その十一 つきつけられた「班ノート」
加奈子ちゃんに振られて傷心の立村くんには残酷だけど、私はひそかに十二月のクリスマス・イブを狙って再接近計画を計るつもりだった。どうせ振られたんだったら、私に乗り換えてくれたっていいはずだし。貴史をこずえとくっつけたら、障害も特にない。
『裏・ノート』の話題は私たちの間で、全く出てこなくなった。
立村くんに確認するつもりはなかった。
ただ加奈子ちゃんと立村くんとの関係がどうしても気になっていた。ふたりとも、何事もなかったかのように受け答えしているふうに見えるけれども、私の方がそれをあまり見たくなくて、つい避けるような感じになってしまう。
もっとも「何事もなかった」とはいえ、最低限の言葉しかかけていないようすだった。評議委員会の行事でやたらと忙しく、他のことを考える余裕なんてなかったのもあるだろう。話に聞いたところによると、今年の冬休みを使って評議委員会では「ビデオ演劇」というものをこしらえる予定だという。題目は「忠臣蔵」。なんでそんな辛気臭いのを選んだのか私には全くわからない。二年生の先輩たちが夢中になって台本をこしらえているらしいけれども、一年生に子細は全く流れてこない。赤穂浪士四十七士、吉良邸打ち入り切腹、松の廊下刃傷沙汰など、常識的に「忠臣蔵」の出来事としてイメージはあるけど、どうやって「演劇」なんでやるんだろう? 私が聞いた限りでは、大石内蔵助を本条先輩が演じることになっているくらいだった。私よりももっと詳しく知っているらしい立村くんに聞いてみると、露骨に嫌な顔をして、答えなかった。無理やり聞いてやった。
「そんなに嫌がるなんて、立村くんもなにかやらされるの?」
「本条先輩、俺に何やれと言ったと思う?」
頭を抱え込んで立村くんはつぶやいた。
「松の廊下の浅野匠之頭やれってさ」
なんだかわかるような気がする。あまり突っ込まずに私なりの疑問を伝えた。
「衣装とかどこで用意するのかしら、全部着物だよね」
「演劇部とか、高校とか、大学の衣装室で大抵用意してもらえるから大丈夫なんだってさ。信じられないよな。でも、清坂氏も何か役つけられる可能性あるから気を付けた方がいい」
「討ち入りの時に吉良か赤穂浪士かどちらかの家来させられるんでしょ。討ち入りしたの四十七人だし、吉良にだってたくさん家来いただろうし」
立村くんはため息をついた。いかにも私がわかっていないと言いたげに、国語の副教材本『古典文学ガイド』をめくった。
「『勘平お軽の道行』を、実は本条先輩やりたいらしいよ。女子にも当然出てもらうって。一応、清坂氏も候補には上がっているらしいんだ」
「どんな話だったっけ。その『勘平お軽の道行』」って」
「悪いけど自分で調べたほうがいい」
「わかった。あとで国語の先生に聞いてみるね」
立村くんも照れがあるのか、あまり詳しい説明をしたくないみたいだった。
「『勘平お軽の道行』よね、わかった。あとで聞いてみる」
「たぶん絶対ショック受けるよ。」
こんな感じでおしゃべりすることが、あの日から少しずつ増えてきた。
決して私も、加奈子ちゃんのことを持ち出したりしなかったし、立村くんも次の日から全く変わらない風に私と接してくれた。
なかったことにしてあるはずだった。
それでも立村くんの想いらしきものを少しは受けとめることができたのだろう。口には出せない気安い雰囲気が私と立村くんとの間に生まれていた。
貴史もよく会話の合間にちょっかいを出し、しょっちゅう私に反撃を食らっていた。あいつの言葉が私に、今流れている温もりを贈ってくれたことも、まだ言えなかった。
──別に告白したとか、付き合ってといったとか、そういうことはなかったんだし。
コート一枚分のぬくもりが私と立村くんの間に流れるようになったのは貴史のおかげだった。
──いつか、きちんと、ありがとうって言わなくちゃ。
国語の先生から『仮名手本忠臣蔵』に関するレクチャーを受けた。
松の廊下刃傷最中に、勘平はお軽という女中といちゃいちゃしていたため、赤穂城に戻り損ねいろいろと不義理をしてしまった。それゆえに後悔してお軽と一緒に心中の旅に出る。あだ討ち資金かなにかを作りに行くのだそうだ。
いや、確かに本条先輩はそういう色っぽいものが好きだと聞いていた。考えられないことではない。何でよりによって私が本条先輩の恋人役なんかにならなくっちゃなんないんだろう。立村くんが口に出さなかったのもわかる。あたりまえよ。二股かけている男子の先輩相手の恋人役なんて、女子としてのレベルが下がっちゃうじゃないの。冗談じゃない。しかも立村くんの見ている前でなんて、絶対いや!
