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3.家路

    × × × ×


 ――――紅義と、初めて会ったその子に私はそう名乗った。


 まだ九歳になったばかりの私を、叔父様はその日急に呼びつけた。

 九歳、と言ってもそれは《御三家》に関わりのない一般の家庭の九歳とは一線を画している。それは言うなれば貴族家系の人間が、幼いころから自分の『在るべき姿』を定めるべくして育てられるのと同じで、《騎志之》という、《御三家》が《錦戸》の分家であり、『旅籠』の役割持つ家系に一人娘として生まれた私には、当然のようにそう在るべく育てられてきた。

 町を終わりより管理するために必要な多種多様な知識。

 あらゆる状況に対応するために、あるいは《錦戸》に属する電燈が故に身に着けた各種戦闘技能。

 さらに、旅籠の主として身に着けるべき気品や心遣い、礼儀作法や着付けと言った一連の作法。

 時に学校と並行しながら、時に学校よりも優先しながら、それらを詰め込むように教育されていく私はとうに普通の九歳と呼ぶには無理があり。

「……お嬢、この子は弓塚(ユミヅカ)紫陽(シヨウ)。今日から我々《騎志之》の預かりとなった子だ。お嬢が護衛役として、紫陽を守ってあげなさい」

「…………はい」

 だから、叔父様からそんな言葉と共にその女の子に引き合わされた時も、それほど疑問には思わなかった。

 名前の通り、紫色の着物を纏って、どうしてなのかおどおどとした様子で叔父様の着流しの裾を握り締めて、不安げにこちらを見つめる――たぶん、同い年の女の子。

 あくまでも、たぶん、だけど。

 友達と呼べる人もおらず、今の騎志之に私以外の子供はいない。《錦戸》宗家には私と同い年の双子の子がお生まれになったらしいけど、会ったことがないから同い年の子の見分け方なんてわからない。

 でも、なんとなく同い年だろうと、漠然とそう考えて。

 次にどう話しかけよう、と心密かに考えた。

 友達がいないから話しかけ方がわからない。こんな風におどおどした風に対面されるのは始めてだから、どういう風に声をかけていいかわからない。

 無表情での私の困惑を察したのか、叔父様が傍らの女の子の頭に手を置きながら、はは、と軽妙に笑った。

「紫陽は《弓塚》の一人娘で、ついこの間不幸なことに《影付き》の兆候が見え始めてしまったんだ。それで護衛役を付けることになったんだが、見ての通り紫陽はまだお嬢と同い年だ。ここまで幼い子を他の分家筋に預けるわけにもいかないし、それに同い年の子がいたほうが、何かと心強いだろう。そういうわけで、お嬢。お嬢のいる《騎志之》なら安心だろうと、《弓塚》の御当主が判断なさったんだよ」

「は……はいっ…」

 びゅくっ、と動物的に体を震わせ、腰までを覆う長髪を跳ねあげる勢いで頷く紫陽。

「はは、そんなにかしこまらないでもいいよ。《弓塚》も《騎志之》も同じ《錦戸》の分家筋。お役目の違いはあっても優劣はないんだから。ほら、二人とも。ご挨拶を。これから二人、一緒に暮らしていくんだからね」

「あ、はい………」

 苦笑顔の叔父様に促され、幾分か緊張が和らいだ面持ちで紫陽がうなずく。握りしめていた着物の裾を離し、深呼吸を一つ。そのままゆったりと、優雅な仕草で一礼した。

「えっと……ごしょうかいにあずかりました、御三家が《ぶ》の家系《錦戸》分家、《弓塚》が当主一人娘の、弓塚紫陽ともうします。今日からごやっかいとなりますが、なにとぞよろしくおねがいします……」

 つたない言葉、微妙に低い物腰。落ち着いているようで緊張した言葉だったけど、自然とそこに含まれた礼を読み取り、返すように私も一礼を返した。

「これはご丁寧に……。私、不肖《騎志之》が当主一人娘、騎志之―――――――――紅義と、申します。今後は当主代理の命に従い、護衛役の任に就かせていただく旨、ご承知の程をお願いします」

