2.法要
× × × ×
――――ひょっとすると、
私はもう、狂ってしまっているのかもしれない。
小雨の降りしきる冷たい夏の空気の中、厳格にその法事は行われた。
畳の上に正座する、黒い喪服の参列者たち、立ち込める線香の香り、時折響く鐘の音、読み上げられる読経の声。耳傾けられる空気は重く、一身上の都合で傍らから眺めている私には、その風景は滑稽であるようにさえ感じられた。
………空気に死が満ちている。
未来へとただ流転するが正道の人生において、唯一過去を悼む瞬間。亡くなった人を思い、残された人を憐れみ、今なお進み続ける黄泉路の先、極楽道へと至らせんとする祈りの行事。
遡ること四十九日前、心中という形で自らの命を絶った、高城リョウという人物の、七七日法要。
私にとっては大好きな人が消えたその証。
それなのに私は――高浜幾夜は、読み上げられる読経をただ漫然と耳にしていた。
閉塞した畳の部屋は、死の空気を満たし。
腹の底から響くような読経の声は、否応がなしにここが追悼の場であることを自覚させる。
八畳の部屋の中、退廃を感じさせる空気のうちでスーツで身を固め姿勢を正し、金色の仏壇へと向かう姿は存外に滑稽なものだ。
内側にいれば存外気付かないものだろう。だけど、一身上の都合から隣室の椅子に腰かけ、仏壇へと姿勢を向ける私からはその姿は丸見えで、ただ姿勢を正し仏壇の一点を見つめるその姿は、何かに隷属しているかのように映り、ある意味ではとても不気味な風景だった。
いや……きっとあの人たちは、隷属しているんだろう。
生という概念、死んでいないという現実。
私が、彼を踏み台にして舞い戻った、『終わり』という存在へと、きっとあの人たちは恐怖心から隷属しているのだ。
………滑稽だ。
とても、滑稽だ。
『終わり』に隷属したまま『終わり』を悼む儀式に挑む、その姿。さながら炎に焼かれた人間を見ながら、自らが焼かれていないことを安堵するかのような、醜悪な内心。醜悪を自覚しないまま『終わり』へと向かうその姿は、破戒を自覚しない聖者のようで――私には、それこそ滑稽そのものだった。
それに、と思う。
………誰が、りいのことを…
あの人のことを、「知って」いるというのだろう、と。
喪服の列の最前列、丸まった男女の背中には見覚えがある。片や寛容でしっかり者、片や優しくて少し気弱。夫婦と聞けばだれもが思い浮かべるであろうその図式を体現した男女は、りいの両親だ。りいが死んだ、その事実に参列者の誰よりも深い涙を流し、心中という事実を責めずに受け止め、生き残った私を祝福し、自らの無理解を泣いた、優しい両親。
だけど――――彼らは泣いた。
自らの『無理解』を、泣いた。
背で一纏めにした長髪の陰で、私はほくそ笑んだ。
四十九日の法事、死者を悼む悲しみのその場で、ひっそりと。
恋人が死んだ――――その四十九日後である今日この場で、喪服に身を包みながら、参列した遺族の無理解を嘲笑った。
りいの死の理由も、りいの生きた意味も、りいのその生涯の中身も。
りいという人物の全ては、私の中にある――――。
生んだだけで理解ができなかった両親を嘲笑った。社会的地位だけで批判した叔父夫婦を嘲笑った。内面を見ようともしなかった担任教師を、ただ私を憐れんだよく知らない人物を心の底から嘲笑った。
………何も知らないのに…ご苦労様。
心の底から湧き上がる笑みを、抑えきれない。ここが法事の場でなければ、きっと私は笑いだしていただろう。それほどまでにこの人たちの在り方は滑稽で、悼む姿は身勝手で、抱く像は独りよがりだった。
だけど……一人だけ。
一人だけ、嘲笑うことも憐れむことも、滑稽と思うこともできない相手がいた。
喪服の列、前から二番目。りいの両親に続く形で仏壇に向かう、その姿。細見なカジュアルスーツ、後頭部で一纏めにされた私と同じ茶色の髪。年齢不詳の若々しい容姿に暗く沈んだ表情を浮かべ、仏壇を見つめる――――その姿。
その人は、かつて私が『お母さん』と呼んでいたその人で……
「………っ」
心中から湧き上がった衝動を飲み込むように、膝の上で拳を握りしめた。
どれだけ恋しくても、どれだけ声を掛けたくても。