あとで女子評議委員みんなと一緒に談判しようと決めた。
評議委員会に携わっていると思わぬハプニングに巻き込まれることがいっぱいある。
その日の五時間目はロングホームルームだった。学級会みたいなもので、ひとつのテーマに添って評議委員中心に進めていくものだ。立村くんが仕切り、私が黒板に書きこむという、なかなか目立つ役だった。菱本先生のお題にあわせて『球技大会の反省』とか『いじめ問題』などを討論することが多かった。
少し早めに私は教室に戻った。菱本先生もすぐに入ってきた。私が号令をかける番だった。
「今日のロングホームルームは、『クラス文集作り』についてだ。立村、話をまずクラスのみんなに説明してくれ。この前話したことだ」
少しぴんとした声で菱本先生は立村くんを呼びつけ、黒板を軽く叩いた。それを合図に立村くんは立ち上がり、すうっとクラスのみんなを見渡した。
私も立とうとしたが、菱本先生に手で制された。なんでだろうか。教壇の隅でパイプ椅子に座り、菱本先生は厳しいまなざしで立村くんを見つめていた。
「ロングホームルームを始めます。本日のテーマは、菱本先生のおっしゃられた『一年D組学級文集』製作についてです」
胸ポケットにさしていた生徒手帳を取り出し、立村くんは教壇に立った。メモをうつむいたままゆっくりと読み上げ始めた。
「菱本先生の提案で、来年の三月に向けて『学級文集』を作ることが決定しました。まず、内容についてですが、クラスのスナップ写真と、それぞれがB4の用紙に一枚分、好きなことを書いて、来年の始業式までに提出してもらうことになります。内容は、文章、イラストなんでもかまいません。これは個人の自由でかまいません」
そこで息を次ぎ、もう一度クラス全員を見わたした。
「文集やるって、やだなあ、めんどくせええよ」
「でも、イラストとかでもいいんだろ!白黒なのか?」
想像したよりも反応がきつくなかった。
「そうなんだ、文集かあ、ねえ、美里。楽しみだね」
「何がよ何が」
「だって、いろんな奴の文章とか読めるじゃない」
こずえはのんきに喜んでいる。
私は続きを早く聞きたかった。貴史の反応は読めなかった。ただ、黙っていた。
「第二点は、今回している班ノートをすべて、コピーか活版印刷にまとめて一年分すべて載せます。もちろんその作業は印刷所に任せますが、そのレイアウトおよびコメント係として、文集委員を男女各一人ずつ決めることになります」
とうとう来たか。私は手を机の上で組み合わせた。
立村くんの顔色がどう変化するかを、じっと観察した。崩れるかどうか。
「うそだろお、ちょっとお。本当に班ノートを載っけるんですかあ!」
「そんなこと考えて書いてねえよ!」
「恥ずかしいよね!」
トーン高くびりびりした空気がいっぱい、熱ぼったい。
「冗談じゃないよ!美里、一体何よ、ねえ、菱本先生、なんでそんなことするんですか!」
黙っていられないこずえが直接、菱本先生に叫んだ。
「ノートなんてなくしてやるわ。もう書かない!」
私も本当は言い返したかった。でもそれよりも、立村くんがしっかと立っていられるかが不安だった。
立村くんはちらりと私たちの班を流すように眺めた。
加奈子ちゃん、貴史、私の方で瞬間、止まった。
悔しさでも、怒りでもない、あきらめたような瞳だった。潤んではいなかった。
私は加奈子ちゃんの方をちらりと見た。加奈子ちゃんの口元には、かすかな笑みが浮かび、立村くんの方に意味ありげに首をかしげた。合図をしているかのようだった。
直感が走った。
「加奈子ちゃん、やだよねえ班ノートなんて」
「ううん、面白そう。私、残しておきたいな」
私の方を見て、加奈子ちゃんはさらににっこりと笑った。
「編集したりするのって、面白そうだもの。特にうちの班ノートは、みなまじめな内容ばかりだから、宝物にしておきたかったの」
「編集って、どういうこと?」
確か加奈子ちゃんは、こっそり菱本先生から編集委員を承ったと聞いていた。
「私、編集委員、やりたいわ」
小さいけど意思のある言葉で、加奈子ちゃんは再び微笑んだ。
「先生、いいですか」
私は挙手をして立村くんに合図をした。立村くんは戸惑ったように菱本先生の方を見て、どうするかを目で確認していた。うなずいて菱本先生は答えた。
「なんだ、清坂。お前こういうの好きだろ。面白いぞ文集は」
「あのお、文集作りについてなんですが、いくつか質問したいんですけれど」
拍手喝采だ。私も一応、評議委員の端くれ、聞きたいことだけはきちんと聞いておきたかった。
