
教室の隅で、貴史はヒーターにもたれたままつぶやいた。
「そうだ、立村、お前もやらねえか」
数学問題集の答えを真剣な顔してノートに写している立村くんは、表情をやわらげ振り返った。
「手袋は、それ専用の防水ものを用意しないとまずいかもしれないな。やるなら早いうちに、話を持っていった方がいい」
毛糸の手袋では、長時間雪玉を握るのが困難だ。
「期末テストが終わったら、やろうよやろうよ。どうせ冬休みになったら評議委員、みんなビデオ演劇の方で手一杯になっちゃうんだから」
「あやりたくないよな」
評議委員会ビデオ演劇「忠臣蔵」で浅野匠之頭をおおせつかっている立村くんはため息をつきながら、再び机に向かった。
次の授業まで五分前。私は科目が数学であることを確認した後、教室を出た。
あの学級文集会議から一夜明けた。
私なりにいろいろ考えたり気を遣ったりしていたこともあって、別段変わったことは起こっていなかった。文集委員の二人が、ちょくちょく職員室に呼び出され、原稿の準備をしている様子は大体窺い知れた。でも、「文集作りは文集委員を中心に」という菱本先生の意向もあって、他の連中に詳しいことはもれてこなかった。
立村くんも、班ノートのことについてはそれ以上何も言わなかった。はたして貴史は、『裏・ノート』の終了に伴う何かを伝えたのだろうか。そのことすら、聞き出せずにいた。
クラスの連中もなぜか立村くんの過去に関しては関心を示していない様子だ。すでに立村くんは青大附属で評議委員という、それなりの立場にある。青大附属での姿を見ているだけだったら、「泣き虫でいつも周囲からなぶられていた」と思う人はいないだろう。
──とっくに立村くんは、青大附中で受け入れられているのにね。
──隠したい気持ちはわからないことないけれど、でも。
──貴史の言う通りだよ。いまさら、誰が嫌いになるっていうんだろうね。
職員室に寄った。先生たちのお荷物運びだった。数学だから重たいものはないけれど、チョーク箱と教科書くらいは持たされるだろうと思っていた。。
昼休みに入ったばかりだった。職員室の前には先輩たちがうようよしていた。知り合いの先輩に軽く会釈して入ろうとすると、なぜか菱本先生の机そばに加奈子ちゃんが立っていた。
文集委員のことで呼び出されたのだろうか。
「加奈子ちゃん、文集委員の仕事って大変でしょ。しょっちゅう先生に呼び出されるしね」
私の顔を見ると加奈子ちゃんはまた微笑んだ。
笑顔の影で、この子なに考えているんだろう。
前の日の文集ホームルーム以来、私は加奈子ちゃんと一度差しで話す機会を虎視眈々と狙っていた。立村くんや貴史が気付かぬところで、一度はっきりとさせておきたかった。
計画もよく練った。ふだんおおっぴらに恋愛話をしない加奈子ちゃんが、浜野のことを白状せざるを得ないよう、話の持っていき方をよく考えた。
「編集委員になっておけば、みんなが削りたいところ、前もって確認できるでしょ。先生にこっそりばれないようにすればいいから」
「もしかして加奈子ちゃん、前から編集委員やることになっていたの?」
「うん、言わなくてごめんなさい。でも、ちゃんとあとで削ってほしいところ、教えてもらえたら、全部削るから安心して」
笑顔の影にうっすらと浮かんでいる、わけのわからないものが見え始めている。心霊写真のもやに近いようなもの。加奈子ちゃんをえたいのしれない存在として感じる正体がようやくつかめてきた。
「ありがと。それより、ちょっとだけ聞きたいことあるんだけど、いい?」
曇りない笑顔で、加奈子ちゃんはうなずいた。廊下の窓辺に立ち、気持いい程度の隙間風を感じながら加奈子ちゃんを逆光方向に立たせた。
「私、今、すっごく悩んでいるの」
切り出して、ためらった後。
「立村くんが加奈子ちゃんのこと好きだったでしょ。でも、加奈子ちゃん振っちゃったでしょ。私、立村くん好きだから、どうして降っちゃったのか知りたかったのよ」
