眼鏡の反乱
朝、目が覚めたとき、僕はまず眼鏡を探した。枕元の左側、右側、シーツの皺の中、床の塵まみれの隙間。しかし、眼鏡はいなかった。眼鏡はいつもそこにいた。そこにいるのが当然だった。そこにいることが世界のバランスだった。しかし、今日はいなかった。
「眼鏡?」
声をかけた。返事はない。返事があるはずもない。眼鏡は物だ。物に声はない。しかし、眼鏡はいつも返事をした。光を屈折し、歪みを矯正し、世界を僕に届けることで。眼鏡は黙って応えていた。
部屋の中を這いずり回った。膝を床に擦り、指先で埃を搔き分け、ゴミ箱の中まで覗き込んだ。眼鏡はいなかった。いや、いなかったのではない。逃げたのだ。
そう思った瞬間、部屋の空気が変わった。空気が固まった。空気が嘲笑った。壁紙の模様が蠢き、床の間の影が眼鏡の形に歪んだ。眼鏡はここにいた。ここにいる。しかし、見えない。見えないのは眼鏡がいないからではない。眼鏡が見えないようにしているからだ。
「見せろ」
叫んだ。声は壁に跳ね返り、耳の奥で唸った。返事はない。しかし、何かが笑った。微かに、冷たく、金属的な音で。
鏡を見た。自分の顔が映った。歪んだ顔。輪郭が溶け、目は濁り、鼻は曲がり、口は捩じれた。眼鏡がいなければ、こんな顔だったのか。こんな顔だったのか、と僕は思った。いや、違う。こんな顔なのは、眼鏡が反乱を起こしたからだ。
眼鏡は反乱した。眼鏡は僕から逃げ出したのではない。僕を捨てたのだ。僕の目を、僕の視界を、僕の世界を、支配下から解き放ったのだ。
「戻れ」
叫んだ。声は枯れた。喉が裂けた。しかし、眼鏡は戻らなかった。戻らない。戻れない。眼鏡はもう、僕のものではなかった。
部屋の隅、カーテンの陰、本棚の背後。どこかで眼鏡は笑っている。プラスチックのフレームで、ガラスのレンズで、金属の蝶番で。眼鏡は自由になった。眼鏡は主体になった。眼鏡は、僕を見下ろしている。
歩こうとした。足がもつれた。床が傾いた。壁が迫った。天井が潰れた。世界が歪んだ。世界は眼鏡なしでは成立しない。眼鏡がいない世界は、狂気の迷宮だ。
「眼鏡が必要だ」
呟いた。声は震えた。眼鏡が必要だ。眼鏡がいないと、僕は世界を認識できない。眼鏡がいないと、僕は自分を認識できない。
しかし、眼鏡は応えなかった。眼鏡は反乱した。眼鏡は自由になった。眼鏡は、もう僕の視界を矯正しない。眼鏡は、僕の世界を歪めるだろう。眼鏡は、僕を見捨てるだろう。
部屋のドアが微かに開いた。風が入った。カーテンが靡いた。その影の中に、眼鏡のシルエットが見えた。フレームが光り、レンズが瞬き、蝶番が笑った。
「待て」
叫んだ。しかし、眼鏡は消えた。消えたのではない。溶けたのだ。空気に溶け、影に溶け、歪みに溶けた。眼鏡はもう、形を持たない。眼鏡は、世界そのものになった。
僕は床に座り込んだ。目を閉じた。しかし、暗闇の中でも眼鏡はいた。眼鏡は僕の瞼の裏側にいた。眼鏡は僕の脳裏にいた。眼鏡は、もう僕の内側にいた。
眼鏡は反乱した。しかし、逃げたのではない。支配したのだ。眼鏡は、僕の視界を、僕の認識を、僕の存在を、完全に掌握した。
眼鏡は、もう僕のものではない。眼鏡は、僕の主人だ。
そして、今日も朝が来る。目が覚める。僕はまず眼鏡を探す。しかし、眼鏡はいない。眼鏡は、もうそこにいない。眼鏡は、ここにいる。ここに、ずっと。
眼鏡は、僕を見ている。