『今』の私は、あの人の娘なんかじゃない……。
声をかけることなんてするべきじゃない、姿を見せることだって、本当だったらやめておくべきだった。
だけど――――そんなこと、耐えられない。
「……」
ぽん、と肩に手が置かれた。振り返ると、そこには訳知り顔で首を左右に振る私のもう一人の親友の姿。
名前は、時瀬貢。
「…………、」
わかっている。そう示すように、私は軽く頷いた。
約束したこと、警告されたこと、それを破る気は毛頭ない。今日ここへ来たのも形式的なもので、本来なら療養を理由に出席すらやめておくつもりだったのだ。
その約束を交わしたのは、二週間前。
ちょうど貢から、みいから連絡がきたその日まで遡る。
× × × ×
「お久しぶりです、ミヤコさん。こうして対面するのは三年ぶり、でしょうかね。もう二度とお会いすることはないと思っていたんですが……数奇な縁、とでも言いましょうか。とにかく、今は再会を喜ぶこととしましょう」
遡ること二週間前、私が蘇るに至った日々の顛末を聞きたいという呼び出しに応じ、駅前ロータリー付近のオープンカフェへとやってきた私を迎えるなり、貢は慇懃にオープン席から立ち上がってそういった。
大仰ともいえるその言葉に特に反応を返すことなく、みいの前の席へと歩行補助用の鉄杖を突きながら腰かける。
歩み寄ってきた中年のマスターに紅茶を注文し、立ち去るのを見送った後、
「………うん、そうだね…みい」
つぶやくような声音で、私は含みある笑みを浮かべる貢へとようやく言葉を返した。
三年前、最期のその寸前まで使い続けていたあだ名。
呼ばれたみいの顔に笑みが広がる。どこか満足そうな笑みの中、ちらりと視線が傍らに立てかけられた鉄杖へと向けられた。
「しかし、思ったよりも回復がお早いようで何よりです。歩行補助用の杖が必要とは言え、ちゃんと歩行はできている。あれから一か月と少し――わずかそれだけの期間で歩行可能になるなんて、僕としては予想外ですよ」
「粉砕、って言っても本当に粉々って言うわけじゃなくて、足首と膝のあたりがちょっと粉砕した、ってだけみたいだったから。――――まあ、歩けなくなっちゃったことには、変わりないけど」
自然と自虐するような笑みが漏れた。
「――――でも、あんまり気にしてない、かな。むしろ、ちょっとほっとしたかも。……私、結局りいのこと、殺しちゃったことには変わりないから……」
「…………」
笑みをそのままに、みいは表情を硬め、沈黙した。
――――否定の言葉は、ない。
責める表情も否定の言葉も、逆に容認の言葉ですらなく、しかし言外に私の言葉を肯定しながら黙殺する貢。その様相に何よりも誰よりも強い肯定を受けたような気がして、私はお腹の中に鉛を押し込まれたような、居心地の悪さを強く感じた。
そう、私は人殺し。
大好きだと、今までずっとありがとうと、そんな言葉とともに自らを殺すための刃を大好きな人に握らせた、この世界の節理から外れた存在。
他者の命をこの手で奪い取り、その命で生きているだけの、ただの簒奪者こそ、今の私の本質だ。
一か月前の事件で、私は奪った。三年前私を殺した人から、少なくとも私を殺してしまったと思い込んでいた人から、その命を完膚なきまでに奪い尽くした。
奪うつもりは、確かになかった。
でもそれは、今となっては単なる言い訳でしかない。
例えそれが過失でも、例えそれが想定外の事象であったとしても、例えそれが言外の魔術によるものだとしても、例えそれが想像上の産物であったとしても、そこに人一人から命を与奪してしまったという事実が付加された以上、私は殺人者のそしりを逃れるわけにはいかない。
だからこそ――――みいのこの態度は私にとってはひそかにありがたくて、また人の気持ちを察することが特異なみいがこんな態度で私に向かってくるのも、想像するのは簡単だった。
ゆったりと、自虐するように笑んだ私をみいは穏やかな目で見据えた。
「……よくも親友を殺してくれたな、この魔女め」
「……………」
「………本来なら、僕はあなたにそういうべきなんでしょうね」
「言わないの?」