「………うわぁ…すごい…」

「………?」

 つらつらと流れ出るがままに告げた挨拶の口上に、どうしてか紫陽が感嘆の言葉を漏らした。

 やれやれ、と苦笑を深めながら叔父様が首を振る。間違えたはずはないのにその様子、何か私は間違ったことを言っただろうか。

 疑問符を浮かべる私を余所に、苦笑顔のまま叔父様は言う。

「まあ、見ての通りの子だけど、お嬢はとてもいい子だ。二人で仲良くやっていきなさい」

「あ……はい。仲良く、させていただき、ます……」

「ご安心を。頂いた命は、必ずやまっとうさせていただきます」

「ははは……お嬢、それは結構だけど――紫陽を困惑させないようにね」

「はい」

 ぺこり、と一礼を返すと、諦めたように叔父様は肩をすくめた。

 後のことは任せた、ということだろう。どこか楽しげな足取りのまま、叔父様は席を外し、騎志之の和室の中には私と、

「……………えー…と……」

 気まずげに困惑の表情を浮かべる、紫陽だけが残された。

「………お座りください」

「え! あ、はい!」

 またしてもびゅくりと動物的に身を震わせ、あせあせと目を周囲にやり、あっ、と正面の机の存在に気付き、こちらの表情を窺うように目をやりながら、しかし動作だけは優雅に用意された座布団へと腰を下ろした。

「では弓塚様、以降の取り扱いについて、お話させていただきます」

「とりあつか、い?」

 怯えたような困惑顔で聞き返す紫陽に、はい、と私は頷く。

「本日、私は貴女様の護衛役――すなわち従者として在ることを命ぜられました。以降、私は貴女様の命に従い、命に背くことなく仕えることになります。故に今後、私の取り扱いは貴女様の決定するところとなるでしょう」

「だけど、《騎志之》と《弓塚》は同じ分家の――――」

「関係ありません。この関係はあくまで私と貴女様の間で交わされた命によるものです。《騎志之》の当主代理が私を護衛役と認めた以上、その関係に両家は関与しないでしょう」

「でも――――」

 何か言いたげに、紫陽は顔をうつむけた。

「――――そんなの…私、嫌だよ……」

 その口調は寂しさがしたたり落ちそうなほど、あまりにも弱い口調で、始めて直面した同い年の女の子のそんな言葉に、私は言葉を失った。

 もしかすると………と思う。

 もしかすると、目の前のこの女の子も、自分と同じなのかもしれない。

 他人の中にいることよりもさらに重要なことを目の前に据えられ、普通と呼ばれる世界を見ているだけの毎日。日々の教育、お役目の意識、立場としての責任、そういった物に追われ続け、普通の娯楽など望みようもない毎日。

 私が特に憧れを抱くこともなかった日々、遠いものと、最初から望まなかった日々。

 だけどもしそれに紫陽が憧れを抱いていたとしたら? 護衛役が私だと、同じ年の子だと知ったとしたら? そしてその人物から、同じではない従者であると告げられたら?

 一体それは、どれほどの痛みを感じることになるんだろうか。

 そして――――どれほどの失望を味わうことになるんだろうか。

「………ですが、これはすでに決まったことです」

 だから、私はあえて、従者であることを断言する言葉を告げた。

「ご命令には、必ず従いましょう。守られることを望むのなら命すら省みぬ守護を持って、戦うことを望むのなら生涯を賭した無双の武芸を持って、従属を望むのなら魂全てを与える覚悟を持って――――」

