【創生編】1
そもそもどうしてこうなったのか、と彼は問う。
目の前にはぴっちり三十度で頭を下げる燕尾服の男。
「えっと……つまり?」
「はい、貴方様は第十三代目魔王陛下にございます」
すらすらと淀みなく答えられるその言葉に嘘がないのは解る。何故か解ってしまう。
目の前の燕尾服に言わせれば、それは当然とのことだった。
そういう存在なのだから、と。
だからどうしてそうなんだというのが聞きたいのだが、どうやら彼も当事者ではないらしくそれは知らないと述べる。そしてそれも嘘ではない。
不透明な現状に思わず頭を抱えれば、かつては無かったものに手が触れる。
ごつごつとした、なんだか山奥にいそうな山羊だの羊だのに似た、角。
始めは被りものでもしているのかと思ったが、握ってみればその感触がある。
そういう器官なのだ、と身体が理解していた。けれど心が追い付かない。
本当にどうして、どうしてこうなったと玉座に座る彼は知らない天井を見上げた。
早良隼人、二十八歳。会社員。
両親共にに健在、弟が二人。実家には犬も一匹。
芋の旨い田舎で育って大学進学と共に上京し、中小企業に就職。
経歴だけを言えばどこまでもありきたりで、平凡な人間だった。
最も彼には彼だけの波乱万丈的なものがあったのだけれど、それも今となっては些細な思い出に過ぎない。
そのまま続くかと思われた平凡で、けれどきっと幸せであったろう未来は唐突に奪われた。
本当に何気ない一日だったのだ。
普段と変わらぬ一日。やや夜更かししてしまって気怠い身体を叩き起こして出社、上司に娘自慢をされながら業務を熟してどうにか定時ちょっと過ぎに家路についた。
それでそういえば今日発売だったとちょっとコンビニに寄って努力・勇気・友情の曜日発売の雑誌と、ついでに缶酎ハイを一本。
特に変わらない、一日の終わり。
もうすぐ秋になるのを予感させる夕涼みの中、人気の無い住宅街を歩く。
歩いていた筈だった。
鞄とコンビニ袋をぶら下げて、ぼんやり薄暗くなった空を見上げていたら襲いくる貧血。
お気に入りのネトゲに熱中した挙句の寝不足が祟ったか、と目を閉じてやり過ごそうとした時だった。
急に呼吸がし難くなる。
いつだったか大学の先輩に無理矢理連れていかれた富士山の山頂みたいだ、と思った。
ゆっくりと息を吸って、吐いて。
目を開けてみればそこは知らない場所だった。
ヨーロッパの城に似た、石造りの部屋。
歴史を感じさせるそこの中心に、これまた冗談の塊みたいなものが佇んでいた。
謁見の間とでも呼ぶような数段上がった場所に置かれた玉座のようなものに片肘をついて座る、それ。
形は人に似ていた。
彼の感覚で言えばコスプレした外人とでも言いたいところであったが、纏う雰囲気がそれを否定している。
平和な世界で生まれ育った隼人には解らぬものであったのだけれど、実はそれは高密度の殺気とでもいうものであった。多少のものであればただの圧迫感があるかないか程度のものであっただろう。
だが常人には有り得ぬ程のそれは彼が思わず悲鳴を上げてしまうには充分であった。
「っひ、い」
極度の緊張で掠れ切ってはいたが、零れた声。
次の瞬間には隼人は石造りの床に倒れていた。
右腹部にぽっかり空いた大穴。ほんの僅か時を止めたようであったが、思い出したかのように鮮血が溢れる。
何かが通り過ぎた感触はあれど、彼にはそれが何だったのかは解らなかった。
そしてそれからの記憶が無い。
目を覚ました時、隼人は椅子に座らされていた。
あまりのふかふか具合にうっかり寝落ちしていたのかとすら思える位の快適さであった。
けれど目に映る景色は見知らぬ、いやなんだか見たことはあるものだった。
視点は違えど彼が最期に見た場所だ、と気付いた瞬間に全身を寒気が襲う。そう、隼人はこの場所で殺された。紛れもなく死んだ筈だ。
一体全体どうしてそうなったのかは不明だが、自分の身体にどうあがいても蘇生不可能な傷を負ったのは朧気ながら理解していた。
それが見事なまでに修復されている、というかまるでそんなこと自体がなかったかのような感覚。
あれが夢だったのかとも思いたいがそうなるとこの現状が不可解だ。
そうして自分の身体を検めていると、着ているものがおかしいことに気付く。見たこともないような見事な装飾の施された黒いローブ、とでもいうのだろうか。羽のように軽いので着ていることに気付くのに時間がかかってしまったのはここだけの話である。
隼人は会社帰り、つまりいつものようにちょっと草臥れたライトグレーのスーツを着ていた筈だった。
訝しく思って首を傾げれば、さらりとした感触が首筋を擽った。