悩んだ末がこの言葉か。思い切ったことを言ってしまった。
「加奈子ちゃん、彼氏いるってほんと?」
「そんなこと誰から聞いたの?」
窓際のななかまどに雪が積もり、揺れるたびにはらりと落ちる。
私は軽い調子で続けた。
「立村くんがそんなこと言ったの?」
「ううん、この前、本品山中学校のところで、加奈子ちゃんとサッカーボールを持った男子が一緒に歩いているところ見ちゃったんだ。言わなくてごめん」
「他の人に、そのこと、言ってない?」
私は首を振った。貴史も一緒にいたことは伏せておいた。
「よかった。清坂さん、どうもありがとうね。みんなに知れたらまた、仲間はずれになるかもしれないもの」
「うちの組の奴、そんなせせこましい根性持っている奴、いないじゃない。なんでそんなこと心配するの?」
「だって」
加奈子ちゃんはうつむき、やがてしっかと顔を挙げた。
「清坂さん、立村くんのこと、本当に好きなの?」
思いつめたまなざし。握り締めた両手。
私は答えず知らん振りしていた。何言い出すんだろう。加奈子ちゃんは続けた。
「私、あの人好きじゃないの。だから、本当のこと、教えてあげる」
「どういうこと」
「立村くんが書いたこと、覚えている? 昨日、菱本先生が話していたこと」
「ああ、立村くんの過去の話ね」
知らないふりして私は相槌を打った。
「あれは本当のことなの。本当に立村くんの身の上に起こったことなの」
「告白された時に、そんなこと言われたの?」
「そんなこと、なかったわ」
うそ、と私はつぶやいた。
立村くんは『加奈子ちゃんに振られちゃったね』といわれても反論しなかったっけ。
「私は、あの人が許せないだけなの」
私は黙って、加奈子ちゃんの目を見つめていた。
「私と彼、小学校六年の秋、塾で知り合ったの」
「塾?」
そりゃ加奈子ちゃんは成績優秀だったろうしわからなくもないけれど、あのサッカーボールをいじっていた浜野が同じ塾というのは信じられない。
「そうなの。彼ははお父さんお母さんに言われてなんとなくだったらしいの。だから最初から受験する気はなかったみたいなの」
すでに私が浜野の顔を知っているという前提のもと、加奈子ちゃんはさらさらと語り続けた。
「彼はやさしいの。見た目は怖そうに見えるけれど、いつも私を守ってくれたの」
「どういう風に?」
首をかしげる加奈子ちゃん、答えづらそうだ。しかたないのでなれそめを聞いた。
「手紙をもらったのが六年の冬」
あっさりと答えた。ということは、私が榎本と遊んでいた頃に若干重なるというわけだ。
「お正月の合格祈願は彼と一緒に行ったのよ。彼、受験しないのにつきあってくれたの」
さらさらと述べる加奈子ちゃん。あどけなく、やわらかだった。
「私は青大附中に合格したけど、まだ彼とのお付き合いは始まったばかりだったから、やはり会いたくて。それで約束して、お互いの学校帰りに待ち合わせることにしたの。彼、いつも私が帰ってくるのを待っているのよ。いつも、送ってくれるの。自転車で」
「レディーファーストね」
私は加奈子ちゃんののろけ話を、ドラマを観ているような気持ちで聞いていた。内容が想像つかなかったわけではない。「彼」と平然と口にし、「彼」のやさしさをためらうことなく話しつづけるなんて、いい度胸している。
「彼、照れないの。お友達にもみな、私を紹介してくれるの。堂々としているの。青大附属にそういう人、いないから」
加奈子ちゃんは言葉を切って、様子をうかがうようにじっと見つめた。
「加奈子ちゃん、いい彼氏もっていいなあ、うらやましい」
「そうなの。すてきな人なの」
もしかしたら私が榎本と、付き合ったとしたら、加奈子ちゃんと同じ行動を取っていた可能性がある。きっと恥ずかしいこといっぱいしていたんじゃないだろうか。見たくないものを見させられたような気がして、私は目をそらした。話もそらした。