「………っ」

 くっ、と痛みを表情を隠すように紫陽が鋭く顔を俯ける。

 流れる涙を、崩れた表情を見せまいとするかのように、艶やかな髪が端正な顔を覆い隠した。

 今にも泣き出しそうな気配を孕んだ熱情の空気。その中で、ぽつりと、私は続ける。

「――――友好を望むのなら、」

「……え?」

「友好を望むのなら、朽ちるその日を誓うほどの深みを持って、貴女様の友となりましょう」

「…………」

 呆然と、あるいは唖然と、もしくは悄然とした表情で、紫陽は私の顔を見つめる。浮かんでいる感情は捉えにくい。霧に隠されているようだ。

 しばらくの間、霧をただ見つめる時間が続く。

 見えないことを、人は不安だという。漠然と覆い隠されている道行に何があるかわからないから、人は見えないことを怖がってしまう。

 だけど、見えないことは一方で楽しみでもある。先の見えない道程の中、この霧が晴れたら何が待っているんだろう。それはもしかしたら一望する絶景かもしれない、大海を望む展望かもしれない、あるいは奈落に通ずる崖が、瘴気燻らせる黒沼が広がっているかもしれない。

 一歩を踏み出す勇気、一歩を受け入れる覚悟。

 それさえあるのなら、未知の霧に対面するのは、とても楽しみだ。

 そして、踏み出す一歩を躊躇っている背を押すのも。

「――――ご命令を、どうぞ」

 ある意味では、とても楽しいのかもしれない。

「じゃあ……えっと………」

 ためらいがちに、紫陽は顔を上げて、

「私と……その……」

 ためらいながら、口を開いて、

「……ううん、これじゃあ、駄目だよね…」

 つぶやき、意を決したように首を振り、私と目を合わせた。

 光を感じる、強い目だった。

「じゃあ、最初の命令です」

「はい」

「私と話すとき、かしこまって話すの、やめてくださいっ」

「え?」

 楽しげに、とても軽やかな口調で、紫陽は予想外の命令を私に与えた。

 完全に予想外な内容、だけど命令は命令。内心に現れた小さな混乱を飲み込んで、変わらぬ表情のまま、私は小さく頷く。

「………わかった…」

「うん、それでいいよ。あと私、あなたにめいれいしたりしないから」

「………? 意外。あなた、てっきり友達になってほしいって言うと思ったのに……」

「うん、そうしようかな?とも思ったけど、ね。やっぱり、それじゃあ駄目かな、って。命令なんかじゃ、友達って呼べないから」

 ゆるゆる、と落ち着いた目で、今度は震えることなく、私を見た。

「………それに、優しい人だから、だいじょうぶ、っておもっちゃったから」

 そして、初めて紫陽は笑った。

 緊張もおどおども、おびえた表情でもない、私が初めて見る、紫陽の笑顔だった。

「ねぇ、名前、教えてくれる?」

「さっき、名乗ったはずだけど……」

「そうだけど、お友達になる一歩、って大事だとおもって」

 一拍の間、微笑みの、拍子。

「弓塚、紫陽。紫陽って、呼んでくれたら。それで――――あなたの、名前は?」

「…………」

 ……強い。

 何が強いかは、わからない。

 だけど、この子は―――ううん、この人はとても強い。

 ただ、私はそれを直観する。

「………騎志之……………紅義」

 だから、紅義と。

 私は、彼女にそう名乗った。



    × × × ×


「紅義……?」

「ん……何?」

「ううん、ただ、黙り込んでどうかしたのかなって」


 私の家系が管轄する範囲、そのギリギリに位置する閑静な商店街。一見すると眠っているかのような静けさの中に、どこか穏やかな活気を纏わせる小さな商店の並びが、道路の左右に広がっている。

 今日が平日ということもあって、人影はまばらにしか見えない。

 歩む人も立ち止まる人も数えるほどしかいないこの道は、しかし不思議と死んでいるようには見えず、それこそ今はまだ微睡の中にいるような――そんな穏やかな空気を持って、目覚めの時を待っているかのようだった。

