好きだと言えない
『隆之君、残業で今日は行けません。本当にごめんなさい。今度、お詫びにおごります。』
友人の早織からのメールを開いて、隆之はため息をついた。
隆之の座るカウンターの後ろから、“熱燗、もう一本追加ね”と言う声が聞こえた。
逸る気持ちが裏目に出たようだった。
今夜は会えないかも知れない――事前にそう聞いていたものの、早織と会える機会を逃したくなかった隆之は、自分も仕事で会社に残っているから、もしそうなっても気にするなと言って、今日の約束をしたのだった。
「あーっ……」
カウンターについた両肘の間に頭をはさむようにして、隆之は呻いた。
檜の揃った薄い木目に、ビール瓶の水滴が染みているのを見るともなしに眺めた。
そこは早織が好みそうな和惣菜の店だった。まさか彼女には、自分がそこをわざわざ調べて、しかも先に店で待っているとは思いも寄らないことだろう。いつも隆之とそうするように、どちらかの職場近くの駅周辺で待ち合わせして、適当にその近くの店に入るという気軽な心持ちでやって来るはずだ。だから少し、彼女を驚かせたいという思いもあった。
けれど、そうしたところで、いったい自分はなにを望んでいるのだろう。小皿のうえに転がった箸をそのままに、隆之は椅子に背をあずけた。
引き戸に臙脂の暖簾が掛かったその店は、小料理屋と表現するのが相応しいかに思える。隆之の勤める会社からほど近い駅の、大通りから外れた路地にある、カウンターとテーブル席が三席だけの簡素な店だった。
山芋を練りこんだという揚げ餅が、箸で割った半分が残ったまま冷めていた。それを口に放りこむと、うえにのっていた桜海老がぱらぱらとカウンターに落ちた。
――どうせ今日も、会ったとしてもなにも言えなかった。
そう思って、隆之はすっかり泡のなくなったビールをぐっと飲み干した。
早織は、今日の埋め合わせをすると言っているから、なにもこんなに気分を沈めることもないと隆之は思いたかった。
早織の言葉や表情から、自分への気持ちがあるのかを確認することにも、最近は臆病になっていた。周りの人間がどんどんと結婚していくなかで、自分の気持ちは早織に固定されたままだ。それどころか、いままで以上に早織に惹かれている自分がある。このあたりで思いを断ち切らなければ、一生早織を忘れることはできないかも知れない。隆之にはそんな憂いがあった。けれど、連絡が来れば会わずにはいられなかった。顔をみて、声を聞いて、早織との時間を共有したかった。
思いを告げて早織が自分から離れていくくらいなら、このままの関係がいい――。柄にもなく、弱気な思いでいる自覚があった。
“おまえは乙女か”
大学時代からの友人にはそう揶揄されることだろう。
「うるせーよ」そう小さく空に投げた言葉は、店のにぎわいに消された。
大通りに出ると、ひんやりとした風が腕をかすめた。ワイシャツの捲くっていた袖を下ろして、背広を着たところで携帯が震えた。早織からだった。
「早織? 残業終わったのか?」
電話を期待していた、なんて言ったら早織はどう思うだろう。ビール瓶一本ではほとんど飲んだうちに入らないのに、隆之は酔ったような心地だった。
『隆之君、今日は本当にごめんね? ほんとうに今度、おごらせてね?』
隆之には、眉尻を下げているであろう早織の姿がわかった。
「気にすんなって」
『でも、わたしから言ったのに……。あれ? 隆之君、いま外にいるの?』
早織のその問いに、普段の隆之ならば慌てていただろう。だがそのときは、ぼんやりとした思考で、けれども口調ははっきり答えていた。
「ああ、外」
『わたしよりは早く終れたんだね、よかった』
安心したように声が返ってきた。ふとその瞬間、隆之は足を止めていた。ああ、もうだめだと思った。早織が少し首を傾けて、微笑む姿が目に浮かんだ。それは早織のくせだった。たぶんいまも電話の向こうで、彼女はそうしているだろう。いまここに彼女がいれば、自分はそんな彼女を抱き締めていたはずだ。
ぼんやりとしていた思考は嘘のように消え、けれども目は、無心に足元の先の街路樹の幹を見つめていた。意識のすべてが電話機に集約されていくようだった。
「早織」まだ街路樹の幹を見つめたまま隆之は言った。
「いまから会えないか」
◆◆◇◇◆◆
高校が同じだった隆之と早織は、陸上部で知り合い、仲良くなった。早織は陸上部のマネージャーだった。
高校を卒業してからも、陸上部の集まりで年に一回は、二人は必ず顔を合わせていたし、部のみんなでたびたび旅行にも行った。
就職してからは互いの職場がそう離れていないこともあって、大学時代よりも会うようになった。そうするようになっていたときには、隆之はすでに早織のことが好きだった。それを自覚したのは、おそらくもっとあとだったように思うが、それももう三年近く前の話だった。
高校を卒業して十年の間に、早織との距離はどんどん近くなった。早織は高校や大学のときは、はきはきしていた印象があったが、本来は控えめな性格であることも知った。
“自分でもよくわからないけど、明るく青春を送りたいって思ってたんだ。だから頑張ってたの”
首を少し傾けて、そう微笑む彼女に、隆之は心うばわれた。
けれど、好きだと言えなかった。早織をだれかにとられてしまうかと思うと気が気でなかったのに、手を伸ばせば早織に届く距離にあるこの関係を、壊したくはなかった。
駅に着くと、人もまばらな改札付近に、すでに早織は立っていた。肌寒いのか、水色のショールを肩からかけて改札の外にいた彼女は、隆之にはまだ気づいていない様子だった。隆之は、早織の職場の最寄り駅で待っていてくれるよう頼み、自分は電車に飛び乗ったのだった。
「早織、早織!」
隆之は走って改札を抜けた。隆之を見た早織は、驚いたように言った。
「隆之君、どうしたの? 声をかけてくれれば、改札入ったのに」
「いや、別にいいんだ。それより、待たせて悪い」
早織の羽織るショールを見て、隆之は言った。
「待ってないよ。どうかしたの?」
心配そうな表情を浮かべて早織が問うた。
「早織、おれは――」
言葉を続けようとしたとき、風が吹いて早織の身につけるショールの片方がまかれた。ひるがえったそれを隆之は掴み、もう片方の先とで、早織の腹あたりでくくってやろうとした。
「いまの風強かったね。ありがとう隆之君」
早織がそう言って、安心したように首を傾けて微笑んだ。
それを目にした瞬間、隆之は、もうそうせずにはいられなかった。
早織を腕に抱き締めた。早織のやわらかな身体を腕に感じた。
早織を抱き締めて、その腕を解いて早織の顔をみたとき、けれど隆之は、夢から醒めたような思いになった。
早織は驚きに、強張った表情をしていた。隆之が腕を解いたときに、早織の左肩からショールがずり落ちていた。
「ごめん、早織」そう言いながら、隆之は身体を固くしたままの早織に、ショールをかけ直してやった。
ショールの先に両手をすべらせて、けれどその手は離せず、そのままショールを握りこんでうつむいた。早織の顔を、見ることはできなかった。
握りこんだその手を、離すことはできなかった。けれど、どうしても言うことはできなかった。
――好きだと、言えない。