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短編No.01-20

No.20 Blue Rose

作者: 藤夜 要

 日付が十一月四日に変わった。巷でいうところの『Sweet10』とやらが終わったらしい。「ふぅ」と小さな溜息を漏らし、ワインのコルクを開けて、一人分のグラスに注ぐ。グラスは二つ用意してあるのだけれど。今更冷めたピザを口に運ぶ食欲もない。折角手作りピザに初挑戦してみたのに。彼の大好物にして滅多にお目にかかれない『餅とエリンギの照り焼きソース和風ピザ』。今日という記念すべき日の為に、こっそり彼のお気に入りのお店へ日参してシェフと懇意になって、ようやくレシピを教わったのに。


 結婚したその日は、彼の両親の実家で過ごし、新婚早々喧嘩をした。

 二年目、初めての結婚記念日は、義父が倒れて記念日どころではなかった。

 三年目は、彼が急性大腸炎になって入院した。

 四年目は、娘が生まれて間もない頃で、互いにそれを忘れて、後日夫婦喧嘩になった。

 五年目は、彼が長期出張の真っ只中で。帰って来ることさえ出来なかった。

 六年目は、ようやく娘が義母に預けても泣かない程度に心が育ち、初めて映画を見る約束をしたのだけれど、彼は日頃の疲れから寝坊して起きず、一日中険悪な空気が流れて映画も断念せざるを得なかった。

 七年目は、彼の方からディナーの予約というプレゼントをくれたのに、その店が職場の上司の教えてくれた店だったものだから、結局彼の職場の面々がこっそり来店してこちらを窺っているのが判って、散々冷やかされて甘い気分になど浸れなかった。

 八年目の一昨年は、彼の勤務先が倒産し、それどころではない大騒ぎだった。

 去年祝えなかったのは私の所為。娘を保育園に入園させる為に勤め始めた職場の皆で、子連れ一泊旅行になってしまった。仕事のある彼は、勿論参加出来る筈もなく。大切な夜を独りで過ごさせてしまった。

「今年こそは、と思っていたのになぁ……」

 気づけば、ボランジェを半分近く飲み干していた。スパークリングワインの気の抜けた味は、今の私の心境そのものだった。ジェームス・ボンドが好きな彼の為に用意したワインなのに、それを飲んでくれる彼がいない。

 折角娘を早めに寝かしつけたのに、一緒に語らう彼がいない。

「馬鹿馬鹿しい。いい年して、いつまでも何やってるのかしら、私」

 誰にともなく呟いて、私はグラスに残った最後の一口を飲み干した。




 彼は、寡黙で仏頂面で、無骨な手をしている植木職人だ。出逢ったきっかけは、私の実家の庭木の手入に来た時に、母が不在でお茶を出したことからだった。

 今どき珍しいくらいに誠実な仕事をする親方と彼の仕事への姿勢に、尊敬の念を覚えたのが始まり。茶飲み話で母が冗談交じりで口にした

『家の娘の婿に欲しいわ』

 という言葉に、彼の浅黒い肌が耳まで赤黒くなったのが、あまりにもむず痒く気恥ずかしく、そして、舞い上がった。


 私はいつも不安になるのだ。自分から彼に求婚したものだから。彼は何も語らないし、甘い言葉や恥ずかしくなる様な紳士的なエスコートなんかもしない。名前さえまともに呼んだことも数回しかなくて、気づけば「かか様」と娘と同じ呼び方で私を呼んでいる。

 大学を卒業した年に結婚した世間知らずの私など、十年も経ったらただのおばさん。二十二歳の若さも何処へやら。目尻の小皺が憎らしい。

 一張羅のワンピースを脱いで、メイクを落とした素顔で洗面台の鏡に向かう自分の顔を見て、そんなことをぼんやりと考えていた。


 不意に、玄関の鍵を開ける音がする。途端に無性に腹が立つ。私ばかりが一方的で、未だに彼に片想いしている。そんな夫婦のあり様が何だかとても悲しくて。憎らしい彼にささやかな復讐。自分で入って来なさいよ。室内で飼う愛玩犬の様に、尻尾を振って出迎えてなんかあげない。