 眠たげな赤の歩道、穏やかに目をつむる街路樹。店の並びもどこか眠たげな眼で、通りを見渡して。

 そんな街を歩く私たちも、眠たげな空気に中てられたかのような、ひどく穏やかな気分で歩を進めていた。

 私の手には、クラシカルな旅行鞄が一つ。

 傍らには、清楚なワンピースとブラウスに身を包んだ、長髪の令嬢が一人。

「………別に」

 そっけなく、両手で旅行鞄の重量を感じながら、呟く。

「ただ――昔を思い出してただけ」

「昔って?」

「……私が、紫陽の護衛役になった日」

 私の言葉に、ああ、と傍らの令嬢――弓塚紫陽が手を打った。

「懐かしいねっ。確か、七年前だったっけ?」

「正確には六年と八か月前。庭の紅葉が落葉し始める季節」

「あ、そうだったね。でも懐かしいなぁ……あの時も今日みたいに二人並んで荷物運んだっけ」

「………うん」

 その日のことは、私もよく覚えている。二人で《弓塚》の本家にまで赴いて、紫陽の細かな身の回りの品をこれと同じ鞄に詰め込んで、同じように二人並んで《騎志之》へと戻ったその日。私と紫陽がまだ親友とも、友達とも呼べなかった、そんな日のこと。

 違うところがあるとすれば、私も紫陽も、あの日と違って着物を着ていないこと。

 向かった先が《弓塚》の本家ではなく、昨日まで紫陽が入院していた病院であるということ、これだけだ。

 付け加えてもう一つ言うのであれば――――

「………………」

「懐かしいよねっ、自分の荷物だから自分で運ぶって言ってるのに、紅義ったら聞いてくれなくて、重かったはずなのに軽々持っちゃって私の方がびっくりしちゃって――――って、あれ? 紅義、どうしたの?」

「………身長」

「………身長?」

 ――――昔は、同じ目線だったはずなのに。

 六年八か月前当時、両者の身体的数値において、当方二センチの利あり。以降の上昇数値、当方二十一センチ、他方――――三十三センチ。当方の利、すべてを消失。逆転の後、不利にあるわが身を自覚せよ。

 わずかながら有利にあったはずなのに、同じ物を食べてきたはずなのに。

 どうして……こんなにも世界は理不尽なのか。

「身長……身長……」

 ちらり。紫陽が私を見下ろす。ちらり。紫陽が自分を見下ろす。一歩。紫陽が隣に並ぶ。一拍。紫陽が歩きながら膝をかがめる。

 時計が回る、四分の一。電線から鳥が飛び立ち、車が一台隣を走り抜けて、

「…………ああ!」

「生意気」

 右足で足を回し蹴った。

「痛っ! も~……どうして蹴るの?」

「……腹が立ったから」

 にべもなく断言すると、紫陽は不機嫌そうに頬を膨らませた。

「むぅ……おっぱいは紅義のがおっきくて羨ましいのに、身長でキックなんてちょっと理不尽じゃないかなってあ痛っ!」

 振り返って肩先に手刀。

「も~っ。どうしてチョップするのかなぁ?」

「紫陽が恥ずかしいこと言うから。それに、私はこんなにいらない」

 低身長で胸が目立つほど大きいと人目を惹きやすいし、動き回るときに邪魔だし、肩が凝る。和服を着るときにも布を巻いたりと面倒だし、自分の足元が見えなくなるのも、少し不便だったりする。

 むぅ、とさらに紫陽が頬を膨らませた。

「似合ってるのに……」

「似合ってるのと邪魔なのは別。慣れたから《お役目》には差し支えないけど、邪魔なことには変わりない」

「う~ん、そういうこと言われちゃうとそこまでなんだよね、私たちの場合って」

「そう、そこまで。私は紫陽の《護衛役》、紫陽は《騎志之》の食客。紫陽を守るのが私のお役目で、そのお役目におっぱいは邪魔。そういうこと」

「でも、私は紅義の家族だよね?」

「………うん」

「家族が家族に可愛くあってほしい、って言うのは、普通かなって思うんだけど?」

「………………そうね」

「紅義はおっぱい、あった方が可愛いって、私はそう思うんだけどなぁ…………」

「………………………………………そう」

 にこっ、と一転、紫陽が満面に喜色を浮かべた。

「だから邪魔とか、言っちゃ駄目だよ? 私たち、家族なんだから」

「……どうしてそこに家族が出てくるの…?」

「だめ?」

「………ううん」

 弓塚紫陽。《影付き》の少女。《弓塚》家当主一人娘にして現《騎志之》食客。身長は私より高く私より貧乳で私より学業優秀、若干虚弱故運動はできず、《影付き》故生傷が耐えない。九歳より《騎志之》に在住している――――私の、家族。

