第一話
世界にダンジョンが出現してから、もう十年が経つ。
かつては「世界の終わり」と騒がれた異界の門も、今や地下鉄の路線図に書き加えられ、仕事帰りの会社員がストレス解消に立ち寄る、巨大なゲームセンターのような存在に成り下がっていた。
午後八時十五分。新宿駅。
私、佐藤美月は、吐き気を催すような人混みの中で、いつものように大きな疲労感に苛まれていた。
「……佐藤さん、これ。明日の朝九時までに、全データ照合しておいてね」
脳裏に、さっきまで目の前にいた上司―肥大した自尊心を安物のスーツで包んだような男、高木課長の声がこびりついている。
彼が私のデスクに投げ捨てたのは、五百ページを超える紙の束だ。
デジタル化が進んだこの時代に、あえて紙で出力し、手作業での照合を強いる。
それは業務ではなく、一種の「儀式」だった。
お前はこれくらいの無価値な作業がお似合いだ、という無言の宣告。
「あ、それと。佐藤さんって、いつも定時で上がろうとするよね。事務職だからって、責任感まで事務的になっちゃ困るなぁ」
周囲の同僚は、誰も目を合わせない。
みんな、自分の椅子を守るのに必死だ。
誰かが生贄になっている間は、自分が焼かれずに済む。
その冷え切った沈黙が、一番私の心を削った。
気づけば、私は新宿第二ダンジョン、通称、新宿ニダンの受付に立っていた。
「ニ時間コースで」
「はい、二千円になります。ICカードをどうぞ」
事務的なやり取り。
私は、ボロボロになったパンプスを履き替えもせず、地下五階の「初心者エリア」へと足を踏み入れる。
そこは、カビ臭い湿気と、魔力が放つ独特の金属臭が混じり合った場所だった。
周囲では、大学のサークル帰りだろうか、派手なジャージを着た若者たちが、ファイアボールをスライムにぶつけては、「ぎゃはは! 燃えてる!」とはしゃいでいる。
彼らにとって、ダンジョンは娯楽だ。
でも、私にとっては、ここはストレス発散のための「聖域」だった。
私は、一番奥の、結露した岩肌が剥き出しになっている暗がりに向かう。
そこには、いつもスライムがいる。
青く、半透明で、意志があるのかないのかもわからない、ただのゲル状の塊。
この世界の常識では、スライムに物理攻撃は効かない。
衝撃をすべてその柔軟な体で受け流し、核へのダメージをなくすからだ。
だから、誰もこいつを「殴ろう」なんて思わない。
私は、指の先が出るタイプの薄いグローブをはめ、拳を握った。
――ぷに。
最初の一撃。
冷たくて、湿っていて、どこか吸い付くような感触。
「……課長の、あの笑い方」
ぷに。
「……山下さんの、あの同情を装った視線」
ぷに。
「……私の人生、こんなはずじゃなかった」
ぷに、ぷに、ぷに、ぷに、ぷに、ぷに。
私は、狂ったように連打を始めた。
不条理。理不尽。孤独。
それらを物理的な圧力に変えて、スライムの体内にパッキングしていく作業。
一分間に百回。
それをニ時間。
私の呼吸は、次第に「ヒッ、ヒッ」という獣のような短いものに変わっていく。
瞳からは光が消え、ただ目の前の青い物体に無心で拳を叩き込む。
私は、最後の一撃のために大きく右腕を引いた。
頭の中には、高木課長が資料を投げ捨てた時の、あの歪んだ笑顔があった。
(クソ禿が!)
――カッ、……。
私は、荒い息を吐きながら、ゆっくりと拳を下ろした。
「……ふぅ」
少しだけ、肩が軽くなった気がした。
足元に転がっていた、スライムのなれの果て――粉々に砕け散り、もはやただの砂利のようになった魔石を無造作に踏み越えて、私は出口へと向かう。
そのすぐ近くで。
自撮り棒を持った男が、魂が抜けたような顔で立ち尽くしていたことに、私は全く気づいていなかった。