「もしその言葉を告げた結果、ミヤコさんを失うことなくリョウ君が帰ってくることがあるのなら、僕は遠慮なくその言葉を口にしたでしょう」
乾いた笑みを潤すように、みいはコーヒーカップを手にした。
「確かに、僕はリョウ君の親友です。確かにミヤコさん、あなたは僕の親友から命を奪った人物ですが、その一方であなたも僕の親友であるんです。親友を対価に親友が帰ってきたこの状況、第三者に過ぎなかった僕がその結果に異を唱えることなど、できはしませんよ」
「でも、みいは――――」
「無論、僕も完全に第三者であったとは言いません。現に僕はあの日々の先にどういう結果が待っているのかを知っていながら、あなた方に何かを告げることをしなかった。現在の状況となった責任の何割かは、確実に僕にもあるでしょう。ですがそれはあくまで『現在の状況となった責任』であって、『リョウ君たちの選択に対する責任』ではありません」
「だけど、みいはりいから……」
そう、私の考えが正しければ、りいはみいへと確実にこの選択をどうするべきかを聞いたはずだ。
――――一か月前、私はアコヤという名の影の少女から、二度目の人生をもらった。
じゃあ一度目はどうだったのかというと、これはとても単純で、要するに私は私の事故として崖から落ちて、たった十二年の人生に幕を下ろしていた。
普通なら、話はここで終わったのだろう。
でもどういうわけか私は死んだ後幽霊になるでも成仏するでもそのまま消えてしまうでもなくそのまま死んだ崖の下にずっと留まっていて――――そして私が死んだことを事故としてじゃなく、自分の重みとして受け止めてしまった親友の記憶を覗き見る形で、私はそこに在り続けていた。
その時のことは今でも変な感じで――――なんというか、はっきり思い出せるところとそうじゃないところ、その二つが両極端な感覚で、私の中に引っかかってる。
それが変わったのが、一か月前。
私が、アコヤに出会ったその日からだった。
自分の存在を代償に得られる、一週間限りの命。持続させるためには彼を殺さなければならず、もし殺さなかったら、私がこの世界にいなかったことになる。
そんなひどい内容の取引を私は受け入れて、一週間後に消えるつもりだった。
そう、消えるつもりだったのだ。
確かに、私は一時は悩んだ。もし私のことを忘れていたらどうしよう、もし彼が死ぬことを望んでいたら? もし私の代わりになることを望んでいたら?
その時は、どうするべきなんだろう。
一週間の最初のうちはそんな感じだった。
だけど――――やっぱり私の決断は、変わらなかった。
彼を殺すことなんて、できない。
だって彼は、私が死ぬその寸前に告白した人で。
事故だったのに自分のせいだって、そう思いこんじゃうほど優しい人で。
私なんかのために自分を傷つけて素敵な記憶をくれた、そんな誰よりも大切な人だったから。
忘れていないなんてことはわかってた。私を思い続けてくれたこともわかってた。
だから――――私は楽にしてあげるつもりだった。
「……ええ、リョウ君から相談は確かに受けました」
「だったら――――」
そう、だったらみいも無関係とは言えないはず。みいはきっと、りいには生きていくことを望んでくれる人だった。だからもし相談を受けたとしても、返す返答はりいの生存。そのつもりで私はあのノートを用意したし、あの日、あの場所で渡すことを選んだ。
そうすればきっと、りいは生きることを選んでくれる。みいに諭されて、今を生きることを選んでくれる。
そう思って、いたのに――――
「ですが、僕は彼に『自分が望むことをしろ』と、それだけを言っただけにすぎません。もし僕が正気を失うような局面でもない限り、彼の選択を狭めるようなことは言わなかったと思います。それだけは、断言できますね」
「………え?」
みいの、私の心中を丸ごとひっくり返すかのような言葉。
心中を混乱に叩き込むその言葉に、呆けた声を漏らし、私は硬直した。
そんな私の表情を見、相も変わらずみいは穏やかに笑んだままだった。
「…………やはりそうでしたか」
「どうして――知ってるの?」