「やる気まんまんだなあ、さすが評議」
楽しそうに菱本先生は答えを待っていた。
「いえ、私はどうでもいいんですけど。今回文集を作るということで、クラスのみんなから了解はもらったんですか。今の雰囲気を見ても、賛成と反対が真っ二つに分かれているんじゃないでしょうか」
「これは多数決で決めるものではないんだ。学級活動のひとつとして、絶対にやらなくてはならないことなんだ」
「それはどうしてですか」
理屈っぽいことはいえないけれど、押し付けで作らされるのはいやだった。
「いいか清坂、青大附中では自分たちの歴史を、確実に残しておくために、文集という方法があるんだ。公立の友達からは、文集なんてたいしたことじゃないと言われているかもしれないが、とんでもない。今、この場を生きている君達が、どういうことを考えていたかを、忘れずに遺しておく大切なものなんだよ」
「別に班ノートまでひっぱりださなくたっていいんじゃないですか。誰も文集になると思って書いているわけじゃないんですから。残らないと思っているから、安心して本音が書けるんじゃないですか」
「嘘ばっかり連ねたものを、誰も読みたくないだろう? 清坂は正義感が強いからそのことはよくわかると思うが」
「でも、班ノート全部掲載っていうのは、ずるいです。やり方が汚いです。載せたくない人だっているんじゃないですか」
口が滑った。頭の中に『裏・ノート』の一行一行がものすごい勢いで流れた。止められなかった。
「やるんだったら前もって、班ノートを載せるべきかどうかを話し合うべきだと思います。もちろん載せてもいい人だっているだろうし、かえって書きたい人だってたくさんいるでしょう。でも、いきなり抜き打ちみたくやられると、みんな頭に来るのは当然です」
拍手が再び。立村くんは静かな目で私を見下ろしていた。手を教机について、身動きひとつしなかった。
「それに、もしかしたら別のことを載せたい人だっているはずです。先輩たちから聞いたんですけれど、絵の得意な人に頼んで、ひとりひとりの似顔絵を描いてコピーしてもらうとか、写真集を作るとか。他の先生たちにインタビューするとか。みんなで話し合えば、いろんな案が出るはずなんです。どうして菱本先生は、そういうことを飛び越えて、いきなり班ノート掲載の方に持っていってしまうんですか」
ひゅうひゅう、共感する口笛を吹く奴あり。
「そうだな、清坂。お前は正しいよ。いろいろなことを相談するのも、いい文集作りの一つだろうな。でもな、清坂」
なぜ、ここで「でもな、清坂」が出てくるのだろう。
むっとして私は菱本先生をにらみつけた。
「今回は文集を作ることが目的ではないんだ。文集に、D組の一年を残すことの方が、ずっと意義のあることだと思うんだ。入学して、いろいろ戸惑って、悩んだり、泣いたり、笑ったりしただろう。そのことを一番、よくあらわしているのが班ノートなんだ。清坂は他の班のを読んだことあるか?」
「ありません」
「だろう。他の班ノートを見ることによって、『ああ、あの人はこんなことを考えていたんだ、この人はこんなことで悩んでいたんだ』ってことがわかる。そうすると、きっとその人の見る目が変わるだろうし、ぐっと親しみが持てるだろう」
「そうでしょうか。班と先生だけが読むものだからこそ、こっそり綴っている人だっているんじゃないでしょうか」
完全に失言だった。貴史が後ろから思いっきり椅子を蹴った。わかっているって。でも止まらないんだもの、どうしよう。
周りは一気にヒートアップして盛り上がっていいく。その分私は冷えていった。とんでもないことを口走りすぎて、とんでもない結末を迎えようとしているんじゃないだろうか。こずえも側で拍手してくれている。頭の中は完全に熱くなっていた。
「そういうものだからこそ、みんなに考えてもらいたいんだ。でもな、確かに清坂の意見にも一理あるよ。ま、座れ」
菱本先生は空気が落ち着くのを少し待ち、次に立村くんの名を呼んだ。
「立村、評議としてではなく、お前自身はどう思っているんだ」
「あまり賛成ではありません」
きっぱり、静かに立村くんは答えた。
「それはどうしてだ」
「清坂さんと同じ意見です。班ノート自体が文集作りを目的で書かれたものではありません。変な言い方かもしれませんが、人の日記を覗き込みするようなことは、やめるべきだと思います」
「そうだそうだ」後ろの席でさらに応援の声が飛ぶ。
「そうだろうか。立村、君は自分の心をそのまま、クラスのみんなに知ってもらう必要があるんじゃないのか」