「……なんじゃこりゃあ」
どこかの刑事のような台詞を吐きながら確かめてみれば、それは自分の髪の毛であったのだ。
生まれてこのかた肩に届くほど伸ばしたことなんぞなく、というかそんな範疇を超えている長さのそれはこれはまた見事に赤い。
なんだかこの色を見たことがあるなぁ等と考えながら弄っていると、部屋に誰かが近付いてくる気配がした。
気配、なんてそんなもの判る筈もないのに。
じ、と実に重そうな作りの黒鉄色の扉を見ていれば、見た目に反して音もなくそれは開く。
そうして現れたのは温和そうな顔をした壮年の男。
ロマンスグレーの髪を後ろに撫で付け、これまた上質そうな燕尾服をきっちりと纏うその姿は実に様になっている。
一瞬どこの執事喫茶に迷い込んだのかとも思ったが、その所作の丁寧さと雰囲気、なにより顔の造作が日本人ではないのに気付いて言葉を呑み込む。
明らかにヨーロッパ系の彫の深い顔立ち。悔しいことに皺があって尚解る程の美形であった。これは若い頃ならさぞかし女性にモテたのであろう。というか、老け専的なジャンルであれば逸材と呼ばれそうなものである。
いかにも有能な執事といった風情の男は、隼人が目覚めていることにほんの少し目を丸くして―これまた不思議な色味の目をしていた―口を開く。
「お目覚めでございますか、陛下」
「……へ、」
ぽかんとした隼人を気にすることなく玉座の隣に置かれていた華奢な作りのサイドテーブルに持っていたボトルとグラスのようなものを下す。きゅぽん、と些か控えめな音をさせて開封されたボトルからはワインに似た芳醇な香りが漂ってくる。
そのまままるで映画の一場面のような流れる動作でグラスに注がれるのは、思った通りの葡萄色。
「陛下にお出しするには心苦しいのですが、何分こんなものしかありませんので」
「……はぁ」
そう言って恭しく差し出されたグラスにそっと口付ける。
ちろり、と舌先に触れたその味は今まで味わったことのないような複雑なもの。隼人とて何百万円等というロマネなんちゃらなんぞ味わったことはないが、それでもこれがそんなものを凌駕しているのは解る。
思わず一気に煽れば、それを見計らうかのように次が注がれる。
そうして何度グラスを傾けた頃だろうか。
勿論美味しいというのもあったけれど、自覚してはいなかったが相当に咽喉が乾いていたらしい。程々に満足したと思ってサイドテーブルを見れば、なんと空瓶が山のように積まれていた。
サイズ的には一本一Lであろうそれを少なくとも十以上空けておいて平気な自分って、と若干青くなっていると執事風の男が新たなボトルを開封しようとしているのに気付く。
「あ、もう!充分です!」
「左様でございますか」
隼人は確かに酒には強い方ではあった。
けれどそれも人と比べれば、でありそもそも普通は多くても二本程度で腹が膨れるものである。それだというのに今この身体はそれ以上を平気で受け入れていた。というかまだまだ余裕があったりする。
本当に己れはどうなってしまったのか。
咽喉の乾きを潤して人心地ついてしまったのがいけなかったのか、隼人は急激に現状を理解していく。
自分は死んだ。
それは間違いない。
そして何らかの手段で蘇った。
そもそもここはどこなのか、とかこの身体はどうなっているのか、とか疑問は尽きなかったが大前提がおかしいのだ。
死んだものは生き返らない。
そんなもの誰だって知っている。
それが世界の常識だ。
「お前の世界ではそうなのかもしれんがな!」
唐突に第三者の声が響く。
この場には隼人と執事しかいない筈だが、そうではないものの声。
驚いて周囲を見回すが、執事以外の人影は見当たらない。
「どこを見ておる、こっちじゃこっち!」
それはまさかの左肩の上。
小人とでもいうようなサイズのそれはなんだかとても偉そうにふんぞり返っていた。
足元まである緩やかにウェーブのある赤毛、ゆったりとした黒いローブには細かな装飾があるようだが小さすぎて見えない。けれど一番に目についたのはその赤毛を縁取るかのような角の存在だった。
「お前の所為で我は力を失ってしまったのじゃ、どうしてくれる!」
「えっと……誰?」
「おぉ、これは先代様」
執事が恭しく頭を下げることで少し機嫌を良くしたらしい小人はそのまま隼人の肩に腰掛けている。
重さも感触もないのが激しく違和感だが、存在感は確かにある。
そしてそれが自分と同じものであるとも。
執事に先代様、と呼ばれた小人はその薄墨色の角を誇らしげに翳してみせながら隼人を見上げる。
さも全部解っているさとでも言うかのように。
「いや、解ってるなら話せよ」
