第9話 宗次郎の手
─────背中に、無数の汗が流れる。
肺が勝手に喘いで、苦しい。
殴られた頬は熱く、蹴られた腹部は確かな痛みを伴って私に襲いかかる。
『はっ…はっ…っ…』
浅くなった私の呼吸に呼応するように飛んでくる拳。脚。
何度も何度も降りかかる衝撃に、ただ、乾いた目を見開いて耐えた。
その人は、何かをぶつぶつと呟いていた。
『厄介者…消えればいいのに…
食い扶持持ってるなんて余裕ないのよ…!
とっとと消えろ!消えろっ!!』
『うっ!!』
腹部に加わった、ものすごい衝撃。それとともに、私の視界はぐるりと逆転した。
左半身が、地面に強く打ち付けられる。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
臓物が全部飛び出たんじゃないかって思うほどだった。
口の中に、じわりと不快な血の味が広がる。
女が、短刀を抜いた。綺麗な文様が刻まれた、美しい短刀。
ぎらりと輝くそれは、私にまっすぐ振り下ろされた。
私の皮膚も、肉も臓物も、全部を割いて突き抜けていく。
吹き出した血で、あたりは真っ赤に染まった。
───雷が全身を焼き尽くすような、恐ろしい激痛。
「─────ぁああああぁっ!!」
ドッドッドッド、と、激しく脈打つ、私の心臓。
「あっ…あぁ…っ…はっ…はっ、はっ、はっ…」
生きてる、私。
痛くない。どこも。
血に染まっていない、周りの景色。
血の匂いなんてしない。
薄く木と畳の匂いが漂う、綺麗な和室。
さらさらとした、私の体温で温められた布団。
…ここは、どこ?
私、生きてるの?
止まらない過呼吸と、痛いくらいに跳ねる心臓。
襖の隙間から漏れる、細い月の光。
「…かぐら…?」
襖の音と、小さな声がした。
寝ぼけ眼を擦りながら欠伸をする、あどけなさが残る少年。
「────そうじろう…さん…」
すっかり見慣れたその顔を見て、私の瞼の裏が勝手に熱くなっていく。
心配そうに私を見つめる彼は、自らの掛け布団を剥ぎ、私の隣に座った。
「…大丈夫、大丈夫だよ。ゆっくり呼吸して」
優しく背中をさすられた私は、努めて落ち着いた呼吸をした。
「ーーーっ…はーーーっ…」
呼吸をしながら瞼を閉じて、心臓のあたりに手を当てた。
─────生きてる。
そうだ。今のは夢だ。
私はちゃんと、生きてるんだ。
「…怖い夢を見たの?」
夢…
「…夢、なの、かな」
絞られたような、声を出した。
毎日見るの。あの夢を。
毎日夢の中で殺される。
夢の中なのに、本物みたいに痛くて。
もしかしたら。
「────もう、わたし…
死んじゃってるのかな」
ほんとはあの冷たい川で溺れて死んで、宗次郎さんや先生は、全部全部、ほんとはいないんじゃないかって。
夢と現実の区別がつかない。
───そんなの、どうだっていいか。
だって私はもう、死んでるんだもん。
今の私は、きっと成仏できない幽霊だから。
冷たい手に、手汗が滲んだ。
「ねぇ、かぐら。
…手、出して」
ふっ、と彷徨っていた意識が戻る。
「…手」
うん、と言った彼に、言われるがままに両手を差し出す。
彼はそれを、ぎゅっと握った。
…あったかい。
「かぐら、今なんて思った?」
「…え…?」
「あったかいなーって、思ったでしょ?」
優しく無邪気な顔で笑う彼の手は、暖かい。
冷え切った私の手も、だんだん暖かくなっていく。
私と同じくらいの大きさの、男の子にしては小さな手を、じっと見つめる。
「手を握って、あったかいなって思えたら
それは生きてる証なんだよ。
それに、ほら。
かぐらの手も、あったかいよ」
言われて、自分で自分の手を握ってみた。
─────血がちゃんと、巡っているような温もりを感じた。
もう…限界だった。
堪えていたものが溢れ出し、頬を濡らす。
そんな私を、彼は黙って抱きしめてくれた。
私って、泣いてばっかだ。
今まで泣いたことがなかった。
ううん…分かんない。覚えてないだけで、きっと赤ちゃんの頃は泣いてたんだろうな。
でも、ここに来てから、私の心は揺さぶられてばかりだ。
優しい人に囲まれて、泣ける心を取り戻した。
ちゃんと生きてるって、教えてくれる人がここにいる。
「かぐらは生きてる。ちゃんとね。
僕は君を、一人にしない。
かぐらの夢の中の悪いやつは、僕がみんな倒してあげる。
だから…安心して」
初めて試衛館に来た夜、先生にも言われた言葉。
師弟って似るんだな。その口から出る言葉も、纏う空気も、温もりも、全部そっくり。
────涙で頬を濡らしたまま、私はいつの間にか再び眠りに落ちていた。
朝起きた時は、覚えがないのに元通り綺麗に布団がかけられていた。
きっと、宗次郎さんだろう。
あの夢を見る夜は、この日を境に少しずつ減っていった気がする。
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