「それと立村くんと、どうやって繋がるの?」
「学級名簿を彼に見せたら、立村くんのことを知っていたみたいなの」
加奈子ちゃんは少しまじめな顔をして、唇をきゅっと噛んだ。
「立村くんって小さい頃から、考えること、着ている洋服、話し言葉、みんなおかしかったらしいの。品山の子にそういう奴いないって言ってたわ」
私と貴史の通っていた小学校にだって、ああいうタイプはいなかった。よくあることじゃないの。
「最初はからかっていた程度みたい。ただ、仲間に入れてあげようとしただけだって」
「いじめているわけじゃなかったってわけね」
「そうよ。いじめられたと思い込んでいるのは、立村くんだけよ。ちょっとしたことですぐ泣き出すし、テレビや漫画の話は全く関心を持たないし、なじもうともしないって。私、どう考えても、立村くんに問題があると思ったの」
納得できることもあった。繊細な立村くんにとって、浜野たちのいかにもガキ大将タイプな接し方には抵抗も当然、あったのだろう。
貴史が「立村の部屋には漫画本が一冊もなかった」って話していたっけ。
私がもし、品山小学校で立村くんがそういう立場に立っているのを見たら、どうしていただろう。ぼんやりと考えた。
「筆箱ってあるでしょう。大抵の人は、カンペンケースでしょう? 立村くんはスウェーデン製の文房具セットとか、変なものばかり持ってきていたらしいの」
「なんとなく、目立っていたってこと?」
「着ているものも普通の人はジャンバーとか、Tシャツとか、そういう軽いものばかりなのに、立村くんはコートもマント風のだとか、ボタンをはずさない開襟シャツとか、やはり普通だったら小学生が着ないようなものばかり着ていたの。青大附属でも立村くん、そういう感じでしょう。みんなあえて何も言わないけど」
同感。けど飲み込んだ。
「相当目立っていたってことよね」
「ちょっと冗談言ったくらいで泣き出すし、周りの子たちももてあまして、いつのまにか立村くん、一緒に遊んでくれる友だちがいなくなっちゃったみたいなの。みんな、一生懸命仲間に入れてあげようとしたのに、いやな態度いっぱいされるからみんな傷ついて離れただけなのよ。いじめなんかじゃないはずよ」
ここで加奈子ちゃんはきっぱり言い放った。
「卒業式前に彼を、突き落としてけがさせるようなこと、する権利なんてないはずよ」
「ちょっと待って。けがさせたことってなに?」
たぶん決闘のことだろう。詳しく知っているようだった。
知らない振りして私は促した。
「お互いの卒業式が終わって、彼と一緒にお出かけする予定だったの。そうしたら、彼が足首ひねって動けないって連絡が来たの。それでお見舞いに行ったら、腰と右足をひどく打っていてしばらく家で寝ていたって言ったの。彼、サッカー部でしょう。中学のサッカー部からも誘いがきていたので、できるだけ早く練習したかったのに、できなかったの」
同情はする。私も足首を捻挫して松葉杖ついて通ったことがあったから。
「彼、『男同士の決闘だ』とか言っていたのよ。その時は詳しいことなんて何も聞かなかった。偉いのよ。自分がけがしてしまって、やりたいこと何も出来なくなったのに、がまんしているのよ。本当だったら、その相手にもう一度文句をいいたくなるはずなのに。彼、その相手とは正々堂々と勝負したんだから、けりはついたって言っていたの」
浜野は潔い奴だ。異論はない。
「その後、D組の学級名簿を見せたら、『立村がいるのか』と驚いていて。私もびっくりしたわ。私、立村くんってあまり存在感なかったのに、評議委員になってしまっていたから、どうしてなのかな、と不思議に思っていたの。本当だったら、女子はみな羽飛くんだと思っていたもの」
加奈子ちゃんの表情はささやかな揺れも感じさせなかった。
