1.夜半
猫の鳴き声が疾く駆ける。
林道脇の暗がり、闇を湛える影の中。乱立する木々は気配なく立ち尽くす亡者の群れ、足元覆い隠す下生えは墓標、照らす月明かりは中天より見下ろす巨大な眼の印象と相成り、猫の啼いた刹那、全てが死んだような無音をあたりへと響かせる。
野良猫が鳴いた、その林道。
全てが死んでしまったかのようなその静寂の間中で、私は足を止めた。
「………誰だ」
誰へでもなく、闇の中へと投じた声。残響を残さず波紋を立てず木々の間を抜けたその音に、応える声がある。
「………さすが《騎志之》が御令嬢。たかが猫一匹と侮りましたか――――やれやれ。久方ぶりとはいえまさかここまで衰えているとは、月日というものは怖いものです」
「…………《時瀬》、か」
ポツリ呟くように言った声は、軽口じみた声を発した闇の中へと溶けた。
「姿を見せろ……。私に、用があるのだろう…?」
「それが無理であることは百も承知でしょう。我ら《時瀬》はそういう存在です。あなたが知らないはずはないでしょう?」
「…………ええ」
光によって物を見る人間にとって闇という要素は世界の溶解に等しい。混濁の中に清純を見通すことが不可能であることが必定であるように、闇の中へとその身を溶かした人間を見ようとする行為は余りにも愚かに過ぎる。
それを知っていながらも、私は気配を探ることをやめなかった。
「………万象を変えぬ、万象に触れぬ、永劫独立の観察者たる《時瀬》が、《騎志之》である私に用向きがある以上、気配の欠片でも見せるが礼儀のはず。《騎志之》の領分に脚を踏み入れた瞬間から交わされた不可侵の約定、忘れたとは言わせない……」
「ええ、存じていますよ。だからこそ今年度同じクラスに配属されてしまった折にも、一切の意思表示を行わなかったのです」
「だったら……なぜいまさら…」
闇に溶けた私の言葉に、闇自身が応える。
《時瀬》とはすなわち『時の淵に立つもの』。与えられた役割は『観察』。時がその場にありながら万物へと自らの意思によって影響せぬよう、かの一族は『そこにありながらにしてそこにない』。故にかの一族は日常の中においてですら存在感がなく、必要でなければ関わることをしない。また御三家に属する他の一族も、《時瀬》とは関わることを望まない。《時瀬》とはすなわち『流れ』、触れることによってその身を崩す濁流である。
そして、そこからわずか離反したものとは言えど、濁流であるということには変わりはない。
「いまさら、何のようなのか」
闇の中から反響すらさせぬ声が、告げる。
「何に関連した用向きなのかは、すでにお気づきでしょう。《騎志之》ご令嬢。――――いえ、ここはクラスメイトとしてお話させていただきましょうか。騎志之、紅義さん」
「…………」
騎志之、紅儀。
それが、私の名前。
この町に生まれ、この地に育ち、この血を宿して役目を負った人間である証左。他人と違うということの証明であり、私を定義するものとして定めた一つの言の葉。
だけど……
「………その名を…呼ぶな。時瀬貢」
ぞわりと全身を舐められたかのような不快感に、身が自然と震える。大事にしていたものを汚された気分だ。湯浴み上がりの体を血と泥にまみれた手で触られたかのような感覚に、自然と眉根がよる。
「それは失礼。では折衷案ということで――――騎志之さん。用件の方はもはや自明の理、改めて説明するまでもないと思うんですが、いかがでしょう?」
ざわり。
内側に溶かし込んだ異物に耐えかねるように、林がその身を震わせた。
得意げな声音を弄ぶ闇へ、猜疑に目を細めながら私は問いかける。
「………何の話…?」
「そのままの意味、ですよ。目の前で解答を明示されている状態で、問答を行うつもりはありません。僕は質問ではなく、確認しているつもりなんですから、そちらもそのつもりでお答えいただきたいものです」
わずかな苛立ちを含めた闇の声、内心を隠すように、私はそれとなく首を傾げた。
………問われるまでもない。ここ数週間のうちで時瀬が接触してくる理由と言われて思い至ることなんて、例の一件以外に存在していないから。
つい一週間前に起こったクラスメイトと、クラスメイトとして存在を割り込ませていた何かによる心中事件。男子生徒が死ぬことによって《何か》がクラスメイトへと変じることとなった、記憶に新しい事件。
時瀬が接触してくるとしたら、その一件以外にありえない。
