友だちのことが本当に羨ましかった。
友だちのことが本当に羨ましかった。
容姿とか成績もそうだけど、それは努力である程度なんとかなる。
本当に望んでいたものは、私の努力ではどうにもならないものだった。
強い羨望は徐々に嫌悪へと形を変えた。
これは高校生の頃、私が友だちのことを羨ましがっていた話だ。
*
「希死念慮って言葉知ってる?」
帰り道の途中、私はおもむろに隣を歩く女の子に尋ねた。
「きしねんりょ?」
視線の先にいる彼女は、こてんと首を傾げる。
「どういう漢字?」
「希望の希に死ぬの死で希死で……」
私は簡単に希死念慮について説明した。
「死にたいってなんとなく思う感情のことを希死念慮って言うんだって」
「へぇー」
彼女は何とも言えない感情で頷いた。
「西片さんは希死念慮がある感じ?」
「まあちょっとね」
別に自殺したいって考えるほどじゃない。
なんとなく死にたいなってぼんやり考える程度。
「山口さんはどう?」
「私はそんなにかなぁ」
死にたいってほどではないよ、と彼女は呟いた。
その返答に私は少しイラっとした。
心の隙間に入り込む、湿気の帯びた感情。
溜め息を吐いてから口を開く。
「山口さんっていいよね」
少し先の信号に焦点を合わせる。
青信号がチカチカ点滅して赤になり、車が左折した。
いま車道に入ったら車に轢かれて死ねそうだな、なんてちょっと思った。
「私は西片さんのほうが羨ましいよ」
山口さんはなんてことないように呟いた。
その言葉に色々な意味があることはわかっている。
わかっているからこそ、私は何も反応することができなかった。
しばらく無言のまま歩いていたが別れ道まで来た。
「じゃあまた明日ね」
「うん、バイバイ!」
山口さんは大きく手を振ってくれた。
裾の中に視線が吸い込まれたけど、流石に今は見えなかった。
体育で着替えてるときに見えるから、そこにあるのはわかってるんだけど。
彼女と別れてから、早歩きで自宅に帰った。
靴を脱いでから階段を上って、すぐ自分の部屋の中に入る。
カバンを下ろして部屋着を取り出して階段を降りた。
脱衣所で制服を脱いでから、T字カミソリを持って浴室に入る。
鏡に映る私の体つきは、同い年の女子と比べても貧相なものだった。
「……チッ」
舌打ちをしてから手首に視線を落とす。
そこには小さな切り傷が残っていた。
ぐうぜん切ってしまったって言い切れるレベルのものだ。
夏服を着てる時期は跡が目立つから、別のところにしないと。
「太ももでいいかな」
小さな浴室に私の声が反響した。
カミソリを持って自分の内太ももにつける。
そしてそのカミソリを、さっと横に引いた。
「……っ」
一瞬だけ鋭い痛みが走る。
少し遅れて赤い液体がじわじわ漏れ出した。
重力に従って下に落ちて行き、床にぽたりと落ちる。
血が止まらないまま、いつも通り身体を洗い始めた。
初めてこういうことをするようになったのは小学生のころ。
最初は自分を傷つけようと思ってしたわけじゃなかった
家にあったカッターナイフの先端を指でなぞったときに、血が出てしまったのだ。
いつまでも血が止まらないからこのまま死ぬのかな、ってぼんやり思った。
でも血はいつのまにか止まってしまった。
それから、なんとなく自分の身体を傷つけるようになった。
これといった理由があるわけじゃない。
現実感を得るため、みたいな大層な理由もない。
したいからやってるってだけ。
「……はぁ」
マジでなにやってるんだろ。
血が止まった太ももを見ながら溜め息を吐いた。
*
晩御飯を食べてから、すぐに自分の部屋に戻る。
暗い部屋に入ると、スマホだけが明るく点灯していた。
明りを付けてからスマホを手に取ると、山口さんから連絡が来ていた。
明日提出の宿題に関する質問だった。
「……知ってるくせに」
彼女は明日提出の宿題があることを知ってるにも関わらず、私に連絡してきた。
おそらく、私が宿題を持って来るのを忘れないようにするためだ。
山口さんは私に優しすぎる。
お昼ご飯のときはすぐに近づいてくるし、
放課後になったら一緒に帰ろうって誘ってくるし、