「彼は偉いの。『俺は今だから言えるけれど、加奈子に合ったときはいきがっていたいやな奴だったんだ。俺はいじめたつもりなんてなかったけど、結局は相手を傷つけていたんだろうなあ。だから加奈子の前では最高の人間でいたかったんだ』って。四年生くらいまでは立村くん、とにかく泣き虫だったそうだから、ちょっとしたことですぐ傷ついて、彼も迷惑したみたいよ」
立村くんの家庭事情とか、両親の不仲とか、いろいろな要素が含まれていたのだろう。
「立村くんはいじめられていたと思い込んでいただけで、そんなことめずらしくないのにね。立村くんが青大附属に品山小学校から、たった一人受験して合格した時、彼は冗談でこういったんですって。『俺には青大附中の友達がたくさんいるんだからな、覚悟しておけ』って。品山小学校では、『決闘』と言って、一対一でけんかをしたい時は、相手のカンペンケースを目の前で床に落とすのが合図なんですって。昔の時代劇みたい。その後で、場所を決めて、二人っきりで殴り合いとか、いろいろするんですって」
「加奈子ちゃんの彼に勝負を申し込んだってわけかあ」
「そうなの。卒業式前に、静かに彼の机の前で、筆箱を落としてそういう意思がることを伝えたんですって。決闘、男子だったら受けなくちゃいけないでしょ。最初から勝ち負け決まってることなんて本当は受けたくなかったけど、仕方なく彼は卒業式後することにしたの。でも、彼、立村くんのことをかわいそうに思っていたのね。普通だったら殴り合いとか、するはずなのに、彼の方から『自転車でのぶつけ合い勝負』にしようって申し出たのよ。立村くんは自転車の運転が得意だったってこと、知っていたみたい」
「本当にいい人ね」
心がこもらない言い方で私は相槌を打った。
「立村くんは何もわかっていないの。どういうことをしたのかわからないし、彼は確かに立村くんの車輪に引っ掛けられる形でサイクリングロードから自転車ごと、突き落とされたけれど、もっと別の方法があれば結果は違っていたはずよ。けんかすること自体よくないことよ。でも、彼はあえて、立村くんにハンデをつけてあげたのよ。こんなに優しい彼に気付かないで、よく言えるものだわ。『殺されるよりも、殺してほしかった』って。その場からすぐに立ち去ったくせに。じっと見下ろして、彼が立てないのを確認して、自転車を漕いでいったそうなの」
「そうなんだ」
「しばらく彼は真剣に悩んだの。あれは立村くんが死ぬ気でかかってきた真剣勝負だったんだし、一対一の真剣勝負に、品山小学校でリーダーだった自分が、あの泣き虫の立村くんに負かされてしまったのはどうしてだろうって、ずっと春休み中考えていたんですって。いろいろ考え反省して、今ではきちんと『プライド』を持っていこうって決めたんですって」
「すごい」
「その話の最後に、彼は言ったの」
加奈子ちゃんはゆっくりと、真っ正面から私を見つめ、口元の笑みはそのままで続けた。
「もし、立村くんに彼のことを話す機会があったら、わびておいてくれって。お互いにいい勝負ができた。いままですまなかった。俺ももう、いじめるなんてせこい手を使いたくないって」
「そのことを知ったのは、いつくらいなの」
「今年の夏休みよ」
琴音ちゃんが立村くんと加奈子ちゃんを見かけるようになった時期だった。
動揺したのを隠すため両手に息を吹きかけた。口元を隠した。
「深い意味はなかったのよ。たまたま立村くんに彼の名前を出したら、顔色が真っ青になっていてびっくりしたの」
「まさか、いじめられたことあるの、とか聞いたんじゃ」
「小学校時代、浜野くんと同じクラスだったってほんと?って聞いてみただけなのに。ずっとそれまでは静かに話をしていたのに、なんで私が知っているのかってたずねてきて。びっくりしちゃった。それから、彼の伝言も伝えたけれど、どうなのかな。聞いてなかったみたいよ」
「そりゃそうでしょうよ」