「どういうことですか」
声にかすかな険が走った。
「小学校時代、君がどんなに傷ついてきたのか、どんなに苦しんできたのか、今どれだけクラスのみんなに救われているか、素直に伝えられるだろう。班ノートを読んだ人だけではなく、クラスの人、および先生たちにも」
教机についた右手がかすかに爪を立て、引っかくようなしぐさをした。その他は静かな表情のままだった。
菱本先生の言葉はさらに続いた。
「一度はきちんと、自分の感情をはっきりと、伝えることが必要なんだよ、立村。確かに書いてしまうのは勇気がいったのかもしれないし、かくして起きたい気持もわかる。でもな、いつかは自分の気持ちと向かい合って、勝負しなくてはならない時が、来るんだよ。それが、今なんだよ」
何も言い返さず、無表情のままうつむき唇をかみ締めていた。いつも沈着冷静に、表情を崩さず、穏やかに話している立村くんでなかった。一年前はこういう表情しか人に見せていなかったのだろうか。見たことの無い表情にくぎ付けになった。
幸い周りの人は誰も、ぴんとこなかったらしく、がやがやと「班ノート掲載反対!」を叫んでいるだけだった。
加奈子ちゃんがいきなり、手を挙げた。
「先生、いいでしょうか」
「どうした、杉浦」
「私、班ノートを全部掲載するのは反対ですけど、でも」
ゆっくりと、笑顔を絶やさずに、加奈子ちゃんは立村くんに向かって言った。
「立村くんが書いたことを、載せるのは賛成です。小学校時代、立村くんが六年間いじめられて苦しんできたってことが、班ノートのおかげでわかったからです。学校にナイフを持っていってしまうくらい苦しい思いをしたって読んで、私、『あの立村くんが』って思いました。きっと立村くんのことをみんな、わかってくれるんじゃないでしょうか」
もう立村くんは菱本先生の言葉なんて聞いていない様子だった。
「杉浦が先生の言いたいことをみな、代弁してくれたようなものだな。立村。そうだよ。いじめられた過去があってこそ今、青大附属にいる自分がいるんだ。丸ごとの自分をあえて見せることが、今のお前には必要なんだよ」
下を向いた目が、いきなり加奈子ちゃんに向けられていたのを、私は苦しくなる思いで見ていた。
きっと加奈子ちゃんは、立村くんのことを思って、発言したんだと。
たとえ、恋人の浜野と決闘を行った過去が含まれていたとしても。すべてを班ノートで告白した立村くんを認めてあげようとしたかのように聞こえた。
『裏・ノート』の存在を加奈子ちゃんは知らないはずだ。
九月十四日の『いじめられた過去』告白は本当のこととして認識されてしまった。
自分で小細工しすぎたために、自分の首を締めただけといえばそれまでだ。
「立村、お前いじめられていたの?」
南雲くんから何気なく飛んだ言葉に、はっと立村くんは身を起こし、なにかを口にしようとした。留まった後、
「わかりました。それでは、編集委員をこれから選びます。希望者はいませんか」
評議委員の仕事をきちんと果たすことの出来る立村くんに戻っていた。
「はい」
二人、いきなり手を挙げるのがいた。菱本先生は立つよう指示した。満足そうだった。
「金沢と杉浦、この二人でいいか?」
金沢くんは絵の得意なおとなしめの男子だった。あまり積極的なタイプではなかった。
そして、杉浦加奈子ちゃん。
「杉浦はもともと、編集したりするのをやってみたいと言っていたからな。金沢は、さっき清坂が言っていたこと、ほら、クラス全員の似顔絵書きを最優先にやってもらう。あと、写真部の連中にはあとで、いろいろ頼みたいことがあるからな」
やっと静まり返った。加奈子ちゃんは何度もこっくりとうなずいた。
「まあ、他の奴がやるんならば、いいかあ」
「どうせ立村みたく、読まれてまずいことないもんなあ」
「金沢、俺の顔は男前に書けよ」
きっと、加奈子ちゃんがはずかしげに、にっこりとクラス全員にうなずいたからだろう。私だけだった。警報ランプのようなものが、激しく点滅しているのを感じたのは。
「それならば、立村、お前は席につきなさい。かわりに杉浦、金沢、議事進行を頼む。これからは文集関係について、この二人に権限を与えるからな」
唇をかみ締めたまま、立村くんは生徒手帳を胸ポケットに納め、自分の席についた。後ろで待っていた貴史に、
「あのやり方は卑怯だよなあ、立村。まあ、俺とかは気にしてねえよ。お前もあまり落ち込むなって」
と声を掛けられていた。立村くんの答えは、やはりなかった。
後ろを振り向かなかったので、それ以上のことはわからなかった。