「いえ、単純な推測ですよ。もし僕がミヤコさんの立場だったらまず問題になるのはリョウ君の『命を差し出したい』という意志ですよね。――――ああ、ミヤコさんが消えるつもりだった、という点に関してはあの一週間の行動と、電話でお話させていただいた時に確証が持てました。それはさておき、その意志を変えさせるのに一番有効な方法としては、ミヤコさん自身が直接お話しするよりも、僕のような問題に直接関係のない人物から諭されるのが一番です。そしてリョウ君が自ら相談を持ちかける相手であり、問題に直接関係のない僕はまさに絶好の位置で、ついでに言えば僕はミヤコさんによく知られている人物でもある。だとすると、後は単純な情報操作で済みます。リョウ君が相談を持ち掛けたくなるように状況を説明でき、なおかつそれが適度に謎めいていて第三者にも相談することが容易な状態である物――――ああ、あのノートは実によかった。適度に謎めいていて適度にわかりやすく、事情を知らない人間にはただの物語にしか映らないでしょう。皮肉なのは、僕がアコヤにあったことがあるという、その一点を知らなかったこと、なんでしょうけど………ね」
「…………なんで、そこまで…」
「友人の死が関わった事象だから、ですよ。まあ、正解かどうかは確証がありませんでしたが、その反応では正解のようですね」
「………うん」
「ふふ――リョウ君と違って素直だと、どうにもやりにくいですね。リョウ君ならここで『どうしてそうなる』とでも言うんですが……」
どこかさびしそうに、みいは空を仰いだ。
言葉が途切れた、カフェの席。静かなのは嫌いじゃなかったけど、三年間一人で誰とも話さずにいた今の私は人のいる静寂は嫌いだ。
あ、だけど一人だけ。一人と呼べるのかはわからないけど、時々話しかけに来てくれた人がいた。厚くなった影のような姿の女の子、名前は――――
「……アコヤ」
「……はい?」
「みい、そういえば知ってる、って言ってたよね? アコヤと」
「………ええ、少し昔のことになりますが、会って言葉を交わしたことがあります。ああ、それで思い出しました。本日はミヤコさんが蘇るに至った一週間の顛末と、今後のあなたについてのお話のためにお呼び立てしたんでしたね。病み上がりのあなたに長居は酷でしょうから、手早く済ませましょう」
「………私の、今後?」
なんだろう。今の私は死んで、契約して、奪って、蘇った。それだけの人物のはずなのに、今後も何もあるのだろうか。
疑問を浮かべた表情を嗅ぎ取ったのか、みいが小さくため息をつく。
「………そうですよね。あれだけのことがあって即座に入院、その間にしてもそれほど考える余裕があったとは思えません。となると、顛末は後回しにして、その話を先にした方がよさそうだ」
「みい、一体何の話なの――――」
「申し訳ありませんがその名は呼ばないでいただけますか? 高浜幾夜さん」
拒絶するように。
みいは私をその名で、転生する際に用意された、今の私の名で呼んだ。
そして、その一言で一気に理解した。今の私の立場、みいの言わんとしていること、必要な話。それらの全てを、私は一気に感得できた。
「……その様子では理解できたようですね。そう、幾夜さん。あなたはもう『高浜幾夜』であって、『片原ミヤコ』ではありません」
一度死んだ私、一度蘇った私。
蘇り。言葉にすれば簡単で、神話をもとにするまでもなくフィクションではありがちなその言葉も、実現することはあり得ない。もしあり得てしまったとしたら、それは異物にしかなり得ず、つまるところ、それを体現してしまった私は、受け入れられる余地がない。
早い話、蘇った私は以前の私である『片原ミヤコ』ではなく、『高浜幾夜』という名の別人であるのだと。
いかに記憶に連続性があろうと、見た目が同じでも別の人間としてあるべきなのだと、みいは――貢という名の友人は告げているのだ。
「……わかってくれたようですね」
「うん……」
納得とともに、私は頷いた。
さようなら、片原ミヤコ。こんにちは、高浜幾夜。
これから私は高浜幾夜、片原ミヤコと同じ見た目をしているだけの別人だ。
「では、後のことは任せて大丈夫そうですね。幾夜さんはリョウ君からしっかり者だと聞き及んでます。のちの辻褄合わせは、ご自分でもなんとかなるでしょう」