「や、止めよ!抓むな!振り回すでない!」
その態度にちょっとだけ、本当にちょっとだけイラッときたのでローブを抓んでブンブンと振り回してやる。
その小さな身体ではさぞかし恐ろしかろう、なんて考えていると本人から制止の声が上がる。が、そんな上からな声は聞こえんな。
後で聞いたところこの時の隼人はとても好い顔をしていたそうな。
「貴様も静観しておらずに止めんか!」
「ワタクシあくまで陛下の執事でございますので……」
この薄情者、と罵られながらも涼しい顔をしている執事が現状最強なのでは、と隼人が思っていたかどうかは定かではないがともかく話が進まないので小人虐めをとりあえず止めてやる。
抓んだまま。
「おのれ……覚えておれ、きさま……魔力さえあればきさまなんぞ……」
ぶつぶつ恨み言を呟く小人を眺めて、無力らしいから放っておこうと決めた。
さしたる脅威ではないと、解ったからだ。
「いいからちゃんと話してくれないかな?俺、そんなに余裕ないんだよね」
「止めよ!ぐるぐるはもう嫌じゃ!」
ぐ、と指先に力を入れたのが解ったのか慌てたようにする小人。
見た目頭身大きめのねん○ろいどのような小人だが、そこは現実なのでよくよく見れば髪の毛なんかは一本一本ちゃんとあるし肌の質感なんかもちゃんと生き物である。
不思議生物にオタク心が疼くけれど、今は現状把握が優先だった。
「不慮の事故で貴様は魔王の力を手に入れた……おめでとう、これで貴様は魔王じゃ!」
「いや、全然説明になってないから」
何某黄色いネズミゲームの進化みたいなこと言っているんだ、と半眼で見れば小人は言われた意味が理解できなかったらしくきょとんとしている。
その頭身に相応しく大きな目を見開くのはちょっとだけ可愛い、なんて思ったところで異常に気付く。
小人には白目がなかった。というか、人間でいう白目の部分が黒く、黒目の部分は蜂蜜にも似た金色をしている。
いかにも人外です、といわんばかりのそれに映っていたのはこれまた同じ色をした眼。
「あー……鏡、とかあったりしませんかねぇ」
「手鏡で宜しければ、こちらに」
まるで図ったかのようなタイミングで差し出される掌に収まるくらいの小さな手鏡。
裏面には精緻な細工が施されていたりするのだが、それを確かめる余裕は隼人にはなかった。
微かにそれを持つ手が震えているのは既に半ば確信していたからなのだろう。
血の色にも見える、赤毛。これは先刻目覚めた時に残念ながら気が付いた。どえらい長さになっているのも、いい。よくはないが。
問題は、顔。
造作自体は見慣れた己れのもの。
けれどそれが自分のものではないように思えてしまうのは、その眼の所為だろう。
小人と同じ、白目が反転した奇妙な眼。黒目部分は小人のものよりも薄い、白金の色をしていた。
そして、ちらりと映ったのがこれまた隼人の心を抉る。
全てを吸い込んでしまいそうな黒、とはこれのことだろうとぼんやり思う。
米神の少し後ろから生えたそれは、とても立派な角でした。
「ぜ、ん、ぶ、説明しろよコノヤロウ……!」
「ぎゃー!」
思わず全力で握り潰した隼人は悪くない。
困惑続きの現状の原因に当たるのは当然なのである。執事も「流石は陛下、容赦がありませんな」と頷いていた。
「わ、我は悪くない!どちらかというと貴様の所為である!」
視線に含まれる殺気に若干どもりつつも小人は言う。
曰く、隼人の能力の所為である、と。
「貴様の能力の所為で我の魔力はほぼ吸われてしまって今ではこんな様だ。どうしてくれる!」
「知らんがな」
なんでもその事故とやらで行使された隼人の能力が小人の魔力やら何やらを吸収した結果、隼人自身に変化が起こったそうだ。
そうは言われても彼には思い当たる節はない。
これまでの大半を意識を失った状態で過ごしていたのだ。それに隼人は生まれてこの方、何の特殊能力も持たない純粋な日本人だったのである。今更能力が、等と言われても困る。
そんなものは本の中だけで充分なのだ。
けれど現実は非情だった。
夢ではない証拠に小人の精一杯の抵抗なのか手を抓まれているのだが、これがちょっぴり痛いのだ。
「あんな能力を持っておると知っておったら攻撃なんぞしなかったというに」
「……ちょっと待て」
今、何と言った。
握る手に力が籠もる。
何やら聞き捨てならない台詞があったように思う。
「攻撃、した……だと?」
瞬間、その場面が思い出される。
冷たい石の床と、それに相反するかのように熱い赤。
一息ごとに失われる命に、縋り付きながら慟哭した。
死にたくない、死にたくない。
ただそれだけを思っていた。