第7話 宗次郎さん
年が明け、1856年。
試衛館の敷地自体はとても広く、庭には大きな桜の木が植えられていた。
春になると、それは美しい桜が咲くんだと宗次郎さんは言っていた。
私の恩人、嶋崎勝太先生とその養父近藤周助先生、養母のふでさん。門弟の井上源三郎さん。そして、沖田宗次郎さん。
その他ほんの数名の門人と食客を抱えて賑わっていた。
私の仕事は、道場内や敷地内の掃除、炊事の手伝い、洗濯や買い出しなど、基本何でもやった。
奉公人といっても、私は何も知らない子供だ。
だから、分からないことだらけだった。
寺子屋に通っていたわけではないから、文字は読めない、書けない。
ずっと吉原にいたから、一般常識も知らない。
とにかく、毎日を懸命に過ごした。見捨てられないように。
ここで暮らしていけるように。
私に初めて優しくしてくれた先生に、厄介だと思われたくないから。
試衛館で暮らし始めて、1週間が経った。
私は相変わらずあまり心から馴染めず、一歩距離を置いて暮らしていた。
嶋崎先生や周助先生はとても優しい人だけど、どうしても大人の男の人が怖くて、大人の男の人と積極的に関わることができず、何となくびくびくしながら暮らしていた。
だから私は、歳が比較的近い宗次さんにずっとくっついていた。
街はまだ年明けの雰囲気が抜けておらず、ひどく賑わっているように思う。
私は、真っ青に光る空の下で洗濯物を干していた。
丁寧に皺を伸ばしてから、再び皺にならないように気を配って竿に干す。これが私の試衛館での仕事のひとつだ。
「…」
ただ黙って、黙々と大量の洗濯物を捌いていく。
「か〜ぐ〜ら!」
明るく間延びした声。誰かはすぐにわかった。
「…宗次郎さん」
「ねぇかぐら、すっごい顔してた」
「え」
にこにこ顔を自分の指でつねって、おかしな顔を作り出す。
「こぉんな顔してた」
「そんな変な顔っ、してません」
抑揚のない声で言うと、私は軽く俯く。
上手く表情を作れない。私は笑うことが苦手だ。
今まであんまり笑ったことがないから。
嫌なことを思い出しそうになって、私は洗濯物をたらいから出して皺を伸ばした。
終わりの見えない大量の洗濯物。
仕事がたくさんあった方が嬉しい。
嫌なことを、余計なことを考えなくて済むから。
宗次郎さんは、私と同じようにたらいから洗濯物を取り出して、ぱん、と皺を取った。
「僕も手伝っちゃお〜っと」
「…どうも」
彼は試衛館の中では最年少で、数少ない試衛館の面々から弟のように可愛がられていた
13歳の割には小柄な背丈を懸命に伸ばして、洗濯物を干すのを手伝ってくれている。
彼はとても器用なのだ。私よりも何倍も素早く、手際よく干していく。
「ねぇかぐらはさ」
「?」
誰のものとも知れない大きな道着を竿に掛けて、彼は続ける。
「剣術やらないの?」
「は…?」
唐突に、なぜ?
だってさ〜、と彼は唇を尖らせ、愚痴をこぼすように言う。そんな仕草ひとつひとつが、何とも可愛らしく、あざとい。
「僕、てっきりかぐらは一緒に剣術やってくれるものだと思ってたんだもん。
それに、よく見てるでしょ?稽古」
実は、そうなのだ。
彼の言う通り、私はみんなの稽古をしている様子を仕事の合間に見ていた。
剣術をやっているときの嶋崎先生は本当にかっこよくて、密かに憧れていた。
でも、女が剣術に興味を持っているなんておかしな話だ。私は彼の言葉を否定した。
「…見てないよ」
「ぜったいウソだぁ」
「ほんとです」
「ふーん」
彼は悪餓鬼みたいに笑うと、手慣れた手つきで次々と洗濯物を干していく。
私も負けじと、なるべく素早く干していく。でも、ぐちゃぐちゃになってしまって結果として二度手間を被ってしまった。
うまくいかない。
せっかく役目を与えてもらったのに、それすらも満足にできない。
私って、何でダメな人間なんだろう。
気分が、落ち込んだ。
慰めるように、私の隣で雀が鳴く。
「最初に皺を取るときは、軽くでいいんだ」
宗次郎さんが、小さめの手拭いを干す。
私はその様子を、黙って見ていた。
「竿にかけた後に、こうやって横に引っ張って、上から下に伸ばしていくの」
丁寧に、ゆっくりと宗次郎さんは教えてくれる。
やってみて、と、洗濯物を手渡された。
言われた通りに干していく。
少し時間はかかったけど、いつもより綺麗に干すことができた。
ぴしっと皺が伸びた、真っ白な洗濯物が風に靡く。
「上手だよ、かぐら」
宗次郎さんが笑った。
太陽に負けないような、明るい真っ直ぐな笑顔。
綺麗だな。
私には、眩しすぎるくらい。でも…
この人の笑顔が、私を支えてくれる気がした。
私も、明るくなりたい。
剣術を始めてみたら、この人みたいになれるのかなぁ。
ざあっ、と、突風が吹いた。洗濯物が飛びそうになり、私は慌てて押さえる。
「へっ、くしょぃ!!」
宗次郎さんが大きなくしゃみをした。
「うぅっ…寒い。早く終わらせちゃお!」
「うん」
微笑みながら鼻をすするその姿が何だかおかしくて、自然と笑みが溢れてしまった。
「かぐらが笑った顔、初めて見たかも」
「───え?」
隣で宗次郎さんが、ぽつりと言った。
「ふふ。
ううん、何でもなーい」
そう言って彼は、目を三日月みたいに細めて嬉しそうに微笑んだ。
私はコツを理解すると表情を作る余裕が生まれた。
宗次郎さんはよく分からない鼻歌を歌いながら、ご機嫌に洗濯物を干し続けた。




