神々の恋の章:神王様の憂鬱3
王座のドアを音を立てないようにそっと押して、アチは自分の髪の毛を見た。
乳白色に映える真っ赤なそれは、こんなとき格別不利だと溜息をつかずにはいられない。
そう、こんなちょっと隠れようだなんてときには。どうしようもなく目立つのだ。
アチがまだメラくらいのころもこの赤毛の所為で、かくれんぼをしようともたやすくアラビューやミトゥに見つかってしまったものだ。もちろん、エラも例外ではない。一人泣き寝入りしていてもエラはあの笑顔ですぐにアチを外の世界にひっぱりだしてしまうのだ。優しい声でアチ、と呼ばれては出て行かざるを得ない。その頃からアチはエラだけには逆らえなかった。
そこで小さく、あれと呟いてしまった。慌てて口を押さえる。
ドアの隙間から見えるエラを纏う白銀の布はぴくりとも動かない。アチはゆっくりと息を吐きだして、頭のすみに小さくひっかかった小枝を拾い上げようとした。
エラに呼ばれた記憶はなんとなく朝焼けにきりがかかったみたいで、もやもやする。
なぜだろう。何か忘れているような、取り残されているようなそんな心許ない気持ちになる。
「ん……」
エラが寝返りを打つ。どうやら、アチの気配がエラの空気に触れたようだ。空の神であるエラは彼を取り巻く空気さえも無意識に自分の監視下においてしまう。
なかなか眠れないのだ、といつの日かぼやいていた。
エラのまぶたがゆっくりと持ち上がる。緩慢な動きでこちらを、扉の方を見る。
その色を、何と言えばよいだろう。
白銀とも言えぬ薄い薄い青の色。
彼の瞳はそのままこの地球ごと静かに包み込んでしまうくらい、澄んだ力に満ちていた。
「アチ」
迷いもなく、彼の口からアチの名が漏れる。
その声に、瞳に、エラの纏う気だるげな空気に、アチの赤毛は思わず逆立った。
扉を閉じる前にアチはエラの声に縛られる。
「アチ。こちらへ」
エラは体を起こし、扉の方を向いた。
ふふっと口から小さく笑い声が漏れている。
「アチ」
どうして、とアチは思う。
どうしてこの人は、こんなにも自分に優しく笑いかけるのだろう。
気をしっかり持っていないと、まるで自分が愛されているかのように感じてしまう。
ドアを大きく開き、アチは王座の間へと足を踏み入れた。エラの座る大きな椅子以外はただ広い空間がこの部屋を占めている。何もないことが、少し息苦しい。自分が来ない間、エラはこの部屋でずっと一人だったのかと考えてしまう。
「久しぶりですね。アチ」
優雅に座るエラを見て、アチは臣下の礼をとった。頭を垂れるアチがこのときエラの顔を少しでも盗み見ていたのなら、エラの顔が寂しげに歪められているのが見えただろう。
エラはユラとアラビューの言葉を思い返していた。泣かせる気は毛頭ない。けれど謝ることができないのも自分が一番良く承知していた。自分がアチをこの手で守り続けることも、かといってアチを諦めることもどちらもできない。そして、自分にアチを守る資格がないことをエラはよくわかっていた。
「どうしたのですか。よもやアチから来てくれるとは思っていませんでした」
口角を意思の力で持ち上げる。
だから、今は。仮初の恋人。
そうすることでしか、エラはアチに自分の気持ちを伝えられない。
どんなにアチが苦しもうとも。気づいてほしかった。
アチを手に入れることも、手放すこともどちらも選べない自分に思わずエラは溜息をつく。
その溜息を誤解したのか、アチが臣下の礼をしたままびくりと動いた。
慌ててアチに声をかける前に、震える声が王座に響いた。
「お願いがございます」
しん、と王座が静まる。エラは臣下の礼をしたまま震えるその声がアチのものだと気づくのに数秒かかった。アチの声は震えていて、そして、力強かった。
「何ですか?」
できる限りの優しい声で、エラはアチに問い返した。
アチがゆっくりと体を起こす。
その双眸は金に輝き、アチの赤毛はふわりと宙に浮き上がっていた。
「先日、風の神がいらっしゃったときに、エラ様が行なった行動により、一部の神が誤解しているようです。根も葉もない噂も流れております。どうぞエラ様から噂の真意を伝え、誤解を解いていただきたいと存じます」
いつになく堅いその言葉に、エラは何を言われているのかわからなかった。
否、わかりたくなかった。
アチの瞳はエラをまっすぐに見つめている。その金の瞳はエラを捕らえて離さないのに、何の感情も読み取れない。エラは思わず顔を背けた。そうでもしなければ、自分の動揺をアチに見せ付けてしまっただろう。
「わかりました。アチには随分と迷惑をかけてしまいまいしたね。誤解は早々に解いておきましょう」
エラの言葉にアチは一礼して王座を後にした。
ゆっくりと扉を閉じると、扉を背にずるずると体を落とした。
顔を、覆ってしまう。自らが決めて望んだことなのに、エラの言葉が胸の奥のすごく深いところをちくりと刺した。血がでているだろうその部分に手をあてて、ひざを抱えてアチは小さく呟いた。
「大丈夫。……だいじょうぶ」
腕に顔をうずめる。視界が真っ暗になるのに、瞳が熱くて、ちかちかする。
「泣かない」
アチはしばしの間そうして、痛みに耐えるようにずっと動かなかった。
「なんで」
独りでにエラの口から言葉がもれる。
なんでこうゆうことになってしまったのだろう。
エラは王座に深くもたれかかった。
驕っていたのが敗因だ。アチの気持ちは変わらないと。ずっとそのまま、鳥かごに閉じ込めておけると、そう勘違いしていた。羽ばたかない鳥はいない。やがてアチも飛び去ってしまう。無理に閉じ込めれば、その羽を折り、二度と飛べなくなってしまうだろう。
これは罰なのだ。アチを鳥かごに閉じ込めた自分への。アチが鳥かごに入らざるを得なくした自分への。
罰。
ゆっくりとエラはその身を王座にゆだねた。