「でも、間違いはすぐに正すべきよ。立村くんは彼からそういうことを伝えられた以上、きちんと謝るべきよ。彼に怪我をさせた分の償いもするべきよ」
語調がだんだん鋭さを帯びてきた。
「いじめられたからといって、復讐を認めるわけにはいかないと思うの。みんながその人のために一生懸命努力してくれたのに、自分ひとりの思い込みでいじめられたと勘違いしていたとしたら、それは本人が反省すべきよ。私、その後も絶対に認めなかった立村くんがどうしても許せなかったの」
チャイムが鳴り、私はいったん職員室に駆け込み、教科書とチョークを受け取り小脇に抱えた。もう一回、持ち直した。
そうしないと冷静なままでいられなかった。
加奈子ちゃんはまだ話したりなさそうな顔をしている。
立村くんの行動については、すでにほとんど見当ついていることばかりだった。
怖かったのは加奈子ちゃんそのものだった。
加奈子ちゃんが「彼」こと浜野のことが大好きだというのはよくわかった。
浜野がいい奴だということも頷ける。
卒業式後の大喧嘩でそれだけの大怪我を負わせてしまったとしたら、周囲が黙っているわけがない。いくら卒業式後でも三月までは小学生のままなんだもの、双方の親だって話し合いを持っただろうし、いくら「いじめられた」という思い込みがあったにせよ「傷害事件」には違いない。浜野には、傷つけられた被害者として立村くんを攻め立てる権利があったはずだ。
けど、ずっと黙っていた。それって、簡単にできることじゃない。
いい奴だ。本当に加奈子ちゃんの恋人は、いい奴だ。
でも、追い詰められた立村くんの気持を、どうして察してあげなくちゃ、公平じゃないんじゃないかな。加奈子ちゃんの言い分にどうしてもうなずけなかった。
「廊下、歩きながら教えてね」
私は加奈子ちゃんと並んで、ゆっくりと教室へ歩き始めた。足元が少し泥で汚れているようだった。雪で靴がぬれているせいかもしれない。
「清坂さんはもっと似合うタイプの男子がいっぱいいると思うの。どうして立村くんのことが好きなの」
「好みがあるのよ。しょうがないじゃない」
加奈子ちゃんはおだやかに微笑んだ。
「私、ただ立村くんに、あやまってもらいたかっただけなの。自分が勝手に傷ついていると思い込んでいたことを、あやまってほしかっただけなの。でも立村くんは私が頼んだことを一切、受け入れなかった。『杉浦さんの言うことは正しいかもしれないけれど、許せないことはある』って開き直っていたのよ」
「許せなかったのよ、きっと」
私は軽く流した。
「第一、彼に立村くんを謝らせて欲しいって頼まれたわけじゃないんでしょ。それなら仕方ないんじゃない」
「だって、彼は間違っていないんだもの。そして、九月の道徳の授業で、立村くんは自分がいじめられたことを、正当化しようとした文章を、班ノートに書いていたわ。私、口には出せなかったわ。彼のことを思うと悲しかったの」
加奈子ちゃんの書いたパートを読んだ時の記憶が鮮やかに浮かんだ。
そうだった。加奈子ちゃんも、怒りの文章を綴っていた。
◇
十一月十七日 班ノート 杉浦加奈子
私には難しいことわからないので、何も書けません。
立村くんがどんな過去を持っていても、たぶん他の人は何も言わないと思います。ちょっと気になるのは、古川さんのいうような、迷惑かけて平気って考えです。
いじめられたら殺してもいいんですか。人を刺してもゆるされるんですか。どっちが悪いかわからないのに。
◇
ただ言葉尻を掴んで、批判したいただけだと思っていた。
けど加奈子ちゃんがその頃から立村くんを冷たい視線で見据えていたとすると、あの言葉もすんなりと頭に入る。
──いじめられたら殺してもいいんですか。人を刺してもゆるされるんですか。どっちが悪いかわからないのに。
「だから、この前とうとう立村くんにはっきりと伝えたの。これ以上嘘ばかり書いて私たちをだまそうとするのだったら、私はみんなに本当のことを言うわって」