「あ、うん、大丈夫だよ。ちゃんと、できるから」
「そうですか」
安堵したような雰囲気の含みある笑みで、貢は私に向かって笑みを向けた。
「ええ、信頼しましょう。今のあなたは、一人ではないようだ」
言ってちらりと、貢が私の髪へと目を向ける。
ポニーテール気味に私の髪をまとめる赤黒い布。繊維の露出も生々しい、まるで使い古した包帯のようなその布は、まぎれもなく使い古した包帯そのものであり――――
「………うん」
大好きな人の血液を多量に含んで元の白色を失うに至ったそれをリボンにしている私は、間違いなく一人ではないと、そう言えた。
ふと、過去を思い返した私に寂寥がのしかかる。
私は、一体何を代償にしたんだろう、と。
私は、一体何を得たんだろう、と。
大好きな人を死なせ、もう一人の私を殺し、得たのは全く新しい自分。
これでは、まるで生まれ落とされたようだ、と。
らしくもなく、私は考えていた。
× × × ×
かつて母であった、今は母でなくなった人間の背を見つめながらりいの葬儀をやり過ごし、昼食を用意してくれるという丁寧なお誘いを丁重に辞退して、私は貢と二人、高城家を後にした。
あれ以上お母さんの背中は、見ていたくなかった。
私の姿を見せて、余計な混乱を招きたくはなかった。
あの一週間で電話した際の反応を見れば、どうなるかはわかる。お母さんは、きっとこんな私でも一人暮らしという事実を知ればきっと私を娘のように扱ってしまう。
それだけは、避けなければならない。
「……行こう、貢」
「ええ、行きましょうか……」
純和風平屋の家屋に相応しい玄関から少し貢の手を借りて小雨降り続く夏の空の下へ、歩を進めた。
熱い雨が表情を消した顔に降りかかる。頬に止まった滴が、じわりと頬に一条の筋を濡らす。
ぽつり、ポツリ、ぽつり。
凍った表情の上に、幾条も幾条も上塗りするように、あるいは催促するように、雨の滴が描かれていく。
泣かない私を、許すように。
泣けない私を、あやすように。
ちらりと、左隣を歩く貢の肩越しに背後の家を振り返った。
………さよなら、『お母さん』……。
心中で、亡くした私の母へと別れを告げる。
隣でふっ、と貢が微笑む。答えるように軽く私は頷いた。
――――これで、片原ミヤコは完全に死んだ。
あとはここから離れて、家に帰って、一夜眠って。
………それで、さよなら、だよね…
二週間前に全ての覚悟を固めてきたからだろうか。不思議と感慨はなかった。一度死んだときに全てをなくした私だ、生き直したからと言ってすべてが戻ってくるなんて、最初から思ってなかった。
一つ、区切りをつけた。それだけのこと。
そう自分に言い聞かせ、貢と並んでゆっくりと門柱を潜り――――
「あの……時瀬君?」
その場から立ち去ろう、そう思った瞬間、背後から呼び止める声に、貢が振り返った。聞き覚えのあるその声、その声音。つられるように思わず振り返りそうになり、私は咄嗟にうつむき、表情を隠した。
「………なんでしょう、片原さん」
落ち着いた声音で、貢が振り返った先の人物へと声をかける。
私の、お母さんに。
お母さん、だった人に。
「今日はもう帰ってしまうの? できれば昼食まで残ってくれるとありがたいんだけど……」
「ええ、残念ながら。僕もリョウ君の親友であった身です。できることならご相伴に預かりたいのですが、生憎と今は実家の方が立て込んでいまして」
「そうなの――ごめんなさいね。あの子の友達だった子は、あなただけになってしまったから、つい感傷的になっちゃったのかしら……。だけど、ありがとうね。私から言うべきじゃないけれど、あの子のためにこうして来てくれて」
どこかさびしそうな声音で、お母さんだった人が言った。
「いえ、僕は親友を自負していながら何もできなかった人間です。リョウ君のご家族から――ましてやご両親からお礼を言われる筋合いはありません。片原さんからでもそういっていただけると、とても安心しますよ」
「ふふ……あなたも、相変わらずなのね……」
「ええ、こればかりは変えようがありませんから」
ざっ、と砂を踏む音。次いで視界の隙間に見える黒い人影。