「起きてたのか。ただいま」

 いつもと変わらない帰宅の言葉。何も変わらないぶっきら棒な声。

「……」

 聞こえない振りをして無視をして。もう洗い終えていたのに、また顔を洗った。


 ぼすっ。


「な、何?!」

 上体を前に倒している私の後頭部に、ガサガサと音を立てる、柔らかいとも固いともつかない物体が乗る。慌ててフェイスタオルを手にして水気を拭い顔をあげると、鏡に映っていたのは……。

「青い薔薇……どうしたの?」

 私の頭の上には、彼が手にしたブルーローズの花束の先端が、鏡の中の私に挨拶をしていた。その下に映る私は、思い切り引き立て役になっていた。

「すまん。昼の内に買っておいたら、しおれた」

 彼は、いつも通りの淡白な抑揚の少ない口調で、呟くようにそう言った。そして、更に小さな声で、付け加えた。

「すまん。ダイヤも買えない甲斐性なしで」

 馬鹿旦那。折角顔を洗ったのに。また洗わなくちゃならないじゃない。

「それと、帰りが遅くなったのも、申し訳ない」

 そんなの、しょうがないって解ってる。職人から職人を使う立場に転職をしたのだから、翌日の準備を夜にしか出来ない、あなた、ちゃんと私に説明してくれていたじゃない。そんな職場だけれどいいか、と、勝手に決めずに相談してくれたじゃないの。

「美味そうな匂いがするな。照り焼きの何かか?」

 すっかり薄らいだ匂いを気づく、そういうあなただから結婚したの。些細なことも気づいてくれる、そんなあなただから、好きになったの。

「着替えて来るから、温め直しておいてくれ」

「……うん、お帰りなさい」

 フェイスタオルから覗いた私の真っ赤な目を見て、彼は一瞬目を見開いた。それから「ふっ」と鼻で笑うと、もう一度「ただいま」と言ってまた笑った。




 少し固くなってしまったお餅も、残さず綺麗に平らげてくれた。

「お、あの店の味に近いな」

 なんて、珍しく饒舌に感想を漏らしながら。

「お前、抜け駆けして飲み過ぎだ」

 と、気の抜けたスパークリングワインを笑いながら、二つのグラスに注いでくれた。

「十年、ついて来てくれてありがとうさん」

 そう言った彼は、あの時と変わらないくらい、浅黒い肌を赤茶色に染めてグラスを重ねて来た。


「ブルーローズの花言葉を知っているか?」

「ううん、知らない」

 得意分野を話す時だけは、彼はとても流暢に話す。その凛々しい顔に見惚れる私。

「薔薇には、青の遺伝子がないんだ。だから、昔の花言葉は『不可能』だったんだそうだ」

「昔は? じゃあ、今は変わったの? 花言葉って変わるものなの?」

「そうみたいだな。今は、『神の祝福』というらしい」

「神の祝福……」

「いつも、祝福されてばかりだからな」

 途端に、彼の滑舌が悪くなる。

「まあ、何だ。たまには、お前がその、祝福されないと、報われん……なんてな」

 もうグラスは空なのに。彼はそれを口につけて上を向く。耳や顔だけじゃなく、部屋着の隙間から見えた、日に焼けていない鎖骨の辺りまでが、綺麗なピンクに染まっている。ねえ、それは、ワインで酔った所為じゃあないのよね、きっと。

「ねえ、とと様。耳まで真っ赤よ? 目を全然あわせてくれないわよ? どうして?」

「……うるさい」

 今日の陰鬱な気分の原因になった彼に、仕返しするみたいに意地悪を言う。照れ隠しに言った「うるさい」という言葉が、私の胸を甘酸っぱく締め付ける。

「ねえ、とと様。ピザもワインもなくなったよ? チビちゃんも、寝たの。私、『かか様』を閉業してもいい?」

 ねえ、愛してるって、言ってもいい? 愛してるって言ってくれる?

 流石に、それは言えなかった。いい年したおじさんとおばさんが、何を今更、という感じよね。

 だけど、彼は気づいてくれる人だから。今年も一日過ぎてしまったけれど、でも今年は特別な記念日。それは、とてもとても甘い甘い『Sweet10』の日と同時に、初めて彼が言ってくれた日。

 口下手で無愛想で、仏頂面の彼が、ぎこちなく一度だけ耳元に囁いてくれた。

「あと七十年くらいは、俺のかみさんでいて欲しい」

「お前だけを、愛してる」

 と――。

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