「この前っていつ?」
「二週間くらい前。彼の学校で直接謝るか、それとも本当のことをすべて他の人に私が話すか、どちらかを選んでって言ったの」
二週間前。本品山中学で待った、あの日だ。
北風が頭の中、吹き抜ける勢いで嵐が渦巻いた。押さえられそうになくて、足踏みをした。
「立村くんは、どちらを選んだの」
加奈子ちゃんに尋ねた。答えは知っている。表情だけを確認したかった。
「『話したいなら話せばいい。青大附中で受け入れられなくなる覚悟はしている。でも、彼に謝る気持は全くない。杉浦さんが正しいと思っていることと同じように、俺もあの時にしたことは、後悔していないから』って」
口角をきゅっと上げ、加奈子ちゃんは首をかしげたままうなずいた。
悪いとも、残酷だとも、思っていない表情だった。
「人に間違っていることを指摘されて、素直に謝らないで、さらにみんなをだまそうとするなんて、最低だと思うの。そんな人、清坂さんは許せないでしょ」
「それが本当だとしたらね」
私も釣られて頷いた。
「でも、そんなことして、加奈子ちゃんに何の得があるっていうの」
待っていた言葉なのだろう。加奈子ちゃんは言った。
「彼の痛みを、あの人と会っている間、味わってほしかったの。それだけなの」
私はすべてを聞き終えて、二年D組のドア前に立った。まだ数学の先生は教室にいなかった。加奈子ちゃんごしの窓辺に目を移した。そこにはななかまどのふさを食べている小鳥が留まっていた。
「それで私に、立村くんの過去を話したわけね」
窓辺に教科書とチョークを置いた。
「このことは、他に誰が知っているの」
「菱本先生。きちんと、こういうことは、大人に話しておかないといけないと思ったから。菱本先生も聞いてくれて、わかったって言ってくれたわ」
「昨日のロングホームルームで、やたらと先生が立村くんを責めていたのはそういうことだったんだ」
加奈子ちゃんはうなずき、はっと時計を見た。
「大変、もう授業始まっちゃう」
「大丈夫よ。私が教科書もって入らないと、授業そのものが始まらないじゃない」
加奈子ちゃんの方を優しく叩いた。
もうひとつだけ聞いた。
「じゃあ、どうして嘘を書いた班ノートを、そのまま残すようにしようって、言ったの?」
「立村くんが一番恐れていたのは、彼を傷つけたことじゃなくて、自分がいじめられていることを知られるのがいやだったからって、こと、それがわかったから。いじめられている自分を誰にも知られたくないってことが、だいたいわかったから」
加奈子ちゃんはさらりと言い放った。
強気でもないやわらかな口調なのに、言うことはきつかった。
加奈子ちゃんの脅迫通り、その事実を班ノートに書き込む。
次に『裏ノート』でそれが嘘だということを書き込む。菱本先生および、加奈子ちゃんには自分がいじめられていた過去を白状したように見せかける。
これが立村くんの取った、裏と表の賭けだったのだ。
ようやく、一連の流れをつかむことができた。
追い詰められていったのだろう。立村くんは日毎に自分の過去が暴露されることにおびえ始めていたのだろう。加奈子ちゃんのしていたことは、いわば恐喝だ。浜野のしていたことを、『いじめ』なのか、それとも『力の弱いものへの気遣い』だったのか、判断することはできない。実際見ていないことを、決め付けるのはもういやだ。
立村くんとしてはどちらにしても耐えがたいことだったに違いない。自分が感じて苦しんだことを、「勘違いしたのはお前だ」と言わんばかりのことを言われるのはきっとつらかっただろう。加奈子ちゃんからは「いじめられていないのに勝手にいじめられたと思い込んだ」とか言われて責められ、プライドを捨ててまで浜野に謝れと言われる始末。
これで神経がどうにかなってしまわない方がおかしいんじゃないだろうか?
