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偽りの聖女は、それでも祈り続ける

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/05/14

 最初に見えたのは、白い天井の継ぎ目だった。

 石造りの天井に走る亀裂を、エルダの目が意味もなくたどっている。

 亀裂は途中で二つに分かれて、片方は壁際に消え、もう片方は窓枠の手前で途切れていた。

 窓の外から風が吹き込んで、薄い布の帳が揺れた。消毒薬の匂いに混じって、白百合の香がした。


 救護院の匂いではなかった。

 エルダは指先を動かした。感覚がある。

 次に手首。肘。肩。左半身に鈍い痛みがあるが、動く。

 生きている、という事実を、身体が一つずつ確認していく。


 枕元に水差しがある。その表面に映る顔を見た。

 知らない顔だった。


 エルダの手が水差しに伸び、指先が触れ、そして止まった。

 自分の顔に手を当てる。頬の輪郭。鼻梁の高さ。額に刻まれた、温かい光を帯びた紋様。


 どれも自分のものではなかった。


 部屋の隅で衣擦れの音がした。


「お目覚めですか」


 声の主は、銀糸の刺繍が入った黒衣をまとう年配の女だった。

 背筋が真っ直ぐに伸びて、両手を前に揃えて組んでいる。

 給仕の所作だが、それ以上の重みがある。

 長い年月をかけて磨かれた、仕える者の矜持がその姿勢に宿っていた。


 侍女長メーアラ。聖女ルミナーレに最も長く仕えた女。


 エルダはそれを知らない。

 ただ、知らない部屋に知らない顔の自分がいて、知らない女が枕元に立っている、その事実だけが明確だった。


 メーアラがエルダの顔を見た。

 目を細め、唇をわずかに引き結んだ。探るような視線だった。

 そしてすぐに、感情を飲み込むように一度だけまばたきをした。


「お身体はいかがですか」


 エルダは口を開きかけた。唇が動いた。だが、声は出なかった。

 喉に手を当てる。痛みがあるわけではなかった。声帯が壊れたわけでもない。

 ただ、何を言えばいいのかが分からなかった。

 ここがどこで、自分が何で、この顔が誰のもので、何が起きたのか。

 問うべきことが多すぎて、最初の一語が定まらなかった。


 メーアラはしばらくその沈黙を見つめ、それから静かに椅子を引いて腰を下ろした。


「順を追ってお話しします」


 瘴域の暴走。

 聖女ルミナーレの最期。

 力の残滓の転写。


 メーアラは淡々と語った。

 声は平坦だったが、「ルミナーレ様」という名前を口にするたびに、わずかに間が空いた。

 その間の長さだけが、侍女長の悲嘆の深さを物語っていた。


 エルダは身を起こし、毛布の上に両手を置いて、メーアラの言葉を聞いていた。


 聖女ルミナーレは後継者を選び、儀式を整え、引き継ぎの日取りまで決めていた。

 ただ、瘴域が待たなかった。暴走は予測より二ヶ月早く、巡行の最中に起きた。

 ルミナーレは民を守るために残るすべてを使い、そして消えた。

 力の残滓は行き場を失い、最も近くにいた人間に流れ込んだ。


 それがエルダだった。

 辺境の救護院から巡行に同行していた、名もない治癒術師。


 メーアラは最後に、手を膝の上に置いたまま言った。


「聖女の不在が知られれば、民は瘴域への抵抗を失います。各地の防壁を支える祈祷師たちも動揺するでしょう。ルミナーレ様が進めておられた後継の儀式を完了させるまで、おそらく数ヶ月。その間だけ」