『どうしてその二人を放っておいたのか』
時瀬は、問い返すことによって暗にそう訪ねているのだ。
――――だけど。
それは、余りにも酷だ、と思う。少なくとも一クラスメイトとしては。
確かに私は状況の機微には敏感で、それでいてあの二人は横から見ていて不思議なほどに仲がよかった。しかしその心中は余りにも突然で、そして突発的なものであり、同時に乾いた藁に放たれた火のように突飛なものだった。
その状況で心中という結果を推測しろ、というのは酷だろう。火のないところに煙は立たない、とは言うものの、無色無臭の燃性ガスが充満しはじめていることを人に知ることはできるまい。
だけど――――そこにガスが充満していることを知ることができた人間になら、酷とはいえなくなる。
そして、そこにガスが満ちていることを理解していた私という人間にとっては。
その結果として人死にが生じたことを当たり前のように予測できていた私にとっては。
到底それは、酷であるとはいえなかった。
そして何より、私も酷だったと言うつもりもない。
とぼけたようにも見える私の仕草に、闇は苛立ちを深めたように林全体で息をつく。大きく震える木々。その中で、ポツリと呟くように時瀬は言った。
「……あくまで白を切りますか…」
「…………あの二人を、見捨てたつもりはない。ただ、結果が想定外だった。それだけのこと……」
そう。『誰かが死ぬこと』までは私の予想の範囲内。人死にが生じたこと自体は想定外でもなんでもない。ただ、死ぬ人間が想定していた人間とずれていたこと、それだけが私の想定外。後悔は事象よりも遅く因果を翔ける。彼が死ぬことを想定できていたのなら、私は全力をもって紛れ込んでいた異分子を排除しただろう。少なくとも彼の葬儀において必死になって涙をこらえていた事実を、私は曲げるつもりはない。
「高浜幾夜の乱入を知りながら、それを放置したことに関しても同じことを言いますか」
「あの時点では有害が無害かを測りかねていた……。無害な人間なら…私がどうこうする必要も生じない」
少なくとも十日ほど前にクラスの中に何食わぬ顔で侵入してきた存在、《高浜幾夜》に関して直接的な害があるようには到底見えなかった。至極一般的な生徒、その《設定》の中に矛盾はあったが、少なくとも模範生。他者に害為す様子もなく、その気配も――――おかしなものではなかった。
そしてついで言えば、その存在が何かを『殺す』としたら、彼女自身以外ではありえなかった。
あの存在は、確かにそういう存在だったはずなのだ。
ひっそりと自らの望みをかなえ、ひっそりとまた消えていく。ただそれだけの、存在のはずだったのだ。
頷くように木々が揺れる。重ねるように、時瀬が問いかけた。
「確かに、あの状況ではどうこうする必要は見出せなかったでしょう。ですが、あなたは他の生徒とは違い、知っていた。そうでしょう?」
「……何を」
ゆらり。闇の一部が、揺らいだ。
「《高浜幾夜》が我々の中に突然出現した闖入者であることを、です。それだけで御三家に関わる我らにとって警戒する対象であるということは自明の理。違いますか?」
「………例えそうだったとしても、《騎志之》である私にその役目はない………」
――――《御三家》。
そう称される、ある一族がある。
過去、とある目的のために一つの大家から三つに派生した三つの家系。過去から面々と、さながら大河のように血脈に役目を乗せて、現在まで語り継いだ純然たる歴史。その一族は血の中に特異な『力』と才能を宿し、芸術を糧としながら、ある目的のために各所を流離う。
一つは《錦戸》。私の属する一族の宗家であり、《剛》の力と舞踊の才覚を有する力の家系。
一つは《寿》。彼の属する《時瀬》の宗家。歌唱の才と《技》の力宿す柔の家系。
一つは《藤雅》。女系一族であり《叡》の力と絵画の才に優れた知の家系。
幾星霜の時を経て反映と衰退、吸収と併合を繰り返しながら現代まで残った、それは、『終わりを集めるため』の一族である。それぞれの一族は宗家三家を別とし、それぞれがそれぞれの役目を負う。
私の一族の役割は「旅籠」。《騎志之》とはすなわち《岸》、流れるものの寄る辺である。特定の町に居を構え、そこに来訪する御三家の旅人に一時の休息を与える。
それだけが私たち一族の役割であり、あくまで居を構えた町を守護するのはついででしかない。