遠くで目が合ったらこちらに手を振りながら話しかけてくる。
私は、そんな彼女のことが嫌いだった。
だって山口さんは——
「とりあえず返信しとくか」
じめじめした気持ちには蓋をして、山口さんに返信をする。
すぐに既読が付いて、ウサギが頭を下げるスタンプが送信されてきた。
学校にいるときの山口さんみたいな、ファンシーなスタンプだった。
*
「西片さんおはよー」
教室に入って椅子に座ると、すぐに山口さんが声をかけてきた。
「おはよ」
私は手を上げて挨拶をした。
「ちゃんと宿題持ってきた?」
なんてことないような感じで彼女は尋ねて来た。
でも私は、その口調に少し違和感を覚えた。
普通の人なら見落としてしまう、ちょっとした違和感。
山口さんの全身をくまなく見る。
やっぱり見える位置にはなかった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「山口さんが言ってくれたから、ちゃんと持ってきたよ」とすぐに呟いた。
「私も昨日の夜気づいたんだけど……」
そう言って山口さんは話を始めた。
話を聞きながら、彼女の身体にあるはずの傷について考える。
山口さんは自分の母親から暴力を受けているらしい。
「らしい」というのは、山口さんから詳しく聞いたことがないから。
高1の体育の授業前に、お腹にある痣について聞いたときに少し教えてくれただけだ。その時は「お母さんにちょっと」としか言ってなかった。
その日以降、山口さんは私との距離を一気に詰めた。
前まではそんなに話をする感じじゃなかったのに、いつもべったりになったのだ。
ご飯を食べるときもお手洗いに行くときも帰るときも、一緒にいるようになった。
それまでは他の子と話をしていたのに、私とだけ話すようになった。
その理由について、私は色々考えてみた。
話しやすい雰囲気をしてたからかなとか、
痣を見られても私が引かなかったからなのかなとか、
ちょうど同じタイミングででいつものグループでハブられたのかなとか。
でも山口さんは何も言わずに、私と一緒にいるだけだった。
「そろそろ朝の会始まるから、またね!」
「うん」
そう言って山口さんはパタパタと自分の席に戻っていった。
彼女の後姿を見ながら、私はぼんやり思った。
やっぱり私、この子のこと嫌いだなって。
*
高校卒業まで私たちは変わらなかった。
私はたまに自分の身体を傷つけたし、山口さんは母親に暴力を振るわれた。
高校を卒業してから私は大学に進学して、彼女は隣の県の企業に就職をした。
地元を離れる選択をしたのは、たぶん母親から逃げるためだったのだろう。
そしてそのまま、私たちの関係は自然消滅した。
関係を維持する気はなかったし、山口さんも行動をすることがなかったからだ。
時間の前では一時期の関係なんて無意味なんだなって思った。
今にして思えば、山口さんは私に助けてもらいたかったのかもしれない。
そう考えると納得することがいくつもあった。
じゃあ今高校時代に戻ったら彼女のことを助けるかと言えば、たぶん助けない。
私は彼女のことが羨ましかった。
被害者だったことが羨ましかったのだ。
心の底にあったのは強烈な劣等感、自傷行為の加害者としての惨めさだった。
自傷行為は加害者も被害者も自分だけ。
でもDVは加害者と被害者の最低2人はいないといけない。
その中で、山口さんは完璧な被害者だった。
それがどうしようもないくらいに羨ましかった。
だって被害者面ができるから。
悲劇のヒロインの振る舞いが許されるから。
でも彼女はそんな姿を1ミリも見せなかった。
それが逆に気丈に振る舞う被害者って感じで嫌いだった。
もし私が山口さんのことを助けて上手くいったら、彼女は元被害者として振舞う可能性があった。それがどうしても耐えられなくて、私は見て見ぬふりをした。
私の静観が彼女にどう映ったのか、今となってはよくわからない。
単に気づいていないだけかもって思ったかもしれないし、失望したかもしれない。
私のことは嫌いになってもらって構わない。
だって私は、被害者に嫉妬するようなゴミみたいな人間だから。