 メーアラの目がエルダを見た。


「聖女として、振る舞っていただけませんか」


 沈黙が降りた。


 窓の外で鳥が鳴いていた。白百合の香が風に揺れた。

 メーアラは黙って待っていた。

 急かすでもなく、懇願するでもなく、ただ、ここに選択があるのだということを示すように。


 エルダは自分の両手を見つめた。

 包帯の巻き癖で指先にできた小さなタコがある。

 救護院で何百回と繰り返した動作が刻んだ、自分だけの手。

 それが今、聖女の紋様を帯びた腕の先に繋がっている。


 長い時間が過ぎた。


 エルダは毛布を除けて、ゆっくりと足を床に下ろした。

 立ち上がる。

 裸足の足裏が冷たい石の床を踏む。


 部屋の衣桁に、聖女の白衣が掛けられていた。

 金糸の刺繍が灯火を受けて淡く光っている。

 ルミナーレが身につけていたものではなく、新しく仕立てられたものだった。

 聖女の意匠だけを忠実に再現した、中身のない器。


 エルダはその前に立ち、しばらく動かなかった。


 それから、自分の手で袖を通した。

 右腕。左腕。前を合わせて、帯を結ぶ。

 指先がわずかに震えていた。だが、手は止まらなかった。


 メーアラは椅子から立ち上がっていた。

 何か言おうとして、やめた。


 エルダの背中が、小さく見えた。

 聖女の衣は彼女の身体には少し大きく、肩の縫い目が外側にずれていた。


 ****


 翌日からメーアラの指導が始まった。


 歩き方。聖女は左足から踏み出す。

 ルミナーレの癖ではなく聖女の作法として定められた歩行の型が十二種あり、場面ごとに使い分ける。

 大聖堂の回廊では第三の型、謁見の間では第七の型、民衆の前を行列で歩くときは第一の型。


 エルダは何も言わずにメーアラの足元を見た。

 メーアラが一歩踏み出す。エルダがそれをなぞる。

 足の幅が合わない。


「違います。もう少し内側に」


 もう一度。


「膝を伸ばしきらないで」


 もう一度。


 エルダは汗が額に滲むまで繰り返した。

 メーアラが「今日はここまでに」と言っても、エルダはまだ歩いていた。

 部屋の端から端まで、何度も何度も。

 メーアラが水差しと杯を差し出して、ようやく足を止めた。


 祈りの作法。

 両手の組み方、指の角度、目を伏せる深さ、唇の動き。

 聖女の祈りは発声を伴うが、エルダは声を出さなかった。

 メーアラは最初それを指摘しようとして、口を閉じた。

 エルダの唇が動いている。声こそ出ていないが、祈祷の言葉を正確にかたどっている。


 三日目。

 食事の作法。聖女は公の場で食事を取ることがあり、その所作は民衆に見られている。

 スプーンの持ち方、パンの割り方、杯の傾け方。


 メーアラが手本を見せている最中、エルダが不意にスプーンを置いた。

 メーアラの手を見ている。手本を見せるそのたびに、わずかに動きが鈍ることに気づいたのかもしれない。

 これはメーアラ自身の所作ではなく、ルミナーレの所作をなぞって見せているのだから。

 亡き主の動きを自分の身体で再現するたびに、メーアラの指先はかすかに逡巡していた。


 エルダが立ち上がり、水差しから杯に水を注ぎ、両手でメーアラに差し出した。

 聖女の作法ではなかった。

 どこかの田舎の素朴な敬意のこもった渡し方だった。


 メーアラは杯を受け取って、一口含み、そして目を伏せた。


「……続けましょう」


 声が少しだけ柔らかくなっていた。


 ****


 一週間後、聖騎士団長レクトとの初対面が設けられた。


 レクトは長身の男で、灰色の短髪を後ろに撫でつけ、聖騎士の正装である白銀の鎧をまとっていた。

 腰の剣は儀礼用ではなく実戦のもので、柄に無数の使い傷がある。

 目は暗い灰色で、感情の読めない男だった。


 部屋に入るなり、レクトはエルダの前に跪き、型通りの忠誠の言葉を口にした。

 だが、その視線は、跪きながらもエルダの全身を精査していた。

 立ち上がったレクトが、一つ問う。


「ルミナーレ様。お加減はいかがですか」


 エルダは小さくうなずいた。

 メーアラに教わった通りの角度で。


 レクトはしばらくエルダを見つめ、それから目を逸らした。

 何かを飲み込むような顎の動きがあった。


 退室するとき、レクトはメーアラとすれ違いざまに、極めて小さな声で言った。


「あの方は、ルミナーレ様ではない」


 メーアラは足を止めなかった。

 ただ、同じ声量で返した。


「存じております」

「承知の上で、この芝居を続けるのか」

「芝居ではありません。時間を稼いでいるのです。ルミナーレ様が望まれたことを完遂するために」


 レクトの足が止まった。

 振り返り、メーアラの背中を見た。


「——あの人は。何も言わないのか」

「一言も発しません」


 レクトは長い沈黙のあと、回廊に足音を響かせて去った。


 ****


 最初の巡行は、王都近郊の農村だった。


 瘴域の縁に位置し、毎年少しずつ畑を侵食されている村。

 聖女の巡行は年に一度、この村を通る。

 ルミナーレはその都度、瘴域の進行を祈りで押し戻し、村人たちに希望を渡してきた。


 馬車の中で、エルダは窓の外を見ていた。

 麦畑が広がり、その向こうに紫黒の霧が地平を覆っている。

 瘴域だった。生き物の気配のない、静かな侵食。

 畑の端に杭が打たれていて、去年はここまでだったのだと示していた。

 今年の瘴域は、その杭を三歩ぶん越えていた。


 村に着くと、人々が集まっていた。

 老人、子ども、働き盛りの男女。

 皆が聖女の馬車を見上げている。

 その目に縋るような光がある。


 エルダが馬車を降りた。

 教わった通りの足の運び方。

 背筋を伸ばし、手を前に揃える。

 白い聖衣の裾が土を引いた。


「聖女様。今年も来てくださいましたか」


 村長が跪いた。

 その声が震えていた。老いた声だった。