「それに………私も《彼女》以外が死ぬ事になるなんて思わなかった………」
もしあの時点で予想できていたのなら、もし彼女が彼を殺すことを知っていたのなら。
きっと私は、いかなる手段を使ってでも彼を守っただろう。
思っても仕方がない『もしも』は重みだ。今現在とは違う結末があったかもしれないという可能性は、それだけで後悔を生む。
「そこに関しては僕も同意しましょう。友人としてリョウ君の一番近くにいたのは僕ですが、まさか彼が彼女の終わりを肩代わりすることに成功するなんて……。完全に予想外ですよ、おかげでまた友人をなくす羽目になった」
自嘲するように、闇の中の時瀬が告白する。
「その代償として一人の友人が還ってきたのでプラスマイナスゼロと言う見方もできますが、それにしたところでつりあいは取れません。まったくもって、終わりというのは嫌なものです」
「…………」
「終わりというのは万象に等しく訪れるもの。だけどそれはつまり幸福や不幸をそれ自体が持つことがない……絶対中立である証でもあります。それ故にそれは救いでもあり、また災厄でもある――――。こう考えれば、何かの足しにはなるかもしれませんね」
「………何が言いたいの……時瀬」
闇へとめがけて発した私の言葉に、時瀬は含み笑いで応えた。
「いいえ、別に。ただの言葉遊びですよ。僕がこうして禁に接触しかねないほどの行為を行っている……ね」
「……?」
何を……言っている?
理解不能な世迷いごと、そういい捨てるのは簡単だ。
だけど、それをしてはならない理由が存在する。時瀬の言葉は、無視しては成らないと本能が告げている。
その内心を察したのか、闇は喉が震えたような声で哂った。
「くっくっくっ……。さすがは《騎志之》。察しが早くて助かります。リョウ君の察しの早さもなかなかでしたが、あなたはそれ以上だ……。さすがは岸であり騎士、お見事ですよ」
「……虚言はいい…。何が…言いたいの」
今この町には時瀬が動くような事態は起こっていない。時瀬とは観察者、記録者、流れを眺めることはあれども泳ぐことはない者。それが動くときとはすなわち、流れそのものが止まろうとしたときのみ。異物を除くのは泳ぐものの役目であり、そして今、町には流れの静止はおろか、異物の流入すら起こっていない。
「何も起こっていない、と。そうお考えですか?」
私の内心を汲み取ったかのように、時瀬は闇の中で不敵に笑った。
「ふふふ、そう。事実この町にはあの心中事件以来大きな事件も起こっていません。表面的にも裏面的にも、ね。ですが、何も起こっていないからこそ問題であるという言い方もできる、ということをお忘れなき用、お願いしますよ。何も発生していないことは、決して何も問題がないことと等号関係にはないんです」
「前置きはいい。何を言いたいの」
「何、簡単な話です。僕たちの宗家たる御三家、ひいてはこの町に居を構える《術儀》をもつ人間としては重要な、ね」
「………それは、何」
重ねて畳み掛けるような問い、それに対し、時瀬は告げる。
「この町に一人もしくは複数、《白玉》を有する人間がいます」
「……っ」
思わず息を呑んだ。
「僕、リョウ君とミヤコ――幾夜さん。これだけでは飽き足らず、この町の終わりはまだ終わっていない。そればかりか、更なる拡大の兆候があるようです。まったく持って飽きない町ですよ。ほんとに、ね――」
「……………」
自嘲するかのように苦笑したであろう時瀬を他所に、私は自分の考えをめぐらせた。
御三家が求める終わりを齎すもの……桃球。
それは何の感情も有さない無味乾燥な白――白玉からそれに関わった者の感情を経ることで桃球へと姿を変え、御三家の求める存在となる。
さながらそれは真珠が桃真珠に変わる際に内側へ別の物質の混入を必要とするようなものだ。
そして――――今あるものの変化を要求する存在である以上、さらには内側へ取り込むことを必要とする存在である以上、その変化には何かの犠牲を確たる確立で必要とする。
砂の塊へ宝石を埋め込むためには砂をあたりへとのける必要があり、変化とは今あるものの破壊に等しい。
白玉という存在が一つあるだけで、その存在に関わったものは必ず何か一生涯の傷となるようなことに遭遇してしまうことを運命付けられる。
そして、時瀬がその存在を関知しているという事実はつまり――――
「………誰か、わかってるの?」