お母さんが、今私の目の前にいる。
「ごめんなさいね、大したことのないことで呼び止めちゃって。――――あら?」
その視線が、私を、とらえた。
心臓を鷲掴みにされたかのような、肺の隙間にナイフを刺されたかのような、ずきんと思い感触がのしかかる。
………見ないで…
今の私を、高浜幾夜を。
お母さんの娘で、在りきれなかった私を。
「その子……初めて見る子ね。名前は、なんていうの?」
「あ、………」
問われた言葉に、思わず顔が上がりそうになる。
それを制すように、貢がゆったりと答えた。
「ああ、そういえば片原さんは初めてでしたね。申し訳ありません、紹介が遅れました。彼女は高浜幾夜さん。僕のご友人で――――例の件の、相方に当たる方です」
そうですよね、と確認するように目線を向けた貢に促され、こくりと頷く。そして挨拶するように一礼。
それが、今の私の精いっぱいだった。
「そうだったの………。ごめんなさいね、辛いこと、思い出させちゃって」
私の無言、俯き姿勢をトラウマによるものと判断したのか、いたわるような声音だった。
否定するように、首を横に振る。
「そう――――あなた、強いのね。少し羨ましいわ…」
「ええ、気丈な方です、幾夜さんは。葬儀には入院中でしたので列席できませんでしたが、それならせめて、と今日この場に来場させていただいたんですよ。見ての通り、あの事件で足を不自由にしまして、僭越ながら僕が介助役を務めさせていただいている次第です」
「大変なのね、あなたも……。だけど……高浜さん、だったかしら。あなた、不思議な子ね……。そんなはずないのに、あなたを見たとき、私の娘が帰ってきたみたいに思っちゃったの」
「………っ!」
………お母さん…そうだよ。私、帰ってきたよっ……
叫び出しそうになる心中をどうにか堪え、俯き加減のまま表情を殺し、やり過ごす。
その様子を疑問と捉えたのか、お母さんはさらに続けた。
「一か月前、だったかしら。高城君からも会いたい、って言われて、その前にかかってきた電話も、あの子にそっくりだったのよ。もう私も歳なのかしら。こんな風に、何度も思い返しちゃうなんて……」
「いえいえ、僕から見るに、片原さんはまだまだ若々しいですよ。それに、リョウ君はミヤコさんの一番近くにいた方なんです。いろいろと思い返すのも、無理はないでしょう」
「………ええ、きっとそうなんでしょうね」
それでも、ちらりとお母さんは私を見た。
「……高浜さん、よければ、あなただけでも残ってもらえないかしら? 辛いことなのかもしれないけど、あなた、高城君の恋人だったんでしょう? 高城君のご両親も、きっと会いたがっていると思うの。それに、私も少しお話したいし……どうかしら?」
穏やかな口調、穏やかな表情。あくまで和やかに私を誘うその声に暗がりはなく、純然たる好意からの申し出であることは一目瞭然だった。
だからこそ――――私は答えられなかった。
答えてしまえば、高浜幾夜である私が耐えられても。
片原ミヤコであった私が、耐えられなくなる。
お母さんをお母さんと呼べない痛みを、吐露してしまう。
だけど、この申し出は対外的にも断りにくく、抗いがたくて。
板挟みになった私に残された選択は、ただ沈黙する以外に残されていなかった。
「……申し訳ありません。見ての通り、彼女はまだ心中の整理ができていない状態です。それに、今日はこの天候ですから足にもよくない。その件は、日を改めて、ということで、お願いできますか?」
助け船を出すように、貢が慇懃に謝罪する。
「ええ……申し出自体が私の勝手な言い草だもの。答えてくれただけでも、ありがたいわ」
言って、お母さんは微笑んだ。
「片原、優子というの。高浜さん、またいつか、会いましょう」
では、とお母さんはその場を後にした。
後に残されたのは、私と貢だけ。
滴る雨の感触が、どこか重い。
「……危ないところでしたね、幾夜さん」
「…………」
隣で胸をなでおろす貢を余所に、私は俯いていた顔を空へとむける。
熱い雨が、顔を打ち据える。
頬に幾条もの滴が、流れ落ちる。
その中に、たった一条。
命を感じる、暖かな滴が混ざり込んだ。