 何十年もこの村を守ろうとしてきた、その重さが喉に溜まっているような声だった。


 エルダは村長の前に立った。

 教わった通りに手を伸ばし、村長の肩に触れようとした。

 聖女がよく行う祝福の所作。


 だが、手が止まった。


 村長の首筋に、古い傷跡があった。

 紫がかった傷が皮膚を這い、耳の後ろまで続いている。

 瘴域の霧を直接浴びるとできる傷。

 治癒術では完治せず、冬になると痛む。

 エルダは救護院で、この種の傷を何度も手当てしていた。


 エルダの手が、祝福の所作を離れた。


 無言のまま、村長の首筋に指先を当てた。

 傷痕の状態を確かめる触診。

 救護院の治癒術師が、患者に最初にする動作だった。


「聖女様……?」


 村長が驚いて顔を上げた。

 エルダは答えない。指先で傷痕をたどり、それから自分の腰の小袋から軟膏の小瓶を取り出した。

 聖女の持ち物ではない。メーアラの指導をすり抜けて、エルダが自分の荷から忍ばせていたものだった。


 蓋を開け、指に軟膏を取り、村長の傷跡に薄く塗る。


 村長は呆然としていた。周囲の村人たちも、沈黙していた。

 聖女は祈る。聖女は光で癒す。

 こんなふうに、軟膏を指で塗る聖女を誰も見たことがなかった。


 メーアラは馬車の傍らで、唇を噛んでいた。

 台本にない行動だった。聖女の威厳を損なう行動だった。止めるべきだった。


 ──止められなかった。


 エルダの横顔が、あまりにも自然だったから。

 借り物の顔で、借り物の衣で、借り物の立場にいる彼女が、軟膏を塗るその瞬間だけ、本来の自分に戻っているように見えたから。


 村長の目に涙が浮かんだ。軟膏が沁みたのではない。


「……温かい」


 そう呟いた。


 エルダは小瓶の蓋を閉め、村長の手にそれを握らせた。

 冬が来る前に、もう一度塗るように。

 そう言いたげに、小瓶の蓋を二度、指で叩いて見せた。


 村長は頷いた。小瓶を両手で握りしめ、何度も何度も頷いた。


 ****


 瘴域の境界での祈りは、メーアラが最も恐れていた場面だった。


 聖女ルミナーレの祈りは光を放った。

 大地を覆い、瘴域を後退させ、村人たちに一年分の安堵を与える奇跡だった。

 エルダに宿った力の残滓で、あれと同じことができるはずがない。


 瘴域の前に立つエルダの背中を、レクトが見ていた。

 聖騎士団が周囲を固め、村人たちが遠巻きに見守っている。


 エルダは両手を前に組んだ。

 教わった通りの祈りの姿勢。目を伏せ、唇が動き始める。

 声はない。


 しばらくの沈黙があった。

 光は来なかった。

 瘴域は動かなかった。


 村人たちの間にざわめきが走り始めた。

 レクトの手が剣の柄に触れた。

 メーアラは目を閉じた。


 エルダは目を開けた。

 瘴域を見た。

 紫黒の霧が畑を侵食し続けている。


 エルダは祈りの姿勢を崩し、一歩前に出た。

 もう一歩。瘴域の縁に向かって歩き始めた。


「聖女様、お下がり下さい」


 レクトが動いた。

 エルダは振り返らない。瘴域の縁に膝をつき、地面に手を当てた。

 汚染された土。触れれば皮膚が灼ける。

 エルダの掌の下で、微かな光が——聖女の奇跡ではなく、治癒術の淡い光が灯った。


 エルダは土を治療していた。

 人の傷口を塞ぐように、土の汚染を少しずつ、手のひら一つぶんずつ浄化していた。

 気の遠くなるような速度だった。


 ルミナーレが一瞬で成し遂げたことを、エルダは両手を土に押し当てて、ちょっとずつこなしていた。

 掌が赤く腫れ始めた。汚染の毒が皮膚を侵しているのだった。


 レクトが駆け寄った。エルダの腕を掴もうとしたのだ。

 エルダの手がそれを払いのけた。

 振り返らないまま、ただ一度だけ、はっきりと首を横に振った。


 レクトの手が空を掴んだ。


 エルダは続けた。

 日が傾き、村人たちが帰り始めてもまだ続けていた。

 レクトは傍らに立ち続けた。

 メーアラが膝掛けを持ってきた。エルダの肩にかけた。

 エルダはわずかに頭を下げた。それだけで手は止めなかった。


 日が沈む頃、エルダの治癒した範囲は、手のひら百枚ほどだった。

 村長が打った杭のところまでは、まだ届いていなかった。


 エルダは立ち上がった。

 両手は真っ赤に腫れ、ところどころ皮が剥けていた。

 膝の聖衣は土で黒く汚れていた。


 村人たちが見ていた。誰も言葉を発しなかった。

 奇跡は起きなかった。聖女ルミナーレのような光は降りなかった。瘴域は畑の半ばまで残っている。

 だが、エルダの手が触れた場所だけが、黒い土の中に小さな茶色の弧を描いていた。


 帰りの馬車の中、メーアラがエルダの手に包帯を巻いた。

 手慣れた手つきではなかった。メーアラは侍女であり、治癒術師ではない。

 包帯の巻き方がゆるく、端の留め方が不安定だった。


 エルダは自分の手を引いた。包帯を解き、巻き直し始めた。

 自分自身の手に、片手で包帯を巻く。救護院で何度もやった動作だった。

 慣れた手つきで、きれいに巻き上げていく。


 メーアラはその手元を見つめていた。


「あなたは」


 メーアラの声がかすれた。


「あなたは本当に、ただの治癒術師なのですね」


 エルダの手が一瞬止まった。そしてまた動き出した。

 包帯の端を留め、両手を膝に置いた。


 窓の外を見た。暗い街道を馬車の灯が揺らしている。

 エルダの横顔は借り物のルミナーレの顔で、その顔に浮かぶ表情はメーアラにも読めなかった。

 疲労だったのか、悲しみだったのか、あるいはもっと別の何かだったのか。


「ルミナーレ様は──」


 メーアラが自分に言い聞かせるように呟いた。


「あの村に行かれるたびに、村長の瘴域による傷のことを気にかけておいででした。祈りで消そうとされていた。でもあの種の傷は祈りでは届かなくて。毎年少しだけ申し訳なさそうになさっていた」