「でも恥ずかしいのと邪魔なのは事実。できることなら小さくなってほしっ、……紫陽、痛い…」

「もうっ。どうして紅義は乙女なのに乙女心に鈍感なのかなって、私たま~に気になるよ」

「………? どういうこと?」

「そういうことっ。ほら、もうこの話はおしまいっ。早く帰ろっ」

 ――――護衛役と食客の関係を築いてから六年と八か月が経ち、《影付き》としての性質も極限まで薄まった。

もはや一般人と変わりないにまで落ち着かせ、護衛役の必要性に疑問を抱くまでになったが、それでも……彼女は、私の家族なのだ。

 だから――――私は紫陽を守る。


『できる限り早いうちに、あなたの護衛する彼女、弓塚紫陽を殺してください』


『――――あなたがやらないというのなら、僕がやりましょうか』


 どうして《時瀬》であるはずの彼が紫陽を狙うのか、その理由はわからない。だけどそれでも殺すと宣言された以上、私は紫陽を何が何でも守り通す。

 ………不可解なのは、あれから数日が経つのに、時瀬に動きがないこと。

 殺害宣言まで私の前で行ったのだ。あの瞬間紫陽はまだ退院していなかったから護衛が隣にいなかった上、私はあの夜にまんまと閃光弾で逃亡を許すという失態を演じた。

 護衛なし、追手なしの、まさに殺すには、絶好の機会だったはずなのだ。

 それなのに――――あれから数日が経った今でも、時瀬の側に動きがない。

 今日、紫陽は退院した。退院すれば当然紫陽は自宅である《騎志之》の本邸に戻り、その後は四六時中護衛である私の隣に置かれることになる。

 そしてそうなった場合、時間が経てば経つほど防備は入念になっていくことが予想できない時瀬でないはずなのに――――

 直接的間接的を問わぬ武力攻勢、情報収集の痕跡、こちらを観察している気配。それらのおおよそ攻撃に出るまでの準備として考えうるす全ての行動を、時瀬は取っていなかった。

 一切の動きがない、沈黙。

先見の明を備えているはずの人物が選択し、そして護衛役という、常に後手後手で対処しなければならない身である以上、その先が予想できない行動は、あまりにも不気味だ。

 明日から、紫陽はまた学校に通いだす。

 同じクラスに時瀬がいるその環境へ、あまりにも雑多に人があふれ、情報が玉石混淆飛び交うその中へ、時には単独で動かざるを得ないときもあるのに、再び。

 が、かといって屋敷に閉じ籠るのも危ない。相手はあの時瀬。後手に回るならまだしも、完全な受け身に回れば、後でどれほどの痛手を負うことになるのか、想像すらできない。

 攻めるも危険、守るも危険。予測不能が生み出す対処不能の脅威は、ただそこにあるだけで厄介極まりない。

 だから、

「紫陽、明日から、また学校、通うの?」

「うんっ。随分長くお休みしちゃったから、また頑張らないといけないかなって」

「なら、また一緒に行く。いい?」

「今更だよ、紅義。今までもずっと一緒だったでしょ?」

「そうだけど、一応念のために」

 ――――もし有用な対処があるとしたら、私が可能な限り紫陽に張り付いて、臨機応変に対処すること。

 例え鬼謀策謀を頼みとする時瀬が相手でも、私が常に隣にいる状況なら対応策は星の数ほどある。おおよその場合、時瀬が自由な時に私が単独でいるとは考えにくいし、そして何より紫陽の日常を騒がせることなく、命を守ることができる。