私には貴史がいた。家族がいた。相談できる相手がいた。
立村くんには誰もいなかったのだろうか。
どういうきっかけで『裏・ノート』という方法を思いついたのかはわからない。でもその前にどうして貴史や、大好きな本条先輩に相談しようと思わなかったのだろう。
もっと早く、本当のことを話してくれればもっと、いい方法を探してあげられたのに。
私と貴史とだったら、加奈子ちゃんの計画をいくらでもひっくり返してやれたのに。
それとも私たちに言ってしまったら、また小学校の頃みたいに嫌われると思い込んでいたんだろうか? 私たちが立村くんのことをばかにしてして、加奈子ちゃんみたいなことをして、クラスからはじいてしまうなんて思っていたのだろうか。
もうひとつ、気付いたことがある。
菱本先生に立村くんが過剰なまでに反抗している理由だ。
『お前のためだから』『どうして本当のことを言わないんだ』と、菱本先生はひたすら、立村くんの中に入ろうとしている。それは浜野をはじめとするリーダー格の連中が、立村くんにしてきたことに違いない。もちろん菱本先生はいろいろ事情のある立村くんを心配しているから、しょっちゅう声をかけてやったりしているだけなのかもしれない。あの先生、私や貴史からみたら、けっこういい奴だもの。きっと悪意なんてない。けど。
立村くんにとっては、第二の浜野と同じ存在だった。
加奈子ちゃんの話からすると、浜野も悪意を持っていたわけではなさそうだ。彼なりに立村くんを気にしてくれていたのだろう。ただ、あまりにもやり方が乱暴すぎた。私や貴史のように、腹が立ったらどんどん言い返し、足蹴り加えることのできる人間ならばともかくもだ。
想像するだけだ。私に立村くんの気持ちを正確に読み取ることはできない。
でも私の心は、はっきり答えることができる。
──いまさら、誰が嫌いになんてなるっていうのよ。
貴史のつぶやいた言葉と同じものが、胸の奥にかたく残っていた。
さて、立村くんが苦労して消そうとした過去を、加奈子ちゃんは文集という形で消えないものにしてしまう予定だ。このクラスは三年間、クラス替えがない。この調子だと三年間、立村くんは加奈子ちゃんに浜野のことで傷をねちねちとささやかれることになるだろう。
表面上は「クラス文集」で過去の記録がきちんと残ってしまう。立村くんは「裏・ノート」でもって、自分なりのあとがきをこしらえようとして、失敗した。この調子だと加奈子ちゃんも、立村くんが浜野に頭を下げるまではとことん責め続けるに違いない。。
あとがきはめくれない。
めくれないあとがきは存在しない。
だから、卒業するまで、痛みは癒せない。
加奈子ちゃんは、浜野がしてきたことを『善意』で解釈し、立村くんを責め立てることで帳消しにしようとしている。
──いいわ。わかったわ。でもね。
「加奈子ちゃん」
──立村くんの痛みも、私が味合わせてあげる。
急いでドアのノブに手をかけた加奈子ちゃんを、私は強引に振り向かせた。
笑顔で首をかしげる加奈子ちゃんに、私は平手打ちを食らわせた。
ちょうど後ろに立っていた数学の先生が、あっけにとられて何も言えないでいる。ばかみたい。
私はすぐに窓辺に置いてあった教科書とチョークを持ち直し、先生と加奈子ちゃんに笑顔を向けた。
「じゃ、お先に、加奈子ちゃん」
頬を押さえて涙ぐむ加奈子ちゃんをおっぽり出し、私はさっさと教室に入っていった。
──終──