 エルダは窓の外を見たまま、わずかに首を傾けた。

 聞いている、という傾け方だった。


「あなたは軟膏を塗った」


 メーアラの声が震えた。


「ルミナーレ様にできなかったことを、あなたはやった。それは——」


 言葉が途切れた。

 メーアラは自分の膝の上で拳を握り、唇を引き結んだ。


 エルダが振り向いた。

 メーアラの拳に、自分の包帯だらけの手をそっと重ねた。


 メーアラの目から涙が落ちた。声は出さなかった。

 ただ涙だけが、長い年月を仕えた主人を失った女の奥から、溢れていった。


 エルダはメーアラの手に自分の手を重ねたまま、何も言わなかった。

 馬車が揺れ、灯が揺れ、二人の影が壁に伸びていた。


 ****


 三ヶ月が過ぎた。


 エルダの巡行は六つの村と二つの町を経ていた。

 どの土地でも同じだった。奇跡は起きない。光は降りない。

 だが、エルダは膝をつき、手を当て、目の前の一人の傷を治した。


 噂が二つ、同時に広がり始めていた。


「聖女様は以前よりお優しくなられた」という噂。

「聖女様の奇跡が弱くなっている」という噂。


 宰相が動いた。


 宰相ゼノンは五十手前の痩身の男で、銀縁の眼鏡の奥に冷徹な光を宿している。

 聖女を「国家の装置」として管理する立場にあり、ルミナーレとの関係も信仰ではなく行政だった。

 ルミナーレの不在と代役の存在は、側近経由で彼の耳に入っている。


 ゼノンは当初、この入れ替えを黙認していた。

 聖女の不在が民心に与える影響を計算すれば、偽物でも立てておくほうが合理的だった。

 後継者の儀式が完了するまでの中継ぎ。

 彼の計算では、エルダは大人しく「聖女の形」をしていればそれでよかった。


 計算が狂い始めたのは、エルダが自分で動き始めてからだった。


 ゼノンの執務室に報告書が積まれている。エルダが巡行の予定を外れて辺境の村に立ち寄った報告。

 瘴域の前線に自ら赴いた報告。正規の軍が撤退した後の防衛線に残り、負傷者の手当てをしていた報告。


 報告書を閉じて、ゼノンは眼鏡を外した。


「偽物のくせに——」


 独り言だった。


「——本物より厄介だ」


 問題は、エルダの行動が民衆の支持を得ていることだった。

 奇跡こそないが、「聖女様が自ら手当てをしてくれた」「聖女様が前線に残ってくれた」という証言が、じわじわと民心を掴んでいる。

 これはゼノンの制御の外にある。

 制御できない支持ほど、政治家にとって厄介なものはない。


 加えて、後継聖女の儀式が難航していた。

 聖女ルミナーレが選定していた候補者は三人いたが、いずれも力の適合率が基準に達していない。

 数ヶ月で済むはずだった暫定期間が、半年、一年と延びる可能性が出てきた。


 ゼノンは計算を改めた。エルダを制御下に置く必要がある。

 そのための最も有効なカードは、正体の暴露だった。


 ゼノンがエルダの居室を訪れたのは、ある雨の夜だった。

 レクトとメーアラは退室させられ、部屋にはゼノンとエルダだけがいた。

 暖炉の火が二人の間で揺れている。


「聖女様」


 ゼノンは椅子に浅く腰掛け、脚を組んでいる。

 慇懃な声で切り出した。


「あなたの働きには感謝しています。民心の安定という観点から、十分以上の成果だ。しかし——」


 エルダは椅子に座り、膝の上に包帯だらけの両手を置いて、ゼノンを見ていた。


「——昨今、あなたの行動は予定の範疇を越えている。巡行の経路を独断で変え、軍の管轄に踏み込み、前線に残る。これでは国政に支障が出る。今後は私の指示に従っていただきたい」