「いいえ、現状ではどなたが所持しているのかは不明です。ですがこうして僕が接触を取っているという事実から、ある程度は推測できているのでしょう?」
つまり、白玉の所有者は私の近場――学校、家、知人の範囲に存在している。その気になれば手の届く範囲に、すでにお役目が迫っている。
………またか。またなのか。
また、『彼女』が渦中にいる可能性が生じたのか。
数年がかりで終わらせたはずなのに。『彼女』の守護を負かされた騎志之の者として、彼女を「終わらせる」何かは終わらせたはずなのに。
その末に発生してしまった入院期間も終わって、これで全てが終わったはずなのに。
どうして――――こうも簡単に世界は狂う。
「……………」
「……ふむ。どうやらあなたにとっても終わりという事象は幸いなものではないらしい。心中、お察ししますよ」
「…………、ありがと…」
「いえいえ、礼には及びません。不幸ごとの連続は、誰にとっても応えるものですからね。傷の痛みをいたわることができる人間は、その傷の痛みを知っている人間だけです。僕にも同じ経験があるという、ただそれだけのことですよ」
昔を懐かしむように、闇の中の時瀬が微笑んだ。
ざわり。死人の群れのような林の木々が一斉に揺れる。まるで嵐に傾ぐ人のようだ。人いきれの間で私は足を止め、人いきれの影の中で時瀬は笑む。
「ですが、一つ。完全に時瀬の領分から逸脱しますが、警告しておきましょう」
「………警告?」
「はい。忠告ではなく、警告です。どうするかは聞いた当人に委ねるしかないのですが、とにかくこれは、警告です」
いいですか、と時瀬は前置きする。
こちらの準備の有無を問うための前置きではなく、自らの内側を受け止める覚悟をさせるための前置き。時間にして二秒足らずしか存在しない時間、それの後に、時瀬は言った。
「できる限り早いうちに、あなたの護衛する彼女、弓塚紫陽を殺してください」
「………っ!」
一瞬、世界が停止した。
闇を孕んだ林がざわめく。木々の動きは祈るようだ。あるいは手折られることに耐えているのだろうか。いずれにせよ、その動きは決して幸福を意味するものではない。
何を言っている? どういう意図で言っている?
どうして、観察者たる時瀬が現時点では無関係なはずの弓塚を殺すことを迫ってくる?
理解ができない。判断が追いつかない。
故に――――衝動に、理性が届かない。
駆けた時間は刹那。閃いた光は六徳。
その挙動は光。獣を置き去り、音と決別し、動き一つ許さぬ速さで肉薄したことにも気付かせず肉薄する光そのもの。
追いつくことなど到底不可能、見ることさえも許されるか定かではない、それだけの速さをを持って制服の両脇に仕込んだ二本のハンティングナイフを抜き出し、
そして闇の中、林の中の一本の木にもたれかかっていた時瀬のその首へ、手中の銀を突きつけた。
「………おっと」
「…………」
驚愕に目を見開く無駄のない造形の表情。身に纏う制服、驚きながらも焦燥のない気配。余りにも普段と変わらぬその様子は、刃が首に突きつけられているという今の状況に、余りにも不似合いだった。
「……驚きました。存在を気取られることは想定の範囲内でしたが、まさか位置まで気取られていたとは――――」
「侮るな……時瀬。病める舌の位置など…アレだけの時間を与えられていて気付けぬ道理はない」
ふっ、と時瀬の表情から力が抜ける。
「やれやれ、お見逸れしました。どうやら僕はあなたを侮っていたようだ。御三家の旅籠、ただの護衛役かと思っていましたが、まさかここまで腕が立つとは――――」
「黙れ」
手の中の銀の先端を、針の先ほど首へと突き刺す。極々微細な皮膚を穿つ感触、刃へ滲むちいさな赤。
「――――紫陽を殺せ……それは、どういうこと?」
「言葉どおりの意味、です。あなたが護衛役を務めている彼女は危険と成りうる。だから危険の種が種であるうちに破壊してくださいと、そういっているのです」
なんでもないことを告げるような涼しげな顔で、時瀬は警告する。首につきたてられた刃など存在しないかのように、その表情にはちいさな笑みすら浮かんでいた。
「………殺さない」
「どうしてです?」
「……紫陽は、叔父上から護衛を任された人物。町の守護と同時…破ることのできない御状。いくら可能性があると言い募られようと……任を放棄できない」
それに――――私には、人を殺せない。