 甘い、と言われる選択かもしれない。命を危機に晒すことになる、と忠告される選択かもしれない。

 だけどこれ以上……これ以上紫陽から日常を奪うようなことを、私はしたくはない。

 壊したくない、壊させたくない、守りたい。

 ………守る。

 そのためには、どんな手段を使ってでも……

 ………紫陽を、守る…。

「あ、紅義紅義、待って待って」

 いざ守るとなればどのような策を取ればいいか具体的な思考に入ったその時、背後から肩越しに乗りかかられて足を止めた。

「……どうしたの?」

「うん、よく考えたら私のいない間の台所ってどうなってたのかなって、ね。ほら、紅義ってあんまり自分でお料理しないでしょ?」

「それなりにはしてるし、できる。知ってるでしょ」

「うん。ついでに紅義が自分からはあんまりやらない不肖者だっていうのもね」

「心外。ちゃんとそれなりにやってたのは事実」

 もっとも、紫陽に退院の目途がたったここ二週間ほどはほとんどしていなかったのもまた事実である。

一応本邸が広いことも手伝って《騎志之》には家政婦を数人雇ってはいるのだが、炊事に関しては紫陽が料理好きであることも手伝って手を出さないように申し付けてあるため、紫陽が入院中も家政婦の誰かが炊事を担当することはなく、つまるところ――――

「でも、食料品は保存食以外切らしてるかも。ここのところは、やってなかったから」

 生鮮食品の類が壊滅状態にある、ということである。

 首の上で満足げに紫陽がうなずく。

「うん、やっぱりそうじゃないかな、って。でさ、久しぶりに私お料理したいから、ちょっと寄ってもいいかな?」

 駄目? と紫陽の示す先には行き付けの食品店舗の並びがある。中途半端な時間ということもあり、さほどの活気はないが、それでもちゃんと営業しているらしく、先程までの騒ぎを聞いてか、幾人かの店主が笑み交じりの表情でちらちらと、こちらの様子を窺っていた。

 商店街の人気者、久方ぶりに浮き足立っているらしい。

 そんな様子を見せられて、断れる私ではなかった。

「……構わない。金銭はちゃんとある」

「さすがしっかり者! じゃあ、ちょっと寄り道しよう?」

「うん」

 本当は退院記念ということで今夜は私が腕を振るうつもりだったのだが、こうも楽しそうだと言い出すのも悪い。予定が狂ったが、今夜は久しぶりに、隣で補助することにしよう。

 ………だけど、危険は……、と。

 二か月近いブランクを置いての会話を楽しむ店主と紫陽を余所に、油断なく周囲へと目をやる。全身をむき出しの神経とするかのような強烈な感触。肌に触れる大気の動き、視界に過る塵の移動、予感として感じる《騎志之》の《力》、それらすべてを動員して周囲の空気を、人影を、気配を感じとり、可能な限りの危険を洗い出す。

 影を掴み取ろうとするかのような曖昧模糊とした数秒の後。

 ………ない。

 ほっ、と周囲の敵を洗い出す索敵の警戒から、日常的な危険や不意打ちに備える常時の警戒へと神経を緩ませた。

 訪れた安堵の一瞬を、警戒の一言が一喝する。

 何が起こるのかわからないのが、この先。今日からは九層地獄を下るがごときの警戒を要することになるのは間違いない。

 紫陽を守れるのは、私だけ。

 時瀬を確実に打倒しうるのも、私だけ。

 ――――記憶の中を赤い色がよぎる。暗く昏い夜の中、月と鋼と赤い色、三色の鉄錆が支配した、極まった命の一夜を。

 内側から焼き焦がされるような情動を覚え、振り払うために眼前の風景へと目をやる。笑みと共に会話する紫陽、豪快な風体の魚屋の女傑。八百屋の店主が隣から口を突っ込み手ひどく言い返され、それを見てまた紫陽は笑う。

 いいものだ、と柄にもなく思う。

 ………さて、と。

 あの様子ではしばらく紫陽はあの場から動けないだろう。人の間にいるのなら警戒は希薄でも構わない。今の私の役割は、警戒が解けない程度の距離にある店の品を、ある程度買い足しておくことである。あの様子では、きっとまた二三の買い忘れが生じるだろう。

 ………本当に、しっかりしてるはずなのに……。

 どこかとぼけた家族の一面を思い返して苦笑しつつ、私は二店舗先の肉屋へ足を向けた。


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