 エルダはゼノンを見つめたまま、動かなかった。

 ゼノンは眼鏡を押し上げた。


「無論、これは命令ではなくお願いです。ただ、お願いを聞いていただけない場合——」


 間を置いた。暖炉の薪が爆ぜた。


「——あなたが聖女ルミナーレではないという事実を公表せざるを得なくなる」


 沈黙が落ちた。

 雨の音だけが部屋を満たした。


 エルダの表情は変わらなかったように見えた。

 だが、膝の上の両手が、わずかに拳を握っていた。

 それだけが、ゼノンの言葉がエルダに届いたことの証だった。


 ゼノンは反応を待った。

 懇願が来るか。怒りが来るか。交渉が始まるか。


 エルダは立ち上がった。

 棚から紙と羽ペンを取った。何か書くのかとゼノンが見守る。

 しかし、エルダはペンを置いた。書かなかった。何かを書こうとしてやめたのだった。


 代わりに、棚の引き出しから小さな軟膏の瓶を取り出し、ゼノンの机の前に置いた。


「……何ですか、これは」


 エルダはゼノンの右手を指差した。

 ゼノンの右手。人差し指と中指の間に、古いペンだこがあり、その周囲の皮膚が乾燥で細かくひび割れている。

 長年の執務が刻んだ痕。冬になると割れて血が滲む。

 治癒魔術で治すほどの傷ではなく、かといって放置すれば地味に痛む、そういう類のものだった。


 エルダは軟膏の瓶をもう一度ゼノンのほうに押しやった。

 ゼノンは瓶を見つめ、エルダを見つめ、そしてかすかに眉を寄せた。

 脅迫を受けている最中に、脅迫者の手荒れを心配する人間がいるとは思わなかった。


「……話を聞いていましたか」


 エルダはうなずいた。聞いていた、という頷きだった。

 その上で、軟膏を差し出しているのだった。

 ゼノンは瓶を手に取った。ポケットに入れた。


「お話は以上です。お考えいただけますか」


 エルダはうなずいた。

 ゼノンが部屋を出た後、エルダは椅子に座ったまま動かなかった。

 暖炉の火が小さくなり、部屋が暗くなっていく。雨の音が強くなった。


 エルダの右手が左手の包帯に触れた。巻き直すでもなく、ただ触れていた。

 長い夜だった。


 翌朝、エルダは予定通りの巡行に出た。

 ゼノンの指示した経路ではなく、自分が予定していた辺境の経路を。

 その報告を受けて、ゼノンはしばらく書類から目を上げなかった。


「そうですか」


 それだけ言って、ペンを持ち直した。

 右手の指には、軟膏が薄く塗られていた。


 ****


 レクトにとって、エルダの存在は痛みだった。


 聖女ルミナーレの顔をした別人が、ルミナーレの衣を着て、ルミナーレの場所に立っている。

 その光景を毎日見ることは、ルミナーレの不在を毎日確認することと同義だった。


 レクトはルミナーレを信仰していたわけではない。

 ただ、守ると決めた人を守れなかった。

 それだけが、灰色の目の奥に沈んでいた。


 だから当初、エルダへの態度は任務の範囲を一歩も出なかった。

 護衛する。周囲を警戒する。必要があれば剣を抜く。それだけだった。

 話しかけることも、目を合わせることも最低限にした。


 エルダは何も言わなかった。レクトの態度に傷ついたのか、気にしていなかったのか、レクトには分からなかった。

 エルダの顔はルミナーレの顔であり、そこに浮かぶ表情をルミナーレのものとして読み、同時にそうではないと否定する。

 その二重の動作が、レクトの中で絶え間なく繰り返されていた。


 転機は、五度目の巡行だった。


 瘴域に最も近い砦。

 軍の駐屯地であり、前線の兵士が交代で休息を取る場所。

 傷を負った兵が多く、常駐の治癒術師だけでは手が回っていなかった。


 エルダは砦に着くなり、聖女の上衣を脱いだ。

 中に着ていた簡素な下衣の袖をまくり、治癒術師の動きで負傷者の元へ歩いた。


 レクトは柱に背を預けて、その姿を見ていた。


 エルダは一人目の兵士の前に膝をつき、包帯を解いた。

 傷口を確認し、洗浄し、軟膏を塗り、包帯を巻き直す。

 次の兵士へ。

 また膝をつく。包帯を解く。洗浄する。塗る。巻く。


 三人目。五人目。十人目。


 メーアラが水を持ってきた。

 エルダは一口飲んで、すぐに次の兵士に向かった。


 十五人目の兵士は若い男だった。

 まだ二十歳にもなっていないだろう。瘴域の霧を胸に浴びて、呼吸のたびに紫がかった痰が出る。

 意識は朦朧としていて、エルダの顔を見上げる目の焦点が合っていなかった。


「聖女、さま……」


 かすれた声だった。


「俺……まだ……」


 エルダは黙って、その兵士の手を取った。脈を診ている。

 それだけではなかった。兵士の手を両手で包んでいた。


「母ちゃんが……待って……」


 兵士の声が途切れた。

 エルダの手が兵士の手を握ったまま、治癒の光を流し込んでいる。

 聖女の奇跡のような輝きではない。ほのかに温い、微かな光。

 傷を塞ぐには弱く、けれど凍えた手を温めることはできる程度だ。


 兵士の呼吸が少しだけ穏やかになった。

 エルダはしばらくそのまま手を握っていた。

 兵士が眠りに落ちてから、静かに手を離した。


 レクトはそのとき、エルダの目を見た。


 聖女ルミナーレの目だった。色も形もルミナーレと同じ目。

 だが、そこにある光が違った。

 ルミナーレの目は民衆を見渡すとき、慈悲の光を帯びていた。高みから注がれる光。

 エルダの目はそうではなかった。同じ高さから、同じ地面に膝をついた場所から、ただ目の前の一人を見つめている光だった。


 レクトは柱から背を離した。


 二十人目の兵士を手当てし終えたエルダが立ち上がろうとして、膝が折れた。

 疲労だった。朝から何も食べずに治癒を続けて、自分の体力が限界に達していた。


 レクトの手が、エルダの腕を支えた。


 エルダが見上げた。レクトの顔がすぐ近くにあった。

 灰色の目が、初めてエルダ自身を見ていた。

 ルミナーレの残像を通してではなく、この場で膝をつき続けた一人の女性を見る目で。


「食事を」


 レクトの声は素っ気なかった。

 しかし、エルダの腕を支える手は離れなかった。


 エルダは一瞬、レクトを見つめ——そしてうなずいた。

 レクトはエルダを椅子に座らせ、メーアラに食事を持ってくるよう声をかけた。

 それからもう一度エルダの前に立ち、短く言った。


「明日も巡行があるのでしょう」


 エルダがうなずく。


「なら、倒れるわけにはいかない。自分を手当てすることも、手当ての一つです」


 エルダはしばらくレクトを見て、それから自分の両手を見下ろした。

 包帯の下に、新しい瘴域による傷ができている。赤く腫れた指先。


 エルダは軟膏の瓶を取り出して、自分の指に塗り始めた。

 レクトは頷いて、持ち場に戻った。


 その背中を見送るエルダの顔をメーアラだけが見ていた。

 借り物の顔に浮かんだその表情をメーアラは言葉にしなかった。

 言葉にすることが、何かを壊してしまう気がした。


 ****


 メーアラには日課があった。

 毎夜、ルミナーレの日記を読むこと。


 聖女ルミナーレは几帳面な人だった。毎日欠かさず日記を書いた。

 巡行の記録、民の声、自分の体調、その日考えたこと。

 侍女長であるメーアラは管理を任されていたが、ルミナーレの存命中に中身を読むことはなかった。


 今は毎夜読んでいる。読むことで、ルミナーレがまだここにいるような気持ちになれた。


 ある夜、メーアラはエルダの居室の前を通りかかった。扉が薄く開いていた。

 中を見てしまった。

 エルダが机に向かっていた。灯火の下、何かを広げている。

 メーアラが見間違えるはずがない。ルミナーレの日記だった。


 メーアラの足が止まった。血が引いた。

 なぜエルダがあれを持っているのか。誰が渡したのか。


 入ろうとして——止まった。

 エルダの背中が、震えていた。


 肩が小さく上下していた。

 声は聞こえない。泣いているのかどうかも分からなかった。

 ただ、日記のあるページを開いたまま、エルダの指がその文字の上をなぞっていた。


 メーアラは足音を殺してその場を離れた。


 翌朝、メーアラは何も言わなかった。エルダも何も言わなかった。

 いつも通り所作の確認をし、巡行の準備をした。

 ただ、その日の巡行でエルダが訪れた村は、ルミナーレの日記に「来年こそ必ず立ち寄る」と書かれていた、瘴域のために今年は巡行路から外された小さな村だった。


 メーアラはそれに気づき、馬車の中で目を閉じた。

 ルミナーレの日記を読んでいたのは、聖女の秘密を暴くためではなかった。

 ルミナーレが行きたかった場所、やりたかったこと、守りたかった人を知るためだった。


 メーアラは唇を噛んだ。


「あなたは」


 声が震えた。


「あなたは、ルミナーレ様の名前を預かっているのですね。預かって、汚さないように、抱えているのですね」


 エルダは窓の外を見ていた。振り向かなかった。

 ただ、包帯に覆われた右手が、左手の甲をそっと押さえていた。

 自分で自分を落ち着かせるときのエルダの癖だった。

 メーアラは、それを知っていた。


 ****


 十ヶ月が過ぎようとしていた。


 後継聖女の儀式は進展しなかった。

 三人の候補者はいずれも適合率が上がらず、教会内部では焦りが広がっていた。

 ゼノンは政治的な判断から期限を切り始めた。これ以上の猶予は国政が持たない。

 偽聖女の体制を恒久化するか、事実を公表して混乱を受け入れるか。


 そしてその議論が煮詰まるより早く——瘴域が動いた。


 大規模侵攻だった。

 瘴域の壁が崩れるように前進し、前線の砦を三つ飲み込んだ。

 軍は後退を余儀なくされ、辺境の五つの村に避難命令が出た。

 王都にも紫がかった風が届き、民衆の間に恐慌が広がった。


 聖女の祈りが求められた。

 大聖堂での大祈祷。全国の祈祷師が呼応し、瘴域を押し返すための大儀式。

 聖女ルミナーレが生きていれば、その中心に立って光を放ったはずの場所。


 エルダに、あの光は出せない。

 誰もがそれを知っていた。

 レクトも、メーアラも、ゼノンも。


 大聖堂の控室で、エルダは一人だった。

 白い聖衣を着て、椅子に座っていた。

 膝の上の両手は包帯に覆われ、その下の皮膚は瘴域による傷で赤黒く変色している。

 十ヶ月の間、素手で瘴域の土に触れ続けた代償だった。


 扉が開き、レクトが入ってきた。

 正装の甲冑ではなく、実戦用の鎧。


「聖女様」


 エルダが顔を上げた。


「あなたがどこまでやるつもりなのか、俺には分からない」


 レクトの声は低かった。


「だが、今日ここで倒れたら、もう立てなくなる。あなたの身体はとうに限界を越えている。メーアラも同じことを言うでしょう」


 エルダはレクトを見つめていた。


「退く選択をしても、誰もあなたを責めない。少なくとも俺は——」


 エルダが立ち上がったため、レクトの言葉が途切れた。

 エルダは棚に歩み寄り、引き出しを開けた。中から小さな手帳を取り出した。

 聖女ルミナーレの日記だった。あの日記の中の一冊。


 エルダはそれをレクトの手に押し当てた。

 レクトは受け取り、開いた。ルミナーレの筆跡。最後のページに書かれた一文が、目に飛び込んだ。


【まだ足りない。まだ手が届いていない人がいる。どうか、私の次に立つ人が、その人たちの元に行けますように】


 レクトの手が震えた。

 エルダは日記を持つレクトの手に、自分の手を重ねた。包帯だらけのぼろぼろの手を。

 それからゆっくりと手を離し、背を向けて、大聖堂への扉に向かって歩き始めた。


 レクトは動けなかった。

 エルダの背中が小さかった。聖衣の肩の縫い目は、十ヶ月前と同じように外側にずれていた。

 合わないまま、一度も仕立て直されなかった。


 レクトは日記を胸当ての内側にしまい、剣の柄を握り直した。

 エルダの後を追った。


 ****


 大聖堂は人で溢れていた。


 民衆が広場を埋め、回廊に兵士が整列し、祈祷師たちが所定の位置についている。

 大聖堂の最奥、祭壇の前が聖女の立つ場所だった。


 エルダが現れると、群衆がざわめいた。

 聖女を見る目。縋る目。期待する目。怯えた目。怒りすら混じった目。

 瘴域が砦を飲み込んだことへの恐怖が、聖女への期待を研ぎ澄ませていた。


 エルダは歩いた。

 教わった通りの第一の型で。左足から。背筋を伸ばして。


 祭壇の前に立った。

 振り返り、群衆を見た。

 数百の目がエルダを見つめていた。


 エルダは祈りの姿勢を取った。

 両手を組み、目を伏せ、唇が動く。声はない。


 祈祷師たちが呼応して詠唱を始めた。

 光の紋様が大聖堂の床に広がり、祭壇が輝き始める。

 あとは聖女の力が中心を満たせば、光は大地に広がり瘴域を押し返す——はずだった。


 光が来ない。

 紋様が揺らぎ、不安定に明滅する。

 聖女の力が足りない。祈祷師たちの顔に動揺が走った。


 群衆がざわめき始めた。


 エルダは目を開けた。自分の手を見た。

 組んだ両手の間に、微かな光がある。治癒術の光。聖女の光ではない。

 手のひら一つぶんの傷を塞ぐのが精一杯の小さな温かい光。


 エルダは、祈りの姿勢を崩した。

 組んでいた手を解き、祭壇に背を向け、群衆のほうを向いた。

 沈黙が落ちた。


 エルダは祭壇の段を降り始めた。

 一段。二段。群衆の中に歩いていく。


 最前列にいた老女の前で足を止めた。

 瘴域の避難民だった。腕に瘴域による傷があり、粗末な布で巻かれている。


 エルダは膝をついた。

 老女の腕を取り、布を解き、傷を確かめた。

 軟膏を塗り、持っていた包帯で丁寧に巻き直した。


 老女は呆然とエルダを見下ろしていた。


 エルダは立ち上がり、次の人のところへ歩いた。

 子どもを抱えた母親。子どもの額に瘴域の熱がある。

 子どもの額に手を当て、エルダは微かな治癒の光を流した。


 次の人。次の人。


 エルダは群衆の中を歩いた。

 一人ずつ。目の前の一人ずつ。

 聖女の奇跡ではなく、治癒術師の手で。

 膝をつき、手を取り、傷を診て、塗って、巻いて、立ち上がって、次の人のところへ。


 大聖堂は静まり返っていた。

 数百人の人間が、誰一人声を発さず、エルダの動きを見つめていた。


 レクトは大聖堂の柱の陰に立っていた。

 剣の柄を握る手が白くなるほど力がこもっていた。


 メーアラは回廊の影で、両手で口を覆っていた。


 ゼノンは上階のバルコニーから見下ろしていた。

 眼鏡を外して、右手で目頭を押さえていた。


 エルダが何十人目の民に手を当てたとき、額の聖印に亀裂が走った。

 微かな音がした。ガラスが割れるような、高い音。


 エルダの顔が変わっていく。

 ルミナーレの端正な面差しが薄れ、その下から平凡な顔が現れた。

 丸い頬。少し低い鼻。そばかすが散った肌。

 どこにでもいる、辺境の治癒術師の顔。


 群衆がざわめいた。


「聖女様の顔が……」

「誰だ、あの女は」

「偽物だ——」


 声が広がる。波紋のように、恐怖と怒りが大聖堂を満たしていく。


 エルダは立ち上がっていた。自分の顔に手を当てた。

 聖印のあった額に触れ、何もないことを確かめた。


 数百の目が、知らない顔の女を見ていた。


 エルダの手が下りた。

 群衆を見渡した。怒りの目。困惑の目。裏切られたという目。


 エルダは、次の人のところへ歩いた。


「お前は誰だ!」


 怒声が飛んだ。

 エルダは答えない。民の前に膝をついた。足に瘴域による傷のある男だった。

 エルダは傷を確かめ、軟膏を取り出した。


「触るな、偽物が!」


 男がエルダの手を払った。

 エルダの手が空を切った。軟膏の瓶が床に転がった。


 沈黙。


 エルダは瓶を拾った。蓋を確かめ、もう一度男の前に膝をついた。

 もう一度、傷に向かって手を伸ばした。


 男は——今度は払わなかった。


 エルダの手が傷に触れた。

 軟膏を塗った。包帯を巻いた。いつも通りの、丁寧な手つきで。


 次の人のところへ。


 大聖堂の中を知らない顔の女が歩いていく。もう聖女の衣が似合う顔ではなかった。

 聖女の所作も、祈りの型も、この平凡な顔の上ではハリボテのように見えるはずだった。


 だが、膝をつき、手を取り、傷を診るその動作だけが、何一つ変わらなかった。

 最前列で包帯を巻かれた老女が、口を開いた。


「……聖女様」

「聖女じゃない。偽物だ」


 隣の男が声を荒らげた。

 老女は首を振った。腕に巻かれた包帯を見つめながら。


「あの手は、あの手は本物だよ」


 エルダが民に手を当てたとき、膝が折れた。

 限界だった。十ヶ月の蓄積した瘴域による傷、今日の消耗、聖印の喪失。身体がもう動かなかった。


 群衆の中に倒れかけたエルダを誰かの手が支えた。

 最初に手を払った、あの男だった。


「——おい、しっかりしろ」


 エルダの意識が遠のいていく。視界がぼやける。

 大聖堂の天井が見えた。亀裂が走っている。

 救護院で目覚めたあの日の天井と同じだった。

 亀裂は途中で二つに分かれて、片方は壁際に消え——。


 甲冑の足音が大聖堂に響いた。


 レクトが群衆をかき分けて進んでくる。

 倒れたエルダの前に立った。群衆に向き直った。


 剣を抜いた。

 それを逆さに、地面に突き立てた。

 聖騎士の最敬礼。主君にのみ捧げる忠誠の形。


 レクトの声が大聖堂に響いた。


「聖女エルダに続け」


 静寂が震えた。

 聖騎士団の兵士たちが、一人、また一人と剣を地面に突き立てていく。

 メーアラが回廊から歩み出た。エルダの傍に膝をつき、その頭をそっと自分の膝に乗せた。


「お疲れ様でした」


 初めて「聖女様」とも「あなた」とも呼ばなかった。

 名前も肩書きもない、ただのねぎらいだった。


 群衆の中から、声が上がった。

 最初にエルダに包帯を巻かれた老女だった。


「包帯の聖女」


 誰かが繰り返した。

 声は広がった。波紋のように。さっきの怒声と同じ速度で。

 だが、その中身はまったく違っていた。


 エルダの意識は沈んでいく。音が遠くなる。メーアラの膝の温かさだけがある。


 暗闇の中で、光が見えた。

 聖女の光ではなかった。手のひらの中に収まるくらいの微かな、温かい光。

 その光が応えるように、エルダの胸の奥で脈打った。


 聖女ルミナーレの力の残滓が、最後のひとかけらが、エルダの中で光を放った。

 大地を覆う奇跡ではない。瘴域を押し返す波動でもない。

 ただ、エルダの身体を巡る瘴域による傷を内側から塞いでいく、小さな治癒の光だった。


 ルミナーレの最後のかけらが、エルダを治療していた。

 聖女が、治癒術師を治癒していた。

 誰も気づかなかった。エルダ自身も、意識がなかった。


 メーアラだけが、エルダの胸元がほのかに温かくなったのを掌で感じていた。


 ****


 季節が二つ過ぎた。


 後継聖女の儀式は、結局、四人目の候補者で成功した。

 新しい聖女が立ち、大祈祷が正式に行われ、瘴域は押し返された。

 エルダの身体は回復したが、聖女の力の残滓は完全に失われていた。


 エルダは聖女の座を退いた。

 退任の式典が提案されたが、エルダは首を横に振った。

 式典の朝、誰にも告げずに王都を発った。


 辺境の救護院は、変わっていなかった。

 石造りの建物。消毒薬の匂い。簡素な寝台が並ぶ部屋。

 二年近く前に働いていた場所がそのままあった。


 エルダは救護院の扉を開けた。院長の老医師が目を丸くした。


「——エルダか。生きていたのか」


 エルダはうなずいた。棚から古びた前掛けを取り、腰に結んだ。袖をまくった。

 包帯の巻き癖がついた指先で、薬棚の瓶の位置を確かめた。全部覚えていた。


「患者は」

「お前——喋れるのか」


 老医師はまじまじとエルダを見た。

 エルダは口を閉じた。少し間があって、小さくうなずいた。

 それきり、また何も言わなかった。


 日常が戻った。

 朝、薬草を摘みに丘へ行く。

 昼、患者の包帯を替える。

 夕、軟膏を調合する。

 夜、寝台で眠る。


 変わったことが一つだけあった。

 救護院を訪ねてくる人が増えた。


 最初は近隣の村人だった。次に、少し遠くの町から人が来た。

 元兵士が訪ねてきた。砦でエルダに手当てされた兵士だった。

 特に用があるわけではなく、「あんたが元気か見に来た」と言って、照れくさそうに帰っていった。


 農村の村長が、杖をつきながらやってきた。

 首筋の傷はまだあったが、軟膏のおかげで冬も痛まなくなったと言った。

 新しい軟膏を受け取り、深く頭を下げて帰った。


 子どもを連れた母親が来た。あの大聖堂で額の熱を冷ましてもらった子どもだった。

 子どもはエルダの顔を見上げて声を上げた。

 覚えていた。聖女の顔ではなく、手当てしてくれた手を覚えていた。


 ある日、蹄の音が救護院の前で止まった。

 レクトだった。鎧ではなく旅装で馬を一頭引いていた。

 救護院の戸口に立ち、中を見た。

 エルダが患者の包帯を巻いている背中が見えた。


 レクトは中に入らなかった。

 戸口の壁に背を預けて、エルダが仕事を終えるのを待った。


 エルダが気づいて振り返ったのは、患者の診察を終えた後だった。

 二人は向かい合った。


 レクトが口を開きかけて、やめた。

 代わりに、胸当ての内側から手帳を取り出した。

 ルミナーレの日記の一冊。あの日エルダに託されたもの。


 エルダに差し出した。


「預かっていた」


 エルダは受け取った。

 表紙を撫でて、薬瓶の隣にしまった。

 レクトは救護院を見回した。


「人手は足りているのか」


 エルダは首をかしげた。

 足りているとも足りていないとも取れる、曖昧な傾け方だった。

 レクトは鼻を鳴らした。


「剣しか能がないが、包帯の巻き方くらいなら覚える」


 エルダの目が少し丸くなった。

 それから笑った。

 借り物ではない、自分の顔で。

 そばかすの散った頬が持ち上がり、目が細くなる、素朴な笑い方だった。


 レクトは目を逸らした。耳の先が赤かった。


 季節がまた巡った。

 ある朝、エルダは救護院の前に出て、干し台に薬草を並べていた。

 入口の脇に、小さな祠が建っていた。いつの間にか建てられたもので、誰が建てたのかは分からなかった。

 村人の誰かだろう。石を積んだだけの素朴なもので、屋根には野花が供えられていた。


 祠に掲げられた板には、名前が彫られていた。


「聖女ルミナーレ」ではなかった。

「聖女エルダ」でもなかった。


 ──包帯の聖女。


 エルダは祠の前にしばらく立っていた。

 風が吹いた。薬草が揺れた。丘の向こうから朝日が昇り、エルダ自身の顔を照らした。


 エルダは笑った。声は出さなかった。

 ただ笑って、干し台に向き直り、薬草を一束ずつ丁寧に広げ始めた。


 その手つきは、聖女の所作ではなかった。

 最初から最後まで変わらなかった、治癒術師のエルダだけの手つきだった。

 風が薬草の匂いを運んでいく。


「包帯、巻き方これで合ってるか」


 救護院の中からレクトの声がした。メーアラの声が続いた。

 彼女は新たな世代へ託すため、引継ぎ書を作成し、次の侍女長と現聖女に必要事項を叩き込んだ後、一言だけ伝えていた。


『あなたは、あなたです。どうか自分を見失わずに』


 そう言い残し王都を辞して、三ヶ月前にここへやってきた。


「違います。もっと内側から——何度教えたら覚えるのですか」


 エルダは背を向けたまま、肩を揺らした。笑っていた。

 干し台に薬草を広げる手は止まらない。


 一束。また一束。

 丁寧に。ゆっくりと。


 誰かの傷を塞ぐための準備を、今日も静かに続けている。


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― 新着の感想 ―
エルダのバックボーンやセリフ、心情をあえて書いてない事により、いく通りも読み方があるのが面白い。 患者に寄り添う献身の人かもしれないし、困っている人に手を差し伸べずにいられない人かもしれないし、医療…
エルダは巻き込まれただけなのに秘密を知る人達がレクト以外報酬もなく使い潰そうにしてたように見えるのがなー。エルダが1番聖女の役割に真摯だったように見える。
とても読み応えのある作品でした。ありがとうございます。
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