赤い色を思い出す。純白を染め上げた紅の色。掌に滑る紅は冷たく、素足に触れる紅は暖かい。相反する矛盾は陶酔を生む鉄錆に溶けて消え、震える体が恍惚に揺れた。
「………っ」
不快な記憶を握りつぶすように、頭一つ上にある時瀬の笑みを睨み付ける。下側から向けられる目線に、時瀬は更なる笑みをもって答えた。
「その可能性の中に御三家の大令が関わる、といっても、ですか」
「…………」
沈黙を返す。答える必要はない。
やれやれ、とでも言うように、時瀬がため息をついた。
「……仕方ありませんね。僕としてはこうなることは避けたかったんですが――――」
にっこりと、時瀬が笑みを変える。
仮面のような内側を伺わせない笑みから、内側から滲み出る狂気で染め上げられたかのような笑みに。
「――――あなたがやらないというのなら、僕がやりましょうか」
その笑みから滲む狂気に害意に敵意に殺意に一瞬警戒から身を強張らせ、それでも使命感から刃をさらに突きつけようと前に体重を寄せた、その一瞬、
時瀬の背後、木の裏で、目を焼くような閃光がはじけた。
「…………っ、ぁっ!」
月光に慣れた目に閃光が突き刺さる。神経を眩ませる強過ぎる刺激は痛みにも似た感覚で視界を白から黒へと染め上げ、染め上げられた視界が脳裏を白紙へと変える。
突き立てる刃が、上へとはじかれた。
影にも似た薄い気配が、背にした木を回ってはその裏へと消えた。
「………っ」
失策だ。時瀬の口車に乗り、直情で我を失って取り逃がした。風に漂うわずかな硝煙の香り。となるとさっきのは自作の閃光弾か何かだろう。その程度が自作できたとしても、一切の不思議はない。
追撃は、不可能。閃光に目が痛い。暗がりを見通そうにも焼かれた視界は月光ですら見せてはくれない。気配を掴もうにも、時瀬の気配は薄すぎる。
大きく息をつきながら、手探りで木を背にして腰を下ろした。
ナイフをホルスターに収め、目を閉じる。
直情に猛った体に、夜風が涼しい。目を閉じた暗闇は、焼け付いた瞳にはとても穏やかだ。連想させるのは胎内。もしくは、死後だろうか。
………死後…。
ふと…思う。
彼女の終わりに飲まれて死んだ彼は、幸せだったのだろうか、と。
不機嫌そうに、あるいは辛そうに窓際の席に座り、何かを刻むように己の身を切刻む彼。暗がりに潜む獣のようでありながら、その姿はどこか弱々しくて、今にも消えてしまいそうなほど儚げで―ーそしてどこか…そう……愛情というものが欠けているような、寂しげな雰囲気を湛えていた。
彼は優しい。だけど、それはとても不器用な優しさ。
彼は頼もしい。だけど、それはとても不恰好な頼もしさ。
彼は聡しい。だけど、その聡しさは彼自身を傷付ける聡しさ。
一生懸命に不器用で、とても人間らしいのに何かに追い立てられるように自分を傷付ける彼。私は彼の多くを知らないけど、それでも彼が優しいというのはわかる。
人一人を全身全霊で背負おうとしているその姿は、健気で頼もしい。
………話してみれば…よかったのかも……。
いつも話そうかと、考えていた。
だけどその機会はやってこないうちに、彼は私の目の前から消えた。
その生涯は果たして幸せだったのだろうか。
その問いに答えはない。想像することもできない。身を切刻み続けた彼の思いを知ることは、私には余りにも難しい。
だけど――――知りたい。
恋だね、と紫陽は言った。
………そうかもしれない。
彼のことを考えると心臓が温かくなった。
彼のことを思うと楽しくなり、不安になった。
彼のことを知るととてもうれしくなった。
彼と一言でも言葉を交わすと、どこか気分が弾んだ。
これは恋心? それとも…何かの錯覚?
わからない。だけど、彼が私を幸せな気分にしてくれる、というのは確かなことで。だから傍にいたいと思っていたこともまた確かなことで。
――――そして、いつかその恋心という言葉を否定できなくなって。
だけど思いは思いのまま、言葉にはならなかった。
彼は、逝った。
私の、届かないところへ。
「………守らなきゃ」
立てた膝を抱き、宣言するようにつぶやく。
紫陽は、私の大事な家族。父上も母上も妹も、すべてをなくした私に残されたたった一人の大事な人。
だから、彼女だけは逝かせたくない。
失いたく、ない。
そのために――――
「紫陽を……守る」
呟いた誓いの言葉は、闇に溶けて消えた。
答